Nostalgia

追憶を憂いて強く願うは、愛の初期化。


【nostalgia】


現世で存在するゲーム機の様に、人間にもリセット機能を備えていればええのに。
そうすれば何時だって、気の向くまま、やり直したい分岐点に立ち戻る事など造作も無いのやから。

過ぎた事を引き摺ってもどうにもならん、女々しさは己の恥やと重々理解しとる。
後悔なんて当たり前に付き纏って来るもんやし、意思にそぐわない結果を生んだのは当の本人やないか。
そう思って居たのに、行動から生じた自己責任は僕を窮地に追い遣る。

忘れ難い嘗ての選択を違うものとしたならば、激しく荒ぶる悲哀に胸を痛める事は無かったやろか。


あの日、あの時、あの空間が消えない深い古傷となった。
非情な訣別を聞く羽目になったあの光景は、僕を絶望させるに充分過ぎて。
彼女は既に隣に居ないのに、時間が経てば経つ程影響力と存在感は増し追い討ちを掛けてくる。

抉る様な胸の痛みが日毎に酷くなり、苦悶を強いられる。
精神と肉体は片一方が弱ると共鳴し合うらしい、迫る喪失で全身倦怠感に襲われた。
しかし考える事自体億劫になり、僕が行ったのは放棄と現実逃避。
君と造り上げた想い出の良し悪しを緻密に選別し、事実を捩じ曲げようとする無様な僕。

こんな時まで自己防衛か、皮肉にも笑った。


"もう疲れたよ、市丸隊長"

君は夢に現れて、あの日の再現を無限に繰り返す。
瞼の裏に現す彼女の頬に伝う泪は、僕に顕し様の無い切なさを無条件に植え付けた。

僕はただ、君が去る現実だけを消滅させたかっただけやのに。
戻れない日より遥か前に感じた幸福を糧に此処に居着くだけが、唯一僕に与えられた選択肢となった。
……正確には既にあの瞬間から分岐点は絶ち切られ、其れに縋る他無かった。

だってそうやろ、僕に出来る事はもう無かった。
幾度と無く思考を凝らしても、彼女が居なくなった事実は覆せんのやから。
褪せない想いの行き場は宙に漂い続け、次第に消化不良を引き起こす。
キリキリ軋む音を奏でるのは、腹部から来るのか、……其れとも。

狂おしい位君に焦がれて、必要としている。


"……選べないのなら、さよなら"


