レモンじゃない 03

「それで何がしたいんだ。家入に釘を刺されたこと以外は概ね受け入れるが」
「えっ、あっ、」
 脹相とのこれからについて真面目に考え込んでいたら話を元に戻された。彼の口ぶりから察するに、性行為以外は特に問題ないと私に伝えたかったようだ。
 じゃあ、と改めてお願いしてみようとはするものの、やはり恋人らしいことって何だろうと思ってしまう。
 初歩的なコミュニケーションなら手を繋ぐとか抱きしめてもらうとか? でもそれは家族や友達ともそれなりにすることだし、脹相に頼むと彼の謎のお兄ちゃん力によって妹扱いされているような空気になってしまいそうだ。
 しばらくうんうん唸った末に恋愛経験値0の私が導き出した結論はあまりにもベタなもので。
「き、きすでいかがでしょうか……」
 友達や家族とはあまりしない、でも恋人とならわりとするもの、で私が思い浮かんだのはそれくらいしかなかった。
 どんな返事が来るのか予想がつかず、おそるおそる相手の出方を伺う。
 すると、脹相は眉一つ動かさずに一言、「わかった」とだけ口にして体の距離を詰めてきた。彼はごく自然な動作で私がずっと抱えていたクッションをあっさり取り上げ、パソコンが置かれたローテーブルの下に放り込むとまたずいと迫ってくる。
「!?」
 目を丸くして驚いていると今度は脹相の右手がこちらに伸びてきた。その指先が軽く頬にあてがわれて、私は思わず触れられた方の目を瞑る。
 脹相は大きくて少し乾燥した指の腹でそっと頬を撫でてきた。あまり血色の良くない青白い肌をしているのに、彼の手は不思議なほど温かくて気持ちがいい。
 安心して一瞬だけ肩の力が抜ける。しかし、ぐっと顔を持ち上げられたところで脹相とばっちり目が合ってすぐに我に返った。
「あ、わっ」
 私は何とも情けない声を上げて、床に座ったまま後退りをした。脹相はむっと眉間に皺を寄せ、負けじと追いかけようとしてくる。
「わあ、待って! 待って!」
「なぜ逃げる」
 脹相はひどく不服そうな顔をした。
 当たり前だ。キスをしたいとお願いしたのは私で、脹相はそれを叶えようとしているだけなのだから。向こうからしたら言い出しっぺが何を言っているんだといったところだろう。
 それでも、やっぱいきなりは無理!
「は、はじめてだから慣れてないんだって……!!」
「俺も初めてだが」
 必死の抗議はバッサリ切り捨てられてしまった。
 私も初めてだけど、脹相も初めて。
 それは確かに嘘ではないのだろう。
 脹相が自分で自由に使える体を手に入れて、外の世界に出てから一年も経っていないと聞いている。紆余曲折あって高専に保護されるまで色恋沙汰を経験できるような環境も時間も彼が持っていなかったであろうことは想像にかたくない。
 でもその割にはーー。
「な、なんか熟れてない……?」
 警戒心を解かずに私がそう訊ねると、脹相はあっさりと白状した。
「元の体の持ち主がそういったことについては一通り経験していたようだからな。それなりに具体的な知識はある」
 器となった人間の脳から知識を得られる受肉体特有の性質がこんなところでも役に立つとは。いつもはこうした呪術絡みの話には真面目に耳を傾けるけれど、今この時ばかりは子供ぽくずるいと思ってしまった。
 そんなの経験人数0なのは同じでも私と違って予習、復習ばっちりの状態じゃん!!
「接吻がしたいと言ったのはオマエだろう。逃げるな」
 一向に自分から動かない私に脹相は痺れを切らしたらしい。覚悟を決めろと釘を刺し、もう一度手を伸ばしてくる。
「わわわっ!?」
 私は脹相から逃れようとつい反射的に頭を後ろに引いてしまい、体のバランスを崩して仰向けに倒れてしまった。ガクンと視界が大きく揺れて、一瞬だけ真っ暗な天井が見える。
「っ、」
 後頭部に衝撃が走るのを覚悟して目をつぶったところで、ふっと微かな浮遊感を覚えた。
「……?」
 いつまでも来るべき痛みが訪れないので何事かとゆっくり目を開けると、脹相の顔が目と鼻の先にあって驚く。彼が倒れる私を咄嗟に抱きとめて床に寝かせてくれたらしいと気づくのに時間がかかった。
「あ、ありがとうございます……?」
「危なっかしい」
 とりあえずぎこちなくお礼を伝えると、ぐうの音も出ない返しをされてしまう。居心地の悪さを感じつつ、とにかくこの状態は恥ずかしいのでまた脹相から距離を取ろうともう一度悪あがきしてみた。
