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緩慢な所作で首を横に振る井坂の表情はいまにも泣き出しそうで、それでも口元に湛えた笑みは消えなかった。頬に触れていた手が離れ、テーブルの上に下ろされる。軽く握るように折り曲げられた指は、微かに震えていた。
「さっきハルが追いかけてこなかったこと、仕方ないって思ってた。私が知ってるハルなら、私がなにも言わなきゃ、あのまま終わらせてたよね」
「…そうだな」
「いま、ここにハルがいるのが不思議なくらいだよ」
「…………」
「…好きな人でも出来たの?」
突然の問い掛けに、ほんのわずかながらも瞠目したことを、井坂は見逃さず小さく笑った。
「やっと恋する気持ちがハルにもわかったかぁ」
からかうように明るい声が告げてくる。
「それが私じゃなかったことが悔しいけどね」
一瞬歪んだその顔はすぐに少し切なさの浮かんだ、それでもいつも通りの笑顔に変わっていた。
「ちゃんと、相手に好きって言った?」
「いや…言ってない」
「ダメだよ、ちゃんと伝えなきゃ」
尖らせた口で叱りつけられ、浮かぶのは苦笑だ。
まるで友人同士の会話のように話す井坂の気遣いが、痛いほどに伝わってくる。
こんな自分とまだ友人としての関係を繋げようとしてくれている。その気持ちを台無しにしたくなくて、これまでの空気を変えるように笑ってみせた。
「あ〜、なんかダメな子を持った母親の心境。まさかハルが本気になれる人みつけるなんてね」
「お母さん、苦労かけてゴメン」
「本当に!幸せにならないと許さないんだから」
「いっ…」
テーブルの上に置いていた手の甲を摘まんで捻られ、皮膚の引き攣れる痛みに顔をしかめる。捻り上げられたところが赤くなって、ジンジンと熱を持って痛んだ。
「いま、本気で抓っただろ」
「愛の鞭は痛いのよ」
コーヒーを飲みながら涼しい顔の井坂を睨むと、そのあと二人で笑い合う。
「ねぇハル。これは友達として聞いてもいいかな」
「なに?」
「好きな人ってどんな子なの?」
突然の尋ねに笑っていた頬が固まった。好きな相手が同性なことに対して戸惑ったわけじゃなく、告げてもいいのだろうかという迷いからだ。
どうしたものかと迷いチラと見やれば、こちらの考えを察したのか井坂が微笑む。
「言ったでしょう。私はハルの母親でもあり友達でもある心境なの!まぁ、正直ちょっと複雑なんだけど、でもハルが好きになれた相手だもん。純粋に興味があるのよね」
大袈裟に口をへの字に曲げて肩を竦めると、答えを促すかに手が軽く叩かれる。
「八嶋先生」
「…八嶋先生?それって前にカフェで会った人?」
さすがに驚いたのか井坂の目が丸く見開かれた。その八嶋だと肯定に首を振ると、それを見た井坂が驚きの表情を緩ませ、頬杖をついてにやりと口角を持ち上げる。
「なんか納得しちゃった。ハルってば甘えてたもんね」
「はぁ?なんで俺が…」
「ポンポン遠慮なく言えるのは相手に気を許してる証拠でしょ。ハルがあんなに素で接してるなんて珍しいと思ってたんだよね。そっかぁ〜、八嶋先生かぁ」
「…あんまり言わないでくれる?俺だって不本意だから」」
「別にいいでしょ。私的にはオッケーだよ。うん、他の女にとられるよりも、男にとられたほうがいいもん」
「そういうもん?」
「女心は複雑なの」
ふふ、と楽しそうな笑いを零し一人納得したように頷いた井坂が、残っていた珈琲を飲み干し鞄を手に立ち上がる。
「コーヒー代はハルの奢り」
ポンと肩を叩かれ頷くと、よしっ、と息をついて明るい笑顔が向けられた。
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