君を忘れたくない、忘れて欲しくない、離したくない。
君を、過去にしたくない。


稀薄な人間関係は感情を酷く鈍感にさせ、無関心に拍車を掛けた。
あの頃の僕は他人の気持ちなどお構い無しで、自分さえ良ければ其れでええ、無慈悲が露見していたと思う。

興味あるものには率先して関わり、そうでないものや面倒事には目もくれない。

苦悩や葛藤に明け暮れる人生なんてつまらんやろ。
どうせ生きるなら楽観的に過ごそうという概念は誰しも理想としてるんやから、其れを咎められる謂れはないし。

何でも程々に、此れが僕が掲げてた座右の銘や。

悲しみと切なさを招いた結末は、増長してた僕に対しての報いなのかもしれない。
他人の心を無下にし、真摯に向き合う事を抗った自分への、

罰なのかもしれない。



「どないしたん、此れ」

少しずつ身を切る寒さが緩和され、日中の気温は二桁まで上がる日が増えた。
詰所から覗く木々は疎らに葉を付け始め、来るべき春の到来を告げている。

窓から射す直射日光は室内の机の一点を明るく照らし、僕は入った瞬間一番に其処に目が止まった。
机のど真ん中に置かれた無機物は鈍く光り、存在感を主張している。

「ああ、現世のゲーム機らしいですよ」

僕より早く自席に着き言葉を返すのは、副官のイヅル。
山積みになった書類を懸命に処理する様は、非常に勤勉で好感が持てた。

……まあ、本来ならば僕の仕事なんやけど。

「其れは分かっとるよ。そうやなくて何でそないなもんが尸魂界にあるん?」

首を傾げ眉を下げながらイヅルに問い掛ける。
すると彼は業務を継続したまま、淡々と言葉を返した。

「なまえくんが現世から持ってきてくれたんです」

……イヅルから其の名を言われ、鼓動が跳ね上がった。
久方ぶりに聞く名前、僕は眉間に皺を寄せ明らかな動揺を必死で堪える。



当時、僕と恋仲を望む女は数知れなかった。
一体自分の何処に惚れる要素があるんやろう、外見か、内面か、其れとも名誉か。

そんな周囲の要求を寛容に受け入れた。
理由は何だかんだで楽しめるし、僕を退屈させないから。
不純異性交友、まさにその言葉が相応しい。
来る者拒まず、去る者追わず、罪悪感は僕にとって一番遠い存在だった。

"僕と付き合わへん?"

モーションを掛けたのは僕から。

その頃彼女、なまえは時々廊下で擦れ違うだけの全く関りの無い女だった。
大人しそうな外見、真面目そうな性格、……はっきり言って退屈そう。

其の反面、興味が湧いた。
彼女と恋愛関係になったら、また違う一面が見れるのか。

ただただ、自己顕示欲を満たしたい衝動からなまえを誘惑した。
見た目通り堅物だった彼女は中々僕の誘いを受け入れなかったが、徐々に心を開いて来る。

他にも同時進行を重ねていた僕にとっては容易い事だった。
多種多様の異性の扱いには慣れていて、彼女の様なタイプへの取り扱い方の難易度は然程高くは無かったから。

僕は其れに多大な達成感を得た。
まるでゲームを攻略した後の、充実感で満たされたのを覚えている。


……多分、僕らの過去の関係をイヅルは知らない。
知っていれば、彼は。

「……そうなんや。で、何で僕の机に置いてあるんや、イヅルが貰ったんちゃうの?」

「僕は機械苦手ですし、余り興味ないので。市丸隊長は好きでしょう、こういうの」

"だから、使って下さい"と言いながら僕に視線を合わせるイヅルに、更に険しい顔付きを浮かべた。
そんな僕の僅かな表情の変化に気付く事無く、彼の目は其の先のゲーム機に向く。

「大分古い機種らしいですけど、まだ遊べると思いますよ」

イヅルに誘導される様に同じ場所に目を向け改めて其れを見ると、確かに見るからに年季の入った代物と悟った。
見た目は非常に簡素に作られていて、横長の窪みと五センチ程の丸いボタンがあるだけや。

「ふうん、じゃあ遠慮無く貰うわ。肝心のゲームは何処や?」

「はい?ですから其処に」

「此れは本体やろ、此処に差すカセットないと遊べへんやん」

"ほら此処"と其の場所を指しながら彼にカセットを催促すると、口を開けて唖然としている。
暫く室内に沈黙が続いた後、流れる様に視線を天井に向け口を開いた。

「彼女にカセットも持って来てるか聞いて貰っていいですか?」

「……ええの?」

イヅルの言葉に即座に反応すると、不思議そうな表情で此方を見る。
"何がだろう?"彼の心情が手に取るように汲み取れた。

「……イヅルの彼女やろ、自分が聞いてくれればええやん」

……胸の奥底から抉られた気分だった。
口に出せば真実味が増す、今在る現実に目を背けなくなる。

……既に他人のものになっていると。



「まあ、君がそう言うんなら自分で聞くわ。僕が貰ったんやし」

神妙な面持ちから一転、いつも通りの愛想笑いをイヅルに向ける。
依然日光に晒されたゲーム機に触れる動作を、彼は黙って見つめていた。

「……リセット」

ぽつりと呟きながら、若干掠れた赤く丸いボタンに指を押し付ける。
"カチッ"と小気味良く鳴った音は、互いの聴覚を刺激した。

「市丸隊長?」

そのまま無言を貫く僕に、イヅルは伺う様に名を呼び掛ける。
発せられた声に反応する事も無く、僕はゲーム機を見つめたまま物思いに耽った。



ああ、ホンマにこの質素なボタン一つで何もかも無かった事に出来たらええのに。
そうすれば此処まで心痛に脅かされる日々に意気消沈する羽目にならんかった。

「……なんてな」

そっと指を離し、苦笑混じりに笑みを見せる。
襲う苦悶を薙ぎ払うべく笑顔を取り繕うと躍起になるも、身を裂く切実さが邪魔をした。

「ほな、後はよろしゅうな」

「ちょっと隊長!どちらに行かれるんですか?!」

「野暮用や」

詰所から出ようと動き出した瞬間、イヅルが声を荒げて制止する。
この光景と釈然としない彼の表情を目の当たりにするのは日常茶飯事であり、僕はお決まりの言葉を吐き捨てその場を去った。



