※もし夢主が死んだらというルートのうちの一つの話です。


トーストの芳ばしい匂いが鼻腔を擽ってきたので目が覚めた。
匂いにつられるように、ベッドから出てリビングへと向かうと私の姿を見つけた彼女が笑顔を向けてくる。

「あ、ナナミンおはよー」
「……おはようございます」

いつも私より後に起きる彼女が、珍しく先に起きて朝食の準備をしている。珍しいが、たまにこういうことをするのが彼女だ。

「朝ご飯出来てるからどーぞ」

テーブルの上にはサラダ、トースト、スープ、デザートまで綺麗に用意されていた。
彼女が先に起きていたこと以外は、普段とは何ら変わらない朝の光景だというのにひどく懐かしいものに感じる。

「ナナミンはコーヒーだよね」

キッチンから私のマグカップにコーヒーを淹れて持って来た彼女が、私の席へとマグカップを置く。
未だ立ちっぱなしの私に、不思議そうな視線を向けてくる。

「もしかしてお腹減ってない?」
「いえ……そういうわけでは」
「じゃあ、具合悪い?」

私の目の前にやって来ると、少しだけ背伸びをして私の額に彼女の手が伸びてきた。ひんやりとした彼女の手が額に触れる。

「うーん、多分熱はないと思うけど……」
「……」
「お腹痛いとか?」
「いえ……」
「あ、悩み事?」

何故だろう、その言葉が妙に腑に落ちた。

「そうかもしれません……」

そう言って目の前の彼女を腕の中に閉じ込めた。
彼女を抱き締めた感触が随分と久しぶりに感じる。それ程までに、私は彼女に触れていなかったのだろうか。このところ特別に忙しかったわけではない気がするのだが。

「名前」
「なあに」
「……側に、いてください」

今彼女は側にいるのに、何故真っ先にその台詞が出てきたのか自分でも分からない。ただ、妙な焦燥感と不安だけが私を駆り立てている。

「……」
「名前?」

何も言わない彼女の顔を腕を緩めて伺えば、そこには困ったように今にも泣き出しそうな表情をした彼女がいた。

「ごめんね……」

瞬間、ぐにゃりと彼女が、空間が歪む。
待って、と口にする前に全てはなくなってしまっていた。
気が付けば、ベッドの上で虚しく伸ばした腕だけが宙を切ってきた。

「夢か……」

そうだ、思い出した全て夢だ。
何故なら彼女はもうこの世にいない。起き上がり、隣を見る。本来なら彼女がいるそこには誰もいない。
夢でのように、彼女が先に起きて朝食を用意しているわけではない。亡くなった人間にそれは不可能なことだ。
ベッド脇のサイドテーブルに置かれたスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。画面には、彼女の命日である日付が表示されていた。
一年前の今日、いつもと変わらず行ってきますと出て行った彼女はそのまま帰らぬ人となった。
その日、お互いの任務が終わったら、帰りにディナーに行く約束をしていた。以前、会話の流れで彼女に先を越されてプロポーズをされてしまったので、後できちんと私からプロポーズをさせてほしいと約束していた。その約束を果たそうとしていた矢先のことである。
彼女に渡す指輪を用意して、彼女が好きそうなレストランに予約をしていた。結果、指輪を渡すことは出来ずレストランの予約もキャンセルした。
お互いの職業柄いつの日かどちらかが先立つ日があるかもしれないと覚悟はしていた。覚悟をしていても、それよりも彼女を失ってしまった喪失感が容易く上回ってしまう。
二度と、彼女に会うことはない。声を聞くことはない。私の名前を呼ぶことはない。会話をすることはない。笑顔を向けてくれることはない。触れることはない。と、二度と出来ないことばかりを考えてしまう。
渡すことが出来なくなってしまった指輪は、ディスクの引き出しの中で眠ったままだ。
指輪だけではない。この家に残る彼女の痕跡は全てそのままになっている。彼女はもう帰って来るはずがないことは分かっているのだが、それでもある日何一つ変わらずにただいまと帰ってくるのではないかという期待をしてしまっている自分がいる。
我ながら女々しいと思う。だが、きっと彼女のことを忘れるには私の中であまりに彼女という存在が大きくなりすぎていた。私が高専を離れていた期間を除いても、彼女とは多くの時間を過ごしてきてしまっている。
再び、スマートフォンで時刻を確認する。先刻から十分経過していた。
休みを入れているため急いではいないが、彼女がお気に入りだったケーキ屋で彼女が好きだった数量限定のケーキを買うためにあまりゆっくりもしていられない。
それを買って、今日は彼女の墓参りへと行く予定だ。
未だ夢の余韻が抜け切れない身体でゆっくりとベッドを後にする。
丁度、彼女が亡くなってから一年という日に、生前であれば何てことのない日常の夢を見てしまうとは、いや、見せられたのかもしれない。

「本当にアナタは昔からずるい人ですね」

独り言に返ってくる言葉はない。
以前より広く感じる家に私の声だけが虚しく響いた気がした。


2020/08/18

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