 ところが、全く動けない。
 抱きとめられた時のまま後頭部にはしっかり脹相の左手が回されていて位置を固定されているし、両手で胸板を押してみてもどく気がないようでビクともしない。それでも、動かせる部分があるだけ上半身はまだマシで、下半身は絶妙に足を絡められ体重をかけられているせいでばっちりロックされていた。
 簡単に言えば今の私は脹相に完全に押し倒されている。
 どうしよう。逃げられなくなってしまった!
 焦り出す私を余所に脹相は自分のペースを崩さない。空いている右手で顎を掴み、無理やり視線を合わせてくる。
 観念して黒い双眼とこれまでにないほど至近距離で見つめ合った。途端、小さく息を呑む。
 月明かりでいつもより白く光る肌と、俯くことで額に垂れた黒い前髪のコントラストが本当に綺麗だったから。
 いつもと違う脹相の様子に見蕩れていたら、お互いの間に僅かに残っていた空間がじわじわと狭まってきていた。体温は血液が沸騰するんじゃないかというくらい上がっていて、心臓は胸から飛び出してしまうのかと思うくらいバクバク鳴っている。
「目を閉じろ」
「……ぅ、」
 いつも通りの低くて平坦な、でも大好きな声に促されるまま目を閉じた。体の力をどうしても抜くことが出来なくて、必要以上に瞼をぎゅっとしてしまう。
 それから、唇に一瞬だけ柔らかい感触。
 目を瞑ったままでも自分の上に乗っていた脹相の身体が徐々に退かされていくのが分かって、そこでようやく実感した。
 ああ、キスされたんだ。
 おそるおそる目を開けると、もう自分の体はすっかり自由になっていた。脹相は少し離れた位置に適当に座って静かにこちらを見ている。
 私は事が終わった安心感が込み上げてきて、体の力が一気に抜けてへにゃへにゃになってしまった。しかし、はあと一度長い安堵のため息をつくと、また急に唇が重なった時の感触を思い出して頬が燃えるように熱くなる。
 好きな人に初めてキスされた嬉しさと恥ずかしさが入り交じった感情をどうにもできず、私は脹相に奪われてローテーブルの下に投げ込まれていたお気に入りのクッションを咄嗟に抱き寄せた。仰向けになったまま顔を半分沈めて、衝動のまま柔らかい布地をぎゅむぎゅむと腕で締め付ける。
 ファーストキスはレモンの味、なんて言うフレーズがあるけれどそんなことは全くなかった。でも、味なんてなくても、たった一瞬の出来事でも、さっきしたことは簡単に忘れられそうにない。
「頑張ったな」
 私はこんなにいっぱいいっぱいなのに、自分だって初めてのくせに、顔色一つ変えず謎の上から目線で褒めてくる脹相がなんだか恨めしかった。
 覚えてろ……!
 私はしばしクッションに自分の激情を受け止めてもらい、ようやく気持ちを落ち着けることが出来た。
 それにしても、と思う。
「するしない以前にこれ以上先はまだまだ無理な気がする……」
 硝子さんの心配はいらないかもしれない。ちょっと触れるキスだけで私がこれなのだ。子どもができるようなことをするなんて前途多難がすぎる。仮にしようとしても、これじゃあ暴れ散らしてケガをしてしまいそうだ。
 ため息をつく私に何を思ったのか、脹相が言う。
「安心しろ。オマエの兄に顔向けできなくなるような真似はしない」
 床に横になったまま脹相の方に視線を向けると「俺もお兄ちゃんだからな」となぜかご丁寧に補足してくれた。
 「それ関係あるの?」というツッコミは真っ当なはずだが、脹相に対しては無粋な気がしたのでやめておく。とりあえず、私が高専を卒業するまでは色々と気長に待つつもりでいてくれるのはありがたい。
でも、あと三年と少しか……。
「……心臓がもたないのでもうあと10年は待ってもらってもいいでしょうか」
 脹相と自分がこの先どうなっていくかなんて全く検討がつかない。ただ、お付き合いがそれまで続いていたとして、そんな大人なこと私ができるようになっているのかなあ、というぼんやりした疑問だけがある。
 “10年”は半分冗談めかして口にしたつもりの年数だったのだが、脹相は私の言葉を真面目に受け止めたらしい。わずかに考える素振りを見せ、それから思いの外キッパリと言い切った。

「それはさすがに無理だ。慣れろ」




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