マグダラの肖像 02

  *

 カツカツと廊下を歩く度に靴底が床を叩く小さな音が響く。
 夜の闇に沈む高専の構内。その殆どが天元様の結界によるハリボテということを加味しても、今日はいつにも増して静かに思えた。
 進行方向から控えめな足音が一人分、聞こえてくる。窓から射し込む月明かりが、風変わりな着物を纏った男の姿を黒い闇の中からぼんやりと切り取った。淡い光が元より青白い肌の色を引き立て、影を帯びた無気力そうな表情と相まってその姿からは幽鬼めいた雰囲気が漂う。
 一般人ならギョッとする者もいそうなものだが、呪術師かつ一応は面識のある私はすっかり慣れた調子で「こんばんは」とその男に挨拶した。
「こんな時間に会うなんて珍しいね。任務上がり?」
「そんなところだ」
 それなりに聞き慣れた、冷たさこそないものの低く平坦で感情の読めない声が返ってくる。
 目の前の男は人間と呪霊の間に産まれ9の兄弟にて九相図を描く特級呪物・呪胎九相図、そのうちの一番の受肉体・脹相だった。本来ならば呪術規定により排除される存在だが、紆余曲折あって今は高専預かりの身となっている。
「私は逆にこれから任務なんだ。お疲れ様」
「……」
 時刻はあと一時間ほどで日付が変わる頃だった。
 夜更かしは慣れっこだけどこんなに遅いと参っちゃうよね、などと苦笑いを浮かべてみても脹相は無言で眉の一つだって動かさない。
 脹相という男はもともと周囲に愛想を振りまくような人間――私は一応そう解釈している――ではない。複雑な出自もあるのかはっきりした喜怒哀楽を見せるのは主に九相図の二番以下、彼が弟と認める存在たちに関することくらいだ。
 ただ、根はわりと真面目で誠実なのか脹相は自ら積極的に他者に関わることこそあまりないものの、会話の受け答えはしっかりしており、コミュニケーション能力は決して低くなかった。高専の中でも、来たばかりの頃はともかく、時間が経った今では周囲の呪術師や補助監督からそれなりの信頼を得ている。
 そして、私はどうにもそんな脹相からあまり好かれていないらしいのだった。らしい≠ニ表現するのは直接何か言われたり、されたりした訳ではなく、あくまで自分がそう感じているからだ。
 最初は気がつかなかったのだが、どうにも私といると脹相はいつにも増して無愛想で無口になるようなのだ。彼の好感度が特別高くなさそうな悟とのやり取りを見ていると如実に感じる瞬間がある。アイツには乗り気でないながらもそれなりの受け答えをしているのに、私とだとまず言葉のキャッチボールを続けようとしない。
 まあ、普段の生活や任務に支障はないからあまり気にしないようにしている。
 私は片手をヒラヒラと振りながら「じゃあね」とだけ残してその場を立ち去ろうとした。今は特に用もないし、私はこういう相手にちょっかいをかける気質ではない。
 しかし、いざ歩を前に進めるとすれ違いざまに声をかけられた。
「……なあ、」
 少しだけ驚いた。脹相から私に話しかけることなんて滅多なことではないから。
 振り向くと月明かりの中で琥珀を湛えた双眼が静かにこちらを見つめていた。
「何?」
 話しかけてきたくせになかなか次の言葉を発しない脹相に視線で促すと、彼はわずかに眉をしかめながら訊ねてきた。
「……オマエ、この前の金曜日の夜、新宿で男と歩いていなかったか?」
 その内容に先ほど呼び止められた時よりも驚く。一度だけ心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「何のこと?」
「……」
 動揺を顔や声に出さないよう努め、とぼけて見せるも脹相は何か確信があるようで真っ直ぐこちらを見つめたまま追い打ちのように指摘を続ける。
「……任務の帰りだった。車からオマエの姿が見えた」
「人違いだよ。その日はずっと家にいたんだから」
「そんなはずはない。化粧も服装も普段と違っていたが、あれは間違いなくオマエだった」
「……」
「あのツレの男はなんだ? 服装も年齢もオマエと全く釣り合っていなかった。夫婦(めおと)や恋仲には到底見えなかったぞ」
 脹相は血を分けた兄弟以外には興味関心の類をほとんど示さない。元よりその大事な弟たちへの愛情の向け方も、その思いの強さを鑑みれば随分と優しいもので本人の意思決定を尊重しており、過度の干渉は行わない。
 だからこそ「どうして」という気持ちになる。
 どうして、大した繋がりを持たない私に踏み込んできた?
 目の前の脹相は私からきちんとした答えを聞くまで引く気がないようで、どう転んでも面倒くさくなる気配を感じる。
 しかし、はぐらかすのは既に一度失敗していると言っていい。ここは一旦素直に話したほうがよさそうだ。ただ、やはり「はい、そうです」などとすんなり認めるのも嫌で、私は遠回しな表現を選んだ。
「あの日、何となく視線を感じたけど君だったんだね」
「……そうか」
 聡い脹相はそれだけで察したようだった。彼の切れ長の瞳が僅かに伏せられ、その視線がすうと私の左手に向かう。
「……オマエ、既婚者じゃなかったのか?」
「ああ、これ?」
 言われて、左の手の甲を脹相に見せるように軽くあげた。薬指の付け根に嵌ったシンプルな銀の輪が月明かりを受けて暗闇の中でキラリと輝く。