「ごめんな、イヅル」

"野暮用"という決め台詞は単なる彼処から逃げる為の口実に過ぎなかった。
前々から使っていた言葉に違いないが、此処一月前から頻度は増す一方。

……僕との関係が絶ち消えてから其の翌月、なまえはイヅルと付き合い始めた。

人づてに二人が恋仲になった事を知り、何食わぬ顔で耳を傾けた僕。
だけど胸中は穏やかでは無く、激しく揺れた。

……何でアイツなん。

よりによって何で僕の隊の、しかも自分と密接している副官なんや。
同時に激しい嫌悪感に見舞われた、此れは自身に対する嫌がらせなのかと。

膨大に膨れ上がる行き場の無い感情が、不愉快だった。
何でこんな苛付くのやろう、僕は不可思議な感覚に戸惑う。

ふとなまえとイヅル、二人の相愛振りを想像した時、思わず目を塞いだ。
最初は互いが僕にとって顔見知りであるが故に生じた、想像に対しての不快感だと疑わなかった。

しかし次第に感情の矛先がなまえへの切なさに移行している自分に気付き、初めて彼女への恋心を痛感した。



「しょうもな」

ホンマ、しょうもない。

こんなん悶々と考えたって、今更やろ。
あの時彼女を繋ぎ止めていれば生まれんかった、自分の不手際や。

「あかんなあ、自分」

毅然とした態度で通常通りイヅルに接しようと自分なりに努力してみたが、様々な感情が彼を見る度増殖していった。

其れは羨望であり、嫉妬であり、悲嘆であり、憤慨やった。
しかし何も知らない彼に非はなく、其れにも関わらず被害者意識を漲らせる自分に嫌気が差し、僕は現実から目を背けた。

……イヅルを避ける事で、多少気が紛れた。


軽く溜め息を吐きながら長い廊下を進む。
こんなにも空は晴れ渡っているのに、曇った心中のせいで外に出る気も起きん。

「はあ……」

二度目の溜め息は深く、まるで禍々しく付き纏う思念を吹き飛ばすかの様に吐いた。
見つめた床は陽の光で眩く白く照らし、僕は更に目を細め身を縮める。

もう、こんな感情とさよならしたい。
どう足掻いても、なまえは戻って来んし。

「……ああ、カセット持ってるか聞きにいかんと」

……そうや。
折角彼女に用があるんやし、此れを機にキッチリ片を付けてしまえばいい。
不本意なけじめの付け方ではあるが、僕はイヅルを信頼しとるし横恋慕はしたくない。
精神的に脆く其れを実行した後の姿が容易に予想が付く、だから尚更や。

彼もまた、僕に絶大な信頼を寄せている。
でなければ、"なまえに聞いてくれ"なんて言わん。
何故ならば女癖が悪い事を知っているから、知っているのに託した。
先程のイヅルの台詞が、憶測では無い事を決定付けた。

彼の純粋な忠誠心は、穢れた僕には酷すぎる。

そして、そんな副官だからこそ引き下がる覚悟が出来た。
二人で幸せになって欲しい、……そう思えた。

「……ま、此れも部下の為、やな」

未消化だった自分の想いを清算すべく、僕はなまえの隊へと脚を運ぶ。
嘗ての彼女の面影を脳裏に思い浮かべながら、愛しさで胸が締め付けられた。



「何やこの敗北感……」

意気揚々となまえの隊の詰所へと赴いたというのに、寸でで引き返してもうた。
僕ってこんなに意気地が無かったんか、自分でも情けないと思う。

……ああもう、しっかりせえよ。

自分の意思で此処まで来たのに、怖じ気付くとかマジで有り得へん。
僕はその場にへたり込み、乱雑に髪を掻き上げる。

……詰所の前に立った瞬間、頭の中に駆け巡った。
"此れで終わってしまう"、一瞬脳裏に過って躊躇した。

「ワケわからん」

ホンマに自分が自分で良く分からん。
ほんの十数分前まで、二人を祝福しようって決心したというのにこの様や。
其れだけで痛感してしまう、僕は本気でなまえを好きなんやと。

