Y&Sシリーズ | ナノ


▼ 11

荒い呼吸に肩を揺らしていると、乱れて顔にかかった髪を八嶋の指が払う。
親指の腹で目の縁を優しく辿られ、自由になった口で怒鳴りつけようとしたが、気がそがれて押し黙った。

「俺は、好きな相手なら触れたい衝動に駆られるときもあるし、会いたくなる」

切なげに告げられた言葉より、見たことのない表情に歪んだ顔が頭に血を昇らせた。
告げられた意味を理解する前に、咄嗟に相手を押し退けると置いてあった上着を掴んで部屋を飛び出す。
玄関を出てしばらく走った。肺が破れそうな痛みに足を止めて後ろを振り返る。
八嶋が追いかけてくる気配はない。
道端でスーツを乱し、苦しげに息をついている佐野を、遠巻きに見ながら何人かが通り過ぎていく。
これ以上、人目をひくのも煩わしく、スラックスから出たシャツを直して上着を羽織った。

「……くそっ」

昨日はしていたはずのネクタイがない。それどころかスラックスのポケットに入れていた財布もない。
八嶋の部屋だ。けれどいま、取りに戻る気にはなれなかった。
顔を合わせられるわけがない。さきほどの出来事を思い出し、カッと顔が熱くなるのを感じて、意識的に頭のなかから追い出す。
それでも唇に残った感触が消えず、乱暴に手の甲でその名残を拭おうとした。
強く擦りすぎたせいで薄い皮膚が切れ、ピリッとした痛みが走る。
わけがわからなかった。冗談にしては質が悪い。かといって嫌がらせでされたとは思えない。
痛みを堪えるような、そんな顔をしていた。
いまさらながら八嶋の言葉が思い出される。

――― 俺は、好きな相手なら触れたい衝動に駆られるときもあるし、会いたくなる。

この意味は。浮かんだ答えをすぐに否定する。
そんなはずがない。でも…。
堂々巡りする疑問と答えに、しばらくその場を動くことが出来なかった。






予定していた作業が終了したのは、午後6時過ぎ。
集中力が続かず、細かいミスばかりしていたせいで、思っていたよりも時間が掛かった。
特に最後、印刷を開始したプリントの統計数値が間違っていたことで、どっと疲れが出た。
全部刷る前に気づいたからよかったものの、全部数を印刷したあとだったなら、ちょっとした惨事だ。
パソコンの電源を落とし、手早くデスクの上を片付けると、白衣を脱いでロッカーにしまう。代わりにスーツの上着を羽織ると、帰り支度を終わらせ保健室を出た。
グランド近くの廊下を通ると、クラブ活動をしている生徒の声が、放課後の静かな校舎に聞こえている。微かに聞こえる音楽は、音楽室から聞こえている吹奏楽部のものだろう。
靴を履きかえ、グラウンドの横を通り校門に向かう。外は陽が伸びた季節のおかげで、冬のような暗さではないものの、夕刻の気配を漂わせていた。

「佐野センセ」

背後から声をかけられ足を止めると、振り返った先にいたのは八嶋だった。いつから後ろにいたのか、気配をまったく感じなかった。それも当然で、あがった息をみると走って追いついてきたのだろう。

「…なんですか?」

無意識に声が強張る。今日一日、極力接触しないよう逃げ回っていたというのに、最後の最後にこんなところで捕まるとは思ってもみなかった。
それよりも土曜日のことがあったというのに、平気で声をかけてくる八嶋の神経を疑う。

「おまえ、この前うちにネクタイと財布忘れてったろ。返そうと思ってよ」
「ああ…」

ネクタイはともかく財布は必要だ。現金の他に銀行やクレジットカードも入っていたし、週末、今日と、えらく不便な思いをしたのだ。礼を言って差し出された紙袋を受け取る。

「それじゃあ…」
「佐野先生」

儀礼的な会釈をして立ち去ろうとする佐野を八嶋が呼び止めた。無視して帰るわけにもいかず、もう一度足を止めて振り返る。

「まだ、なにかありますか?」

表情なく問えば、なにか言おうとした口元が歪められたように見えたが、見間違いと思えるほど一瞬のことだった。何事もなかったように八嶋が緩く笑う。


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