▼ 6
衝動というよりは、流れ的に唇を重ねる。唇を押しつけるだけのキスで井坂から離れると、ソファを立って上着を羽織った。
「泊まっていけばいいのに」
「明日仕事だし、朝に家帰んのも面倒だから」
泊まるとなればさっきの続きをすることになると思うと、自然と断わりの文句を口にしていた。
そんな気にはなれなかった。なにがなんでも出来ないのかといえば、そういうわけでもなかったけれど。とりあえず今日は帰って、一人でゆっくり寝たいという気持ちのほうが強い。
こういうとき、井坂は執拗に引き止めてこない。
今日もそれっきり引き止めることはせず、じゃあまたね、と笑いながら見送ってくれた。
「それでおまえ、そのまま帰ってきちまったのか?」
「ええ」
驚いたように聞いてくる八嶋に、マグカップに入ったコーヒーを啜りながら頷く。
金曜日の昼休み。
煙草を吸うついでにと購買でパンを買って化学教官室を訪れたのだが、いつの間にか話題がこの前の井坂との話になっていた。
マグカップは佐野が持ち込んだものだ。
「俺がおまえの彼女なら、確実にそれ凹むわ」
八嶋が目の前で盛大な溜息をつく。
「気色の悪いこと言わないで下さい。こんな髭面の彼女なんていりません」
「そういうこと言ってんじゃねえだろうがよ」
「わかってます」
もちろんわざとだ。八嶋が言っている意味はわかっている。
何度となく周りから言われていることだし、自分でもそう思っていることだ。
「俺、恋愛感情ってのが薄いんですよ。一緒にいたいとかも思わないし、リアルな話、やりたいともあんまり思わないんですよね」
マグカップを置いて食後の一服にと煙草に火をつける。ふと八嶋を見ると、憐れむような目が向けられていた。露骨に不快を顔に出して、憐れみに満ちた顔を睨みつける。
「インポじゃねえよ」
「あ、なんだ」
つまらなさそうに言う八嶋から目を逸らし、膝の上に開いた本に目を落とした。こんなことで怒っていたら、この相手とは付き合いきれない。
「でも、好きならなんかあんだろ。触りたいとか思わんの?」
くわえ煙草で隣に座ってくる相手に、本を眺めたまま佐野は顔も上げず首肯する。
男二人が座るとソファは狭かったが、退けと文句を言おうにもここは八嶋に権利がある。
自分が退くのも癪で、結局狭いソファで二人並んで座るはめになった。
スキンシップが好きなのか、八嶋はよくこうしてくっついてくる。始めのうちは抵抗を試みたものの、最近では慣れなのか諦めなのか、スキンシップの許容範囲が広がっていた。
「あまり思いませんね」
「俺なら好きな奴には触りてーけどな」
横目に八嶋を見る。声のトーンが変わったように感じたのだが、見やった相手はいつものとおり、しまりのない顔で煙草をふかしている。
気のせいかと再び本に視線を落とし、ページを捲った。
「そういやおまえ、今日の帰り用事でもあんの?」
「帰りですか?いえ、特には」
「じゃあ飲みにでも行くか。昨日浮いた金で優しい八嶋先生が奢ってやるよ」
「…………」
黙り込んだ佐野に訝しげに八嶋が眉根を寄せる。
「なんだよ?」
「いえ、聞き間違えたかと。どうしたんですか、珍しいですね」
八嶋の口からそんな誘いが出るとは思っていなかった。
煙草の火種を灰皿で揉み消し本を閉じて脇に置く。目は字を追ってはいたが、さっきから内容が一つも頭に入っていない。
prev / next