小説 | ナノ


水滴る

くらりくらり、意識がかき混ぜられていく感覚。
濁った記憶から、色のない薔薇の花弁が舞った。

さよなら。

『まだ、っ』
ああ、また目を覚ました。
いつから見ているかも分からない、何度となく繰り返される夢。
朝から気が滅入ることこの上ない。
この夢の後は、具合が良かった試しがないんだもの。
ガンガンする頭を押さえながら散らばった服に手を伸ばした。

バス停から徒歩3分、通勤の楽な私の職場。
の隣、ちょっとした美術館。
様々な絵画に触れ合える、私の唯一の癒しの場。
新しい絵画展が催されるたびに、休日を費やしてここに通っている。
そうして今日も。
可愛らしい女の子を連れた夫婦、変わった風貌の男性、退屈している少年や微笑む老婦人。
作品に魅了される人々を眺めるのもまた、美術館での楽しみだ。
ふ、と意識が一枚の絵画に吸い寄せられる。
『絵空事の、世界』
呟いた時、ぽたり、どこかで聞こえた気がした。
粘着質な、絵具が滴るような音。

「ここでお別れ、かしら、ね」
『え、い、嫌、嫌だ!お願い、嫌よ、ひとりにしないで…!』
「ユト、大丈夫、アンタはひとりじゃ、ないわ…」
「もう会えなく、たって…アタシは…ユトを…」

ぽた、ぽたり。

「…ユトは、わたしの事、もう嫌いになっちゃったの?」
「わたしは…わたしは、ただ、ずっと外に出たかっただけなのに…」
『もう…嫌…』
「ごめんね、ごめんなさい、ユト…」
『…ごめんね、ばいばい、メアリー』

ぽたり、ぽたり。

『…あれ?どうして…』
気付けば私の視界は、涙でにじんでしまっていた。
ポケットに入っていたハンカチで涙を拭う。
そうして眼前の絵画に再び目を向けた。
「忘れられた肖像」
綺麗に眠る男性が、そこには描かれていた。
知らない、私はこの男性を知らないはずなのに。
どうしようもなく、懐かしさと切なさが心を埋めた。
「あ…」
後ろで小さな声が漏れた。
振り向くと、可愛らしい女の子がこの絵画を見つめ、涙をあふれさせていた。
その女の子も、不思議そうな顔をして私と同じように涙を拭う。
階下から女の子のお母さんらしき人が声をかけ、女の子は名残惜しそうにお母さんを追いかけていった。
そういえば。
先ほど涙を拭ったハンカチを見つめる。
私、こんなハンカチ持ってたっけ?綺麗な絹のハンカチ。「Ib」と刺繍が施してある。
…思い出せない、何も。
ちら、と腕時計を見ると、いつの間にか閉館時間ぎりぎりとなっていた。
こんな長い時間、一枚の絵画に魅入られていたなんて。
いや、こんな長い時間眺めていたのに、…もっと眺めていたい、なんて。
『…ゲルテナの、「忘れられた肖像」』
不思議なその絵画の名称を、メモしておいた。
きっと私はこの肖像画を、男性を、二度と忘れない。忘れられない。
『またね、ギャリー…愛してる』
口から零れた知らない名前に戸惑いつつ、私は男性に背を向けた。

「さよなら、ユト。愛してるわ」

知らない誰かの声が響いた、気がした。

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