「あーあ……」

……あー、もう溜め息吐くのさえも面倒臭い。
早く帰って貰ったゲーム機で今日は夜更かししたろ、……あ、カセット無いやんか。

「今日は止めよ」

考える事も面倒になり、目に飛び込んだ芝生に寝転がる。
向き合う青々とした空は高く聳え立ち、僕は吸い寄せられる様にゆっくりと瞳を閉じた。



「……寒っ」

死覇装が肌に触れ、余りの冷たさに身震いしながら目が覚める。
ゆっくりと上体を起こし辺りを見回すと、すっかり風景は様変わりしていた。

「何や、もう夕方かあ」

大きく欠伸をしながら両腕を上げ背筋を伸ばす。
其の動作で出た滲んだ泪を拭いながら、詰所に目を向けた。

見ると隊員達が散り散りに帰宅を始めている。
建物の屋根は夕焼けで仄かに紅く色付き、僕は感慨深げに眺めていた。

……徐々に薄暗くなる夕闇は、無性に人恋しくなる。
完全に独り身になった今の現状が其れを際立たせた。
あれから誰とも恋愛はしていない、出来んかった。

沈む気持ちをどうにか浮上させようと言い寄って来る女と一夜を過ごそうと試みたが、無理やった。
其の度になまえの残像が甦り募る想いに身を焦がす、まだ僕にも良心は存在するらしい。
僕もまた、人の子やったと思わずに居られなかった。

