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一日の業務を終え、保健室の戸締りを確認して部屋を出た。同時に開いた職員室のドアを横目に見ると、目が合った相手が早足でこちらに近づいてくる。
たしか今年の春に赴任してきた化学教師で、滝村という名前だったか。まだ学生といっても通じるだろう童顔に情けない表情を浮かべた滝村に名前を呼ばれ、面倒事の予感に思わず眉間に皺が寄った。
「佐野先生、お願いがあるんですが」
「はぁ…、なんでしょう」
聞きたくないといえど無視するわけにもいかず、それでもいやがる空気を出すため、部屋の施錠をしながら尋ねた。
そんな佐野の態度に気づいていないのか、それとも気づいていても気にしていないのか、滝村は手に持っていた本を顔の高さに掲げペコリと頭を下げる。
「これを八嶋先生に渡しておいて欲しいんですよ。今日中に返して欲しいって言われてたのに俺すっかり忘れてて」
八嶋、という名前に眉をさらに顰めた。
かけ終えた鍵をスーツのポケットにしまい、断わりを告げて立ち去ろうとするも、腕を掴んで引き止められてしまう。
「なんですか、ちょっと離して下さい。本くらい自分で返しにいけばいいじゃないですか。この時間なら、教官室にいますよ」
「そうしたいんですけど、彼女がもう学校まで来てるみたいで。約束してた時間過ぎちゃってて、すげぇ怒ってるんですよぅ…これ以上待たせたら怒って帰られそうなんですっ。せっかくやっとのことで口説き落として付き合えたのに、佐野先生!」
「…わかりました。わかりましたから離して下さい」
掴まれた腕に痛みが走った。なにがなんでも逃がさないといった必死の形相の相手に強い口調で名前を呼ばれ、うんざりしながら了承の返事を返す。
何度も礼を言うと走り去る滝川に、強引に押しつけられた本を投げつけてやりたい心境だったが、専門書らしいその装丁に踏みとどまった。
専門書には高価なものが多い。こんなことで弁償しろといわれては馬鹿馬鹿しい。
重い足どりで三階まで階段を上る。廊下の奥にある化学教官室と書かれたプレートを見上げ、少し躊躇うも意を決して軽くドアを叩いた。
留守ならいいと思う願い虚しく、なかからどーぞっと間延びした返事が聞こえてくる。
「…どうしたんだよ。ここに来んの久しぶりだな」
ドアを開けると、振り返った八嶋が垂れ気味の目をわずかに瞠った。気まずさに堪えられず、持っていた本を掲げてみせる。
「滝川先生にこれ返しといてくれって頼まれたんです」
「自分で返しに来いってのに。悪ぃな、お遣いさせて。礼にコーヒーでも飲んでけよ。ちゃんとおまえが前に持ち込んだマグカップで淹れてやるから」
入れと促されても一向にその場を動かずにいると、八嶋が訝しげにデスクを立とうとした動きを止める。問い掛けるように向けられる目に、デスク傍まで行くと持ってきた本を手渡した。
礼を告げる相手に小さく会釈だけを返し、背を向ける。長居する気はないと早々に帰ろうとして、後ろから追いついてきた八嶋に入り口のところで捕まった。
引いて開けるドアを押さえられ、腕のなかに捕らえられたかたちになる。
「なんで避けんだよ」
耳のすぐ近くから聞こえた声に、心臓が一際強く打った。頭に血が過剰に集まったように眩暈を覚える。
白衣に染みついた煙草の匂いが鼻先を擽った。密着した体にドアノブを持つ指が震える。
「どいて下さい」
やっとの思いで口にした懇願を、八嶋が聞き入れてくれる様子はない。
「嫌いになったか?」
「なに言ってっ」
「俺がおまえのこと好きだって知って、避けてたんだろう」
好き?
そんなことは一度も言われていない。
なにも言わずにずっと放っていたのは、そっちじゃないか。
限界だった。
狭い隙間で体を反転させると両腕を力任せに突き出し、八嶋の体を突き飛ばした。不意打ちに踏み止まることが出来なかった八嶋は、渾身の力に大きく後ろによろめく。
「ちょっ!佐野先生っ」
床に尻餅をついた状態で呆然と見上げてくる相手を振りきり、障害のなくなったドアを開けて廊下に飛び出した。
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