01

 此処がたくさんの人で賑わったのは遠い昔。今は水槽に魚ではなく吹き溜まった呪いが泳ぐ鈍色の廃墟。風に乗って漂う遥かな海の匂いだけが、きっとあの頃と変わらずに残っている。

 壁に右手をつきながら、照明が砕け散った暗い廊下をふらふらした頼りない足取りで歩く。連絡用のスマートフォンを戦闘中に落としてしまった数分前の自分のポンコツぶりが憎たらしい。左手で押さえた腹部から生ぬるい液体が流れるほど、思考に徐々にモヤがかかっていく気がした。効率の悪い私の反転術式では、この傷は深すぎて治せないようだった。できても止血が精一杯だろう。
 どこに向かっているのかすらよく分からないまま、何かに取り憑かれたように漠然と前に進み続けると、客席がずらりと並んだすり鉢状の大きなスタジアムに出た。中心には瓦礫に埋もれた蓋がない大型水槽、天井は朽ち果て穴が空いていて白い満月が覗いている。きっと昔はここでイルカショーでもしていたのだろう。
 何段か階段を降りてみるも動くのが厳しくなってきた私は結局、適当な席に腰をかけて深いため息をついた。手足の指の感覚がかじかんだように鈍くなってきている。真夏なのに頭部を中心に寒気がしてきた。
 これは本当に年貢の納め時ってやつかもしれない。
 じわじわと迫る自己の終焉に恐怖はあまりなかった。
 どう足掻いても一級にはなれない頭打ち気味な力で、それでも呪術界から離れなかったのは、寄る辺のない私が何かの役に立てるのならという願いと、先に散っていった旧友たちの無念から。その果てが任務でヘマして孤立、呪霊に深手を負わされておしまい。呆気ないし、情けないし、今回同行している呪術師の同僚には申し訳ないけど、突出したものがない器用貧乏な私にしてはそれなりに頑張ったんじゃないかとも思う。
 自分の人生も仕事も嫌だったわけじゃないけれど、なんだか妙に肩の荷がおりた気分ではあった。
 いよいよ瞼が重たくなってきたが、特に逆らうことなくゆるゆると目を閉じる。視界が遮断されると、安堵と共に体が夜の闇と静寂にじわじわ溶けだしていくような、そんな気がしてくる。
 これできっと楽になれる。私の死を深く悼んでくれるような家族も旧友も、この世にはいないからすごく身軽だ。
 けれど、意識を手放そうとした途端に浮かぶ一握りの未練。
本当に、それでいいの?
 幼い頃の自分の声がどこからか聞こえた気がした。子どもから見たらあまり幸せとは言えない御伽噺を何故か好んで読んでいた、あの頃の私がこの終わりに待ったをかける。
 ――たった一人でいい。あの絵本の主人公みたいに、最期に幸福を祈れるような誰かを見つけられたのなら。
 そこで突然ドォォンと地響きが聞こえて、足元が大きく揺れるのを感じた。
 意識が強制的に浮上する。息を吸う。瞼を開く。
 私にはまだやることが残っているらしい。
 スタジアムの真ん中の大型水槽に私に深手を負わせた呪霊が陣取っていた。その頭上からバラバラと細かな瓦礫が落ちてきているのと、月が覗いている穴が先程とは比べ物にならないほど大きくなっているあたり、その巨躯で天井を無理矢理ぶち抜いたらしい。イボだらけのヒキガエルとぶよぶよのチョウチンアンコウを掛け合わせたようなソイツは、ダラダラと訳の分からない怨嗟の声を垂れ流しながらじっとこちらを見て隙を伺っている。
 私が腹をやられたお返しに呪具を背中に思い切りぶっ刺してやったのがよほど頭に来たんだろうか。
 あーあ、楽になれるかもと思ったのに。
 目の前に呪霊が現れたのなら仕方ない。祓い切るだけの呪力はもう残ってないけれど、呪術師として最低限の仕事はしなくては。これはもはや意地みたいなものだった。私のちっぽけな未練は多分どうにもならないけど、残していく仲間にもう少し貢献するくらいはできるはず。