暫くその場で呆けていると、何やら視線を感じる。
"誰や"と若干憤りを感じた僕は、無表情でそちらに目を向けた。

「……あ……」

……人は心底驚くと言葉を失ってしまうものだと、身をもって実感した。
通路と共に映し出された、今最も僕を揺るがすものが浮き彫りになる。

其処には嘗ての恋人の姿があった。
大人しそうな、真面目そうな、そんで愛しくて堪らない。

「なまえ……」

久し振りに彼女の名を口ずさんだ。
心の中では頻繁に呼んでいて、でも声に出せば塞き止められん程苦しくなるから、敢えて口にする事を拒んでいた。



取り合えず、落ち着こうか。
逸る鼓動に言い聞かせながら、僕は静かに立ち上がり彼女の元へ歩き出す。

なまえは自分の方に向かってくる僕に驚いた表情を見せているが、逃げる様子は無い。
近付く毎になまえは俯き、向き合った時には彼女の頭頂部しか見えなくなっていた。

「久し振りやね」

爆発寸前の心臓の高鳴りを必死で抑えつつ、僕は笑顔で言葉を絞り出す。
瞬間なまえの身体は強張り、その後"……はい"とか細く呟いた。

「隊が違うだけで中々会わんもんやな、そう思わへん?」

「……そうですね」

……何やの、もうちょい愛想良く出来んのか。
僕かて決死の覚悟で声を掛けたんやで、本当は脚が竦む位緊張しとるのに。

確かに僕達の終わり方は後味の悪いものやった。
確かになまえにとっては、忘れ去りたい過去なのかもしれんけど。

というか、そもそも僕は。


「イヅルと付き合うとるんやって?」

先程までの会話と何の脈絡も無い言葉をなまえに投げ掛ける。
咄嗟に出た台詞……、多分自分が一番気になっていた事だからかもしれん。

するとずっと俯いていた彼女は勢い良く顔を上げた。
重なった彼女の瞳は目を見開いた後、気まずそうな表情を見せながらもごもごと口を開く。

「い、市丸隊長には関係……」

「無い事あらへんやろ、イヅルは部下やし、其れに僕は……元彼氏やし」

ああ、何て嫌な響き。
何でもそうやけど"元"って言葉、過去の栄光を引き摺ってる様で好かんわ。

被さり気味に言葉を返すと、なまえの瞳が潤んだ。
しかし瞬時に目を瞑り、直ぐに睨み返す。

「……だとしたら何でしょう?」

反抗的な瞳が僕の心を揺るがした。
そんな表情見たくない、して欲しくない。

あの頃の様な、柔らかな笑顔を見たいのに。
其れなのに意思に反して裏腹な言葉が出てしまう、ホンマ僕って意地が悪い。

「イヅルと、シた?」

なまえに近寄り囁く様に耳打ちすると、彼女の顔が真っ赤に染まる。

「へ、変な事聞かないで下さい」

視点の定まらない彼女の目は、様々な方向へ泳いだ。
僕は其れが可笑しく、茶化す様に言葉を添える。

「変な事?付き合ってたら誰もがする事やん、僕らだってそうやったやろ」

そう言葉を返し至近距離で見詰め不敵な笑みを浮かべていると、胸に鈍い痛みが走った。
距離が一気に離され、なまえに突き飛ばされたのだと理解する。

「痛いやないの」

眉を顰めて不満を漏らすと、泪を滲ませながら歯を食い縛る彼女が目に入った。

「私をからかって楽しいですか?!」

「……怒っとる?」

押された箇所を擦っていると、徐になまえが僕に怒鳴り付ける。
こんな感情的になるのは初めて見た、僕の知る限り彼女は温厚で理性的だったから。

ちょっとやり過ぎた、謝らんと。

「私がイヅル君とどうなろうが、市丸隊長には関係無い! 」

興奮気味に僕に刃向かうなまえに謝罪をしようと口を開く前に、彼女の言葉で遮られた。
その台詞は僕の鼓膜を震わせ、凄まじい威力で胸を刺した。

「……まあ、そうやけど」

「そうですよ。だって、私達……別れたんだから……っ」



たった一つの単語で箍(たが)が外れた。
……現実と向き合い、ある程度受け入れてはいた。
でも、実際に彼女の口から聞かされると簡単に打ち崩された。
やっぱり無理、嫌だ、認めたくない。

衝動的になまえを担ぎ上げ、私室へと走り出していた。


瞬歩で俊敏に屋根に飛び移り、ものの数分で自室へと到着した。
その間なまえは"離して!"と仕切りに声を荒げていたが、僕は耳を傾ける事は無かった。

「……痛……っ」

私室に着いた瞬間、壁に彼女を叩き付ける。
余裕の無さが行動に出てしまう、なまえは悲痛な表情で片目を瞑った。

「帰ります、通して下さい!」

「僕がいつ、"別れる"て言ったん?」

壁際に追い遣ったまま懸命に通り抜けようとするなまえに問い掛けると、ぴたりと止まる。
其れに乗じて彼女の細い両手首を頭上に引っ張り上げ、片手で拘束した。

「……え?何……」

「僕は賛同してへん、君が一方的に言うただけや」

淡々と発した言葉に、なまえの眉間の皺はたちまちに深く刻まれた。
"今更何?"恐らく彼女の心中はそう呟いているのだろう。

「わ、私は……!」

「何や?」

疑問を投げ掛けると途端になまえの頬に一筋の泪が伝った。
既に暗くなり窓から顔を覗かせる月の光のせいで、絶大な存在感を見せる。

「私はあの日、隊長に問い掛けました。だけど貴方は答えてくれなかった……!」

「……あの日……」

僕は最後に会った日の事を振り返る。
まるで走馬灯の様に目前に映すなまえの泣き顔を引き金に、鮮明に思い出した。



"隊長、どうして他の女の人と会うんですか?"

"急にどないしたん?"

"……私だけじゃ、駄目ですか……"

"…………"

"もう疲れたよ、……市丸隊長"

"なまえ?"



