アヴドゥルは困っていた。
今宵、一晩泊まるホテルの部屋で各々過ごしていたはずだった。はずだったというのも、現在アヴドゥルの部屋には名前がいるからである。
少し前にアヴドゥルの部屋のドアが控えめにノックされ、ドアを開けるとそこにはバスローブ姿の名前が立っていた。
その時点で、名前を部屋に通さなければよかったのだが、深刻そうな面持ちで、話があるの、ちょっと長くなるかも、と言うから仕方なく部屋へと通してしまった。自覚はしているのだが、どうにもアヴドゥルは名前に対して弱いところがある。
部屋に入れてしまった時点で既に遅いのだが、入れなければよかったとアヴドゥルは現在進行形で後悔していた。
そんなアヴドゥルの気は知らず、名前はベッドへと座っているアヴドゥルの膝の上に乗り、向かい合うように座っていた。
着ていたバスローブは乱雑に床に脱ぎ捨てられ、黒いベビードール姿の名前が妖艶な笑みを浮かべている。透き通るような名前の白い肌に、対照的な色であるベビードールの黒が更に名前の色気を醸し出していていた。加えて、女性らしい膨らみを強調するように名前はわざとそれを押し当ててくる。
アヴドゥルがなるべく視線を向けないようにしたところで、どうしても視界に入ってくるし、目の前の名前はわざと密着させてくるため、いくらアヴドゥルが気を使おうとも全ては無駄な努力である。
はあ、と長めの溜息を落とし息を吸うと、名前が纏っている甘い花のような香りがアヴドゥルの鼻腔を擽ってくる。これもわざと、そういう香水をつけてきているのだろう。
部屋へと入ってきてからこの状態になるまでの名前の言動全てが手慣れていた。名前に押されるがまま気づけば現在の状況になっていた。おそらく、今まで何度も何度もこういう場面を熟してきたのだろう。

名前は、ロシアの機密機関の元特殊工作員である。
戦闘全般は勿論、男を油断させ近づき惑わし騙す、時に必要な情報を得るため、時には暗殺するため、幼少の頃から全てを叩き込まれてきたのだという。最もそれらを使わなくとも、名前自身の美しさに惑わされる男はたくさんいるだろう。
綺麗な金色の髪、青い瞳、整った顔立ち、透き通るような色白の肌、艶かしい身体つきと全てが洗練されている。
そんな美貌の持ち主である名前が、現在進行形でアヴドゥルの目の前で挑発的な瞳を向けて誘ってくる。
すっと名前の目が細められると、形のいい唇がアヴドゥルのそれへと近づいてくる。見惚れかけていたアヴドゥルだったが、唇があと少しで触れそうな距離で名前の肩へと両手を置き引き離した。

「アヴドゥル……」

名前から不満そうな声が漏れる。

「な、何だ……」
「私がここまでして手を出してこない人は初めて。ねえ、どうして止めるの?どうして抱いてくれないの?」

整った顔が不機嫌さを隠さずに歪む。
同じようなやり取りをしたのは何度目だろうと思い返してみる。
名前は、最初DIOに操られていた。エジプトに特殊工作員として潜入していた時に、DIOに会い肉の芽を植えられたのだという。
他の刺客同様に、アヴドゥル達に近づいて来た名前だったが元々が特殊工作員ということもあり、それを存分に活かして接触してきた。
とある町で、たまたまアヴドゥル達が通りがかった際に数人の男達に絡まれている一人の女がいた。それが名前だった。名前は、アヴドゥル達を偶然見つけたように装うと、助けてほしいと駆け寄ってきた。言うまでもなく、全て名前が仕組んだ作戦である。
それから共に行動するようになるまでもごく自然の流れだったし、名前がDIOの刺客だったことにも誰一人気づいていなかった。幼少の頃から、特殊工作員として教育されてきただけのことはある。
名前は一切のミスをしなかった。彼女の正体がバレたのは、DIOのとある刺客が名前に向けて言い放った言葉のせいだ。