 腹部からの出血は止まっていた。内側がめちゃくちゃになっている感覚があるけれど、何とか動かせそうだ。朦朧とする意識を叱咤して、倦怠感が酷い体には鞭を打ち、足に力を込めて立ち上がろうと藻掻く。
 しかし刹那、黒い闇を裂くように一筋の赤が呪霊の体を穿った。
 一体何事かと思えば、天井の大穴からヒラリと降下する一つの影。
 それは風変わりな着物を身に纏った青年だった。突如現れた彼はしぶとく生き延びる呪霊の体を思い切り蹴り上げ、無理やり皮膚の薄い腹をむき出しにさせると複数の血の塊を散弾のように浴びせた。
 命のやり取りの場で、今の自分は最も死に近いところにいるのに、私は呆気にとられて椅子に座り込んだまま、突然現れた正体不明の呪術師の姿をただ見つめることしかできなくなる。
 紛れもなくニンゲンの形をしているのに、その人の纏う空気はどうにも浮世離れしていた。冷たい月明かりの中、飛び散る血の雫が水飛沫のごとく銀色が煌めくと、僅かな光を照り返して光る彼の青白い肌は水で濡れて見えた。
 彼の白い着物の袖が泳ぐように大きく翻った瞬間、思考に靄がかかっている私はそこに幻視してしまう。絵空事のはずの姿を。
「――人魚、」
 私が固まっているうちにあっという間に呪霊は祓われ、その巨躯は跡形もなく黒い塵のように霧散して消えていった。
 戦闘が繰り広げられた瓦礫の上には今は名も知らぬ呪術師だけが佇んでいる。敵か味方かも分からない相手と二人きり、こちらの戦闘能力はないに等しい状況。途端に忘れていた緊張感が戻ってきた。
 どうする? どうしよう?
 この場をどうにか上手く切り抜けるために頭を何とか稼働させるも、もともと出来が悪いものだから何も思いつかない。
 と、そこで「兄さん」「兄者」と何者かの声が空から降ってきた。声の元を辿ると、スタジアムの屋根の上にそれぞれ形が違う影が二つ並んでいるのが見える。
「……!」
 男は新たに現れた二人組に分かりやすく反応を示した。呪霊に向けていた殺気がないことから仲間か、あるいは呼び名からして家族で間違いないのだろう。影の方にすぐに顔を向けると、妙に耳に残る深みのある低音で穏やかに話す。
「……もう大丈夫だ。騒ぎになる前にここを出よう」
 ならばすぐにでもこの場からいなくなるのかと思いきや、その前に彼は急にこちらを一瞥した。私の存在には気づいていたらしい。
「……」
 値踏みをしているような雰囲気こそ感じるものの、向けられた切れ長の琥珀の双眼からは詳細な感情を読み取ることまではできなかった。何やら彼は訳ありなのか、人目に触れられたくないようだから、口封じでもされるかもしれないと覚悟を決める。
 しかし、それは同僚の呪術師と補助監督が私の名前を呼ぶ声とせわしなく走る足音が廊下から聞こえてきたことで杞憂に終わる。
 彼は私の存在よりも複数人に見つかる危険性を恐れたようで、短く舌打ちをすると何も言わずにこちらに背を向けて歩き出した。そして、適当な高さがある場所で地面を力強く蹴り上げ、積み上がった瓦礫と術式で自在に動く血を器用に足場にして最初に現れた時と同じ天井の大穴から外に出ていく。
 その後、もう一度だけこちらを一瞥してから二つの影を引き連れて静かに去っていった。
 なんだったんだろうあれ。
 全くもって訳が分からない一連の出来事に思いを巡らせる間もなく、満身創痍の私は緊張の糸が切れると同時に今度こそ意識を手放した。


 それは旧き水底の


 後日、例の御伽噺のごとく私は件の人魚と思わぬ形で再会することになるのだけれど――彼が人の世界を望んだ理由は王子様ではなく血を分けた弟たちのためで。そんな相手に憧憬とも恋慕ともつかない夢想を一瞬でも抱いてしまった私は、それはもう色々と頭を抱えてのたうち回ることになるのだった。




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