 途端、脹相の眉間にシワがより、どこか苦苦しく吐き出すように彼は私に訊ねてきた。
「……そうだ。それは結婚指輪というやつではないのか?」
「うん、そうだよ」
 これについては隠していることでもなんでもないので私はあっさり肯定する。それから、簡単な経緯も説明してやることにした。以前は辛くて声が震えていたくらいだったのに、痛みを未だに引きずりながらも他人にあっけらかんと話せるようになってしまった自分が少し虚しい。
「でもね、この指輪をくれた人のはもういないの。何年も前に死んじゃったから。この前の人は私の恋人でもなんでもない。名前すらまともに知らないあの夜限りの人」
「……先立たれてからずっと、そういったことをしているのか?」
「うん、そうだよ。数え切れないくらい、ね。もうまともに付き合ったりとかできないから」
 自分と同じ呪術師だった夫が亡くなったのは、なんてことはない交通事故。病院に運ばれるまでもないほどの即死だった。
 せめて任務で死んだのなら、呪霊や呪詛師に殺されたのなら、まだ覚悟ができてきた。簡単に割り切ることはできなかったとしても、自分の中で適当な理由をつけることはできたはずだった。
 夫の死はあまりにも呆気なさすぎて、悲しみも怒りも虚しさもぶつける存在を見つけられなくて、受け止め方が分からなかった。
 それでも、いつまでも引きずってはいられないと、何度か人生をやり直そうとした。
新しい恋もしようとした。
 だというのに、新しく付き合った相手は何かしら夫と面影が重なる男ばかり。無意識に代わりを探そうとしている自分を感じて心底嫌気がさした。
 そして、繰り返す自己嫌悪と埋められない心と体の空虚感に耐え兼ねて、いつしか一夜限りの関係ばかり積み上げるようになっていった。
 その時だけの名も知らぬ男ならば亡くなった夫を重ねずに済む。何より、肌を重ねて快楽に溺れている瞬間は、何も考えなくてよくて楽だった。
 あの日からずっと心が満たされない感覚を抱えたまま、私はどうしようもなく今を生きている。私にとって性行為は、日々の虚しさを誤魔化すための麻酔だった。
「……オマエは、それでいいのか」
「……難しいこと聞くんだね。満たされはするよ、一時的にだけどね」
「……」
 脹相が押し黙る。相変わらず変化の少ない彼の表情からはその内に今どんな感情が去来しているのか、私にはよく分からなかった。ただ、唇を噛んで何か衝動を堪えているらしいことだけが伝わってくる。呆れ、怒り、嫌悪、そんなところだろうかと勝手に想像してみる。
 しばらく経っても脹相はなかなか口を開かなかった。ただ、時間を経るごとにどんどん不機嫌になってきているような気がする。
 沈黙に居心地の悪さを感じた私はつい小さな声でぼやいた。
「……なんか、すっかり嫌われてるな」
 脹相はきっと私のことをもともと好いていない。その上、あんなことしてるのがバレたわけだから悟よりもさらに低そうな好感度はゼロを通り越してマイナス確実だろう。
「何の話だ」
「君の話だよ」
 脹相の声色には隠しきれない苛立ちのようなものが滲んでいた。今さら友好的な関係など築けまいと判断してもはや吹っ切れた私は、彼の反応を適当に受け流し、自分が話したいことを話す。
「ずっと気になってたんだけどさ。私のこと好きじゃないみたいなのにいつもよく見てるよね」
 ぴく、と脹相のくっきりした眉が動く。反論してこないあたり私の自意識過剰ではなかったらしい。
 そう、自分に注がれる脹相の視線を感じたのはあの夜だけではなかった。
 任務に同行した時、悟の代わりに生徒の面倒を見た時、接触するような機会があると必要がない場面でも何となく目で追われている感覚があった。最初こそ気のせいだと思っていたが――。
「私の変装が見抜けるの、高専生の頃から付き合いがある人でもなかなかいないんだよ」
 こうなってしまえば確信する他あるまい。
 しかし、なぜ好いてもいない相手をここまで観察しているのか、その理由についてはとんと検討がつかないのだった。
「私が誰かに似てるのかな? 例えば、君のお母さんとか」
 まさかと思いつつ――そして、怒らせることを分かった上で訊ねてみれば、脹相はこちらを一瞬睨み、苦虫を噛み潰したような顔で言葉を返してきた。
「オマエと母を一緒にするな」
「ははは。ほんと、嫌われてるな」
「……」
 案の定地雷だったようで乾いた笑いが漏れる。
 脹相に嫌われても、辛いとか悲しいとかそういう感情は別に湧かない。ただ、私のことをよく知りもしない相手にあっさり自分の暗い秘密を暴かれたことに対して、なんとも言えない徒労感に似た感覚だけが残っている。
 今の自分の状態が良くないと分かっているからこそ、綺麗に取り繕っている上っ面を剥がされるのはすこぶる気分が悪い。
「……安心してよ。顔を変えたりはできないけど、君の大切な弟くんに手を出すようなことは絶対にしないからさ」
 この先に有意義な会話を期待できなかった私はそれだけ残し、くるりと脹相に背を向けて歩き出した。小さな舌打ちの音が聞こえた気がしたが、もう振り向くことはしない。
 暗い夜の闇に、そのまま身を委ねた。




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