"……選べないなら、さよなら"



確かに僕は彼女の問い掛けに何も答えなかった、答えられんかった。
静かに泪を流しながら去るなまえを目にしても、あの段階では差して胸に響く事も無かった。
その場凌ぎの甘い嘘で君を繋ぐ選択肢もあったけど、だけど静か過ぎた部屋が己の浅ましさを監視し蔑んでいる様で、何も言えなくなった。

僕の中であの日は、後々に激しい猛威を奮った。
1日、2日、3日、日が過ぎる毎に彼女が居ない日々を実感し、時間が経つ度に淋しさを募らせる自分の存在に気付かされた。

そしてもう一度、と決心した時君は……。



「私は、私だけを愛してくれる人が良かった……」

「……だからイヅルなん?」

暫く無言のまま物思いに耽っている最中に、なまえが唇を震わせながら声を出す。
止めどなく流れる泪は頬に何本かの線を生み出し、顎を伝ってポタリと床に落ちた。

「イヅル君は隊長とは違う……、私は」

「聞きたない」

彼女が最後の言葉を放つ前に強引に唇を塞いだ。
手透きだった一方の手をなまえの顎に添え、逃れる術を失わせる。

「……んんっ」

頭を横に動かし絶え間無く襲う口付けを交わそうと試みるが、僕が其れを赦す筈も無く無理矢理口内に舌を捩じ込んだ。
喉奥に追い詰められたなまえの舌を自身のものと絡ませ、執拗に追い掛けて捕らえてを繰り返す。

「ん、んんんっ、隊長、や、だ……っ」

拘束されたままの両腕で行為に抗う動作をしても、力の差は歴然でものともしない。
変わらず流れる泪を舌で舐め上げ、なまえがびくりと強張った。

「確かに僕と違ってイヅルは優しいな、……君に触れる時もそうなん?」

微かに笑いながら問い掛けると、彼女は再び身動きを止めた。
一瞬の沈黙の後、僕はニヤリと口端を上げ不敵に笑う。

「僕、妬いてしまうなあ」

……何で僕はこんなに意地悪なんやろう。
そないな事聞いても何の得も無いのに、彼女を前にすると無茶苦茶にしたくなる。

「隊長には関係ありません」

沈んだ気持ちで俯き加減で立ち尽くしていると、なまえが言葉を発する。
其の声は力強く、充分すぎる程僕を打ちのめした。

「い、たい……」

掴んでいた手首に力が篭り、なまえが悲痛な声を漏らす。

ああ、もうどうだっていい。
この迸る激情さえ放出出来れば、其れでいい。

「……そりゃそうやね、変な事聞いてご免な」

するりと手を離すと、彼女は解き放たれた自分の手首を何度も擦る。
やっと解放された事にホッとしたのか、軽く溜め息を吐く声が聞こえた。

「……帰ります」

「まだや」

小さく会釈をして去ろうとするなまえの手を急かさず取り、ぎゅっと握り締める。
完全に警戒した彼女は、俯いたままの僕を凝視し様子を伺う。

「……意外かもしれんけど僕、1度もやった事がないものがあるんや」

「何ですか?」



「略奪」

「……!?」

潔い口調を放ったと同時になまえに顔を向けた。
言葉を失った彼女にはきっと、今の僕は恐ろしい位不気味な雰囲気を醸し出しているのだろう。

そうさせるのは、君のせい。



「……冗談は止めて下さい」

「こんな場面で普通言わんやろ」

即答すると、なまえは僅かに後退りを始める。
少しずつ離れて行く彼女に僕もゆっくりと前に進み、此処に来た時と同じ様に壁際に追い込んだ。

「……どうして」

再び触れようと手を伸ばした時、なまえがぽつりと呟いた。
僕は彼女の訴え掛ける様な声に動きが止まり、次の言葉を待つ。

「私は隊長を忘れたかった……!、忘れたいのにどうして……」

彼女の声が甲高く室内に響き渡った。
語尾に近付くにつれ震えた声色になり、小さく掻き消えていく。

「何でそんな事言うの……」

身を縮めなまえはその場に崩れ落ちていった。
嗚咽を吐きながら泪を流し、震える身体が月光で淡く影を造る。



「僕達もう一度やり直そう、なまえ」



……ごめんな、イヅル。

地位も、名誉も、金も、僕の持ってるもん何もかも君にあげるから、


この子を返して。



to be continued

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