Y&Sシリーズ | ナノ


▼ 12

「いや、気をつけて帰れよ」
「用がないなら呼び止めないで下さい」
「つれねーな。どうしてそう可愛くないの」

やれやれ、といった態度で溜息混じりに言う。そのふざけた調子は、いつもとなんら変わらない。
以前ならここで一言くらいの皮肉を返していたが、いまはそんな気にもなれず一瞥を投げるだけで踵を返した。今度は呼び止める声も、追いかけてくる様子もない。
あまりにも変わりない相手の態度に、土曜日の出来事が夢だったのでは思える。夢であるはずがないことは、手にもった紙袋が物語っていたが、それでも夢だと思ったほうが気が楽だった。
あれからずっと答えが出ないでいる。
家にいるあいだも、仕事中も、気がつけば土曜日のことばかりを考えていた。

八嶋は自分のことが好きなのだろうか。
考えるたびに、何度もそこに辿りつく。だとしたらなぜ、なにも言ってこないのだろう。
好きだというのなら、もう少しそれらしい振る舞いがあってもいいはずだ。
人をこれだけ悩ませておきながら、飄々としている八嶋に段々と腹が立ってきた。
渡された紙袋を思わず握り締める。乾いた音を立ててクシャクシャになった袋を見て、途端に冷静さが戻った。溜息が出る。

別にいいじゃないか。好きだと言われたところで、困るのは自分だ。向こうがなにも言ってこないなら、なにもなかった。それでいい。
わざわざ蒸し返すことはない。あとは自分さえ、犬に噛まれたとでも思って忘れてしまえばいいのだ。
脳裏に苦しげに歪んだ八嶋の顔がよぎったが、無理やりに追い払った。






人の脳は不便に出来ている。
覚えようとしても簡単には覚えられないというのに、忘れようと思ってもなかなか忘れられない。
自分の意思で脳を制するのは難しいらしい。昨日食べた夕食の内容は、思い出せないときがあるというのに。
長袖のシャツだけでは肌寒さを感じるときもあった5月から、蝉の声がうるさく耳につくころへ季節は移り、そして夏が過ぎて佐野の勤める籐靖も二学期を迎えた。
9月末にある修学旅行を間近に控え、養護教諭として同行することになっている佐野も、3年生の担当教員らと同じく最近は旅行の前準備で忙しかった。
春のあの出来事は季節が変わったいまでも記憶から消えることはなく、化学教官室へ煙草を吸いに行くことなくなっていた。
ことあるごとにちょっかいをかけにきていた八嶋も、佐野の変化に気づいてからは必要なとき以外は話しかけてこなくなった。
今日も修学旅行の件で少し話しはしたが、前のように軽口を叩き合うこともなかった。
八嶋はなにも言ってこない。それどころか気にしている素振りさえない。

最初は八嶋の気持ちがわからず悩みもしたし、気まずく感じて避けるような態度をとっていたが、いまではそんな相手の態度にイラつくことのほうが多かった。
気づけば目が八嶋を探している。腹が立っているのに気になって仕方がないのは、中途半端に放り出された状態だからだろうか。
ひきずっているのは自分だけで、八嶋はなんとも思っていない。そうとわかっていても、忘れられず振り回されている自分が情けなかった。

「倖ちゃん!」

思考に沈みながら歩いていたようで、いつの間にか自宅のアパートの前まで来ていた佐野は、上から聞こえてきた声に顔を上げた。
ショートカットにした髪を明るい色に染めた、Tシャツにジーンズ姿の少女が通路の手摺から身を乗り出すようにして手を振っている。

「秋…お前なにやってんの?」
「倖ちゃん待ってた」
「そんなこと聞いてんじゃねえよ」

階段を上がって部屋の前まで行くと、玄関の前に置かれたスーツケースが目に入った。
またかと思う。

「しばらく泊めて!」

やっぱり。
人懐っこく笑い、両手を合わせてお辞儀する少女に嘆息が洩れた。
佐野秋。
今年高校を卒業したばかりの7つ下の妹で、年が離れているせいか、ついついこの妹に対しては甘くなってしまう。そのことを見抜いているのか、秋はことあるごとに一人暮らしの佐野の家に転がり込んでくることがあった。

「ねぇ、倖ちゃん。お願いーっ」


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