「名前、さっさとそいつらの一人くらい殺してみせろ。いつまでそいつらと仲良しごっこをしてるつもりだ?」

それがなければ、今もまだ名前の正体に気づいていなかったかもしれない。
では、何故名前が現在進行形でアヴドゥルの前にいて蠱惑的に迫っているのかといえば、答えは簡単である。名前のことを助けたからだ。
名前に植えられていた肉の芽を取り除き、意識を失っていた彼女が目を覚ました時、側にいて彼女に声をかけたのもアヴドゥルだった。

「今後は君の好きに生きればいい」

その言葉に間違いはないし、今まで特殊工作員として生きてきた名前がこれからは彼女の好きなように自由に生きてくれればそれでいいと思いアヴドゥルはそう彼女に告げて別れた。
が、その後に、アヴドゥル達の前に再び名前が現れるとは誰も予想していなかったし、得意げな顔で次の言葉を言ってくるのも予想外だった。

「好きに生きろって言われたから、好きに生きてみることにしたの。それに、借りを作ったままにしておくのは苦手だしね」

旅に再び名前も同行することになったことは構わない。
DIOに操られていた時も、元々の特殊工作員としてのスキルを活かし上手く馴染んでいたし、また彼女が同行することになっても今までとなんら変わりはないだろうと誰もが思っていた。
だが、それは見事に裏切られることになる。
名前は、再び同行してから本気でアヴドゥルを落とそうと特殊工作員だった頃に培ってきたそれらを有効活用して迫っていた。
だから今日のように名前がアヴドゥルを誘惑してくるのは既に数えられないほどになっていた。
アヴドゥルは名前のことが嫌いなわけではない。正直、名前が仕掛けてくるあの手この手に揺らぎそうになったことは何度かある。
しかし、この旅の先で何が起こるのかは分からない。もしも万が一のことがあった場合に、お互いにそういう関係ではない方が後々名前のためにもなるだろうとアヴドゥルは彼女のことを上手く躱し続けている。
名前の様子を見るに、そんなアヴドゥルの想いは全く伝わっていないだろうし、おそらく既に遅いのかもしれない。

「……私のこと嫌い?」

寂しそうな表情で名前は口にする。
アヴドゥルはなんとか耐えてはいるが、先ほどから状況は何一つ変わっていない。アヴドゥルが引き離した身体を名前は再度わざとらしく密着させてきているし、甘い花のような香りも纏わり付くように鼻腔を擽ってくる。
気を落ち着けるように一息吐くと、アヴドゥルは名前の肩をもう一度そっと押し返して身体を引き離した。

「嫌いではない。何度も言っているだろう。他にもっと君に似合う人を探してくれ、と」
「私も何度も言ってるでしょ。あなたじゃなきゃ嫌なの」

むっとした表情をしていたかと思うと、何かを閃いたように名前は着ているベビードールの裾に手をかける。

「分かった。脱いだ方がいいのね」

名前の手がベビードールを捲り上げようとするのをアヴドゥルは慌てて阻止した。
そして、軽々と名前を持ち上げベッドの上へと座らせると、アヴドゥルは自身の着ていたローブを脱いで名前の身体を覆うように包んだ。

「何故そうなる!?君は全然分かっていない。もっと自分のことを大切にしてくれ……」

名前の肌がアヴドゥルのローブに隠れ、ようやく目のやり所に困らなくなりアヴドゥルはほっとして息を吐いた。
名前はというと、アヴドゥルのローブをぎゅっと握りしめるようにして口元を隠すと緩みきった表情を浮かべる。

「あったかい。アヴドゥルの匂いがする……ふふふ……」

幸せそうに笑う名前にアヴドゥルは頭を抱えたくなった。いや、抱えた。
名前には傷つかないような言葉を選んでアヴドゥルが何を言っても効かないだろう。アヴドゥルも名前を傷つけたいわけではない。寧ろ逆だ。名前を傷つけないように突き放そうとしている。全て徒労に終わってしまっているが。
名前が再び旅に加わってから続けてきたこのやり取りは、おそらく名前の勢いに負けてアヴドゥルが折れる日がくる方が近いだろう。


2021/06/07
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