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以前に一度、八嶋がここでコーヒーを出してくれたのだが、差し出された容器が実験用のビーカーだったことがあった。
マグカップがないからと湯呑に入ったコーヒーを出されたことはあるが、ビーカー入りのコーヒーを出されたのは生まれて初めてで、結構な衝撃だった。
「腹、壊しそうだし」
「コーヒー用と実験用は、ちゃんと分けてあるから大丈夫」
そんな気づかいをするくらいなら、普通にマグカップを使えばいいんじゃないのか。
「視覚的に無理」
ビーカーに入ったコーヒーなんてちょっと気持ち悪い。そんな感覚が理解出来ないのか、八嶋は心外だとばかりに眉をひそめる。
「我儘言うなって。飲めば普通のインスタントコーヒーだろ」
「飲んで違う味がしたら、それこそヤバイでしょうが。マグカップくらい置いて下さいよ」
溜息をついて伸びた灰を灰皿に落とす。細く立ち昇る紫煙をさけて細めた目で、壁にかかっている飾りもなにもない時計を見上げた。
そろそろHRが始まる時間だ。
佐野とは違い、八嶋は3年の担任を受け持っている。のんびりしていていいのかと、窓際に居座り煙草をふかしている相手を見た。視線を感じて振り向いた八嶋が軽く首を傾ける。
「行かなくていいんですか?」
尋ねれば八嶋が壁の時計を見る。
「別にたいした連絡事項もないし、少しくらい遅れてもいいだろ」
「ほんと、適当ですね」
「几帳面にやってたらそのうちハゲる」
怠惰に窓際に凭れた八嶋がしれっと言ってのける。
「そんな繊細に出来てるようには見えません」
「失礼な。俺はこうみえて飴細工ぐらい繊細に出来てんだよ」
それをいうならガラス細工だろう。言動まで適当だ。
「それより昨日は悪かったな。デート邪魔だったろ?」
突然の話の転換に詫びの意味がわからず、灰を落とそうとした手が止まった。そのあとに付け足すように言われたデートという単語に、昨日、井坂と一緒のところに八嶋と出くわしたのを思い出す。
「いえ、別に」
「素っ気ないな。邪魔しやがってこのハゲ、くらいは覚悟してたんだけど」
「どんだけ子供ですか、俺は。八嶋先生と違って大人なんです」
フィルターを噛みながら鼻で嗤ってやれば、片眉を上げた相手が可愛くないとぼやいてくる。
いつもどおりの軽口の叩き合いだ。この程度で気分を害することはない。それは八嶋も同じだろう。飄々とした態度で煙草をふかしている。
「で、昨日は勝ったんですか、パチンコ」
井坂の話題を続ける気はなく、八嶋の寝不足の理由を思い出して、常から聞き慣れた質問を投げた。
眉間に皺のよった顔で無視をきめこむ相手に、昨日の勝敗はあきらかで、
「どうせ負けるなら、行かなきゃいいじゃないですか」
「俺がいつも負けてるみたいに言うな」
溜息混じりに言う佐野に、間髪おかず八嶋の拗ねた反論が飛んでくる。
「負けてますよね」
「そんなことない!たまには勝ってるっ」
「なにをムキになって…」
「縁起が悪いじゃないか。あんまり負ける負ける言われると、今日も負けそうだろう」
呆れた。今日も行く気なのか。
そんなことをやっているから給料日の前後関係なく、金がないとぼやくことになるのだ。
「まぁ、八嶋先生が勝とうが負けようが、俺には関係ないですけどね」
にべなく言い捨て煙草を消してソファから立ち上がる。HRが始まる時間はとっくに過ぎている。
早く行くように八嶋を急かすと、ようやく教室に向かう準備をしだした八嶋をおいて教官室を出た。
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