仮想現実は総てを肯定する。


「俺達は結ばれる運命なんだ!なまえちゃんは俺と結婚するんだよ!知らないの?神様から与えられた運命には逆えないんだよ?喩え君が俺から離れて行ったとしても、俺達は絶対にいつかまた何処かで巡り逢うんだからな!」

「いつかそんな日が来たら私は」

もし再び出逢える願いが叶うならば、互いを結ぶ奇跡に縋り付きたい。


静かにゆっくりと開かれた視界の先には、地に生い茂る緑の絨毯と、其れを引き立て役にして存在感を露に佇む檸檬色の花が在った。
"嗚呼、此処までも"と眉を寄せて視線をずらすと、高く聳え立つ木立ちの隙間から漏れる太陽の日差しが其処らかしこに地面を照らす光景が目に飛び込む。
幻想的な木漏れ日はさらさらと流れる風で不規則に揺れ、私の足元の上に浮かぶ其れにも同様の動きを見せた。
光と陰のコントラストは、美しさの中に何処か寂しげな印象を兼ね備えている。
私は未だ醒めやらぬ意識の中で自分を支える木の幹に身を委ね、きらきら揺らめく光の乱舞をじっと眺め続けた。

私が藤の花のお屋敷から去りどれ程の時が流れただろう。
朝日から夕日への切り替わりは数え切れない位見届けてきたけれど、討伐に明け暮けくれた後は毎回死んだように眠るせいかはっきりとした日付の感覚を酷く朧気にさせた。
だけど酷使された筋肉が軋んで身体中痛みで悲鳴を上げているにも関わらず、私は無我夢中で剣を振り下ろす今の状況に有り難みを感じている。

「……まだ夢を見れる位の余裕があるんだ」

日を迎え鬼が立ち消えて朝霧が漂う刻、長い一日を終えた私は漸く微睡みの世界へと旅立つ。
そうする事で疲労困憊の肉体と精神は再び正常に近い状態を取り戻せるのだから、休息は命を継続していく上で最も必要な人間の習慣だ。
泥のように眠りに就けば、私にとって束の間の就寝であっても夢を見る事を避けられる筈だったのに、どうやら無駄な足掻きだった。
瞳を閉じて無意識の境界線へ誘っても、抗う様に無理矢理に現実へ引き戻しても、四六時中善逸の姿と声が現れては私を酷く動揺させる。

先程見た夢は嘗て善逸が発した台詞に私の都合の良い希望を付け足した、知らず知らずに奥底で犇めく願いの片鱗が表面化したものに過ぎない。
いつの日かまた再び出逢う機会に恵まれたい、その日が来て欲しいという気持ちが何処かに潜んでいるからそんな夢を見せるのだ。
最後に逼迫した声で発した善逸の言葉を自らの意思で無下にした癖に、自分の決意で彼から離れた癖に、都合の良い希望に縋るなんて不甲斐なくて泣きたくなる。
……それ以前に再会した時に彼がまだ私を好いていてくれている保証もないのに、本当に浅薄極まりない。

「……善逸はきっと新しい恋をしてるよね」

ゆらゆらと動く檸檬色の花を見ながら呟くと、私の声に反応したかの様に更に大きく揺れる。
まるで自分の言葉を理解し頷いている様に見え、嬉しさと可笑しさで自然と笑みが溢れた。
しかし同時に身を焦がす程の胸の痛みが突如として襲い掛かり、其れが顔も分からぬ相手への嫉妬だと認識していた私は、髪に添えられた髪飾りに触れる事で荒ぶる心の均衡を保つ。
善逸から貰った蒲公英の髪飾りは片時も離れる事は無かった。
辛く苦しい激戦の中で心折れそうになる私の傍らで常に存在する事実は、いつだって私を奮い起たせて生きる活力を漲らせてくれる。
長い闇夜から解放されて東から差し込む光と対面する度に、無事に生き残れた悦喜で善逸のくれた贈り物を口元に運ぶ姿は私の日常となった。

「私には此れがあれば充分幸せなんだから」

もし新しい恋情を温めていたならば、私の様な無愛想で可愛げの無い女では無く、善逸の隣に居るに相応しい素敵な人であれば良い。
そして幸せにして欲しい、時々周囲を纏う夥しい不安の空気が掻き消える位に彼を満たしてあげて欲しい。

どうか、この願いだけは現実のものとなりますように。

「新タナ任務!任務!なまえハスグニ向カエ!なまえ、イソゲ、ハシレ!」

空を旋回する鎹烏が私の名を呼んでいる。
幾度も繰り返し叫ぶ名前が次第に善逸の声と重なり合って、惹かれる様に頭上の飛行物が降り立つ時に両腕を掲げそっと抱き締めた。


烏の先導を受けながら目的の場所に近付いた時には、辺り一面はすっかり夜の準備を始めていた。
無言を貫いたまま休む事無く動かし続けていた脚が此処に来て漸く止まり、それ程疲れた訳でも無いのに全身が小刻みに震える。
私は其の理由を存分に把握出来ていた、目前の光景が見るに耐えない禍々しい空気を放っているからだ。
舗装されていない一本道がひらすらに登山口に向かって伸びていて、私には其れが地獄の入り口に見えた。
自分の衣服の擦れた音が酷く耳に障る位の閑散とした土地に、時々聞こえる梟の鳴き声が気味悪さを更に底上げする現状に思わず息を呑む。

「あれが那田蜘蛛山……」

あの中には途撤も無い力を備えた化け物が居ると、少し離れた自分が立ち尽くす場所でも判断が可能であった。
背筋が凍る様な冷たい感覚が生気を吸い取り気怠さを産み付け、情けないけれど脚が疎んだ。
私は巧く扱えない自分の身体と意識への憤りを、掌で両頬を強く叩き付ける事で何とか正気を取り戻す、此処まで来て怖じ気付くなんて私らしくもない。
目を閉じて肺に空気を取り込み神経を研ぎ澄ますと、髪に添えられた蒲公英が微かに揺れた気がした。

「そうだね。私は一人じゃない」

何度か呼吸を繰り返して冷静を取り戻した私は、愛しい小さな象徴に視線を向けて微笑みながら走り出した。


山の奥深くを進めば進む程刺激臭が強まっていく。
中に入る前から感じていた禍々しさは比較にならない異質なものへと様変わりし、山全体に緊迫感が張り巡らされていた。
しかし全体の空気を察するに大方の鬼は既に討伐された後なのだろう、其れはこの地を走り続けても鬼と一体も遭遇しない状況で判断が付く。
この刺激臭を放つ原因は鬼の個の強さと比例するから、きっと強力な鬼は未だに生き残っている。
状況は最悪であるというのに不思議と恐怖心は私から微塵も生じなかった、寧ろ山に足を踏み入れる前より冷静な気がした。
其れも善逸がくれた髪飾りのお陰なのかもしれない。
あの人を彷彿させる想い出を常に身近で感じていられる事は、こんなにも私の心を満たして果てない幸福を降り注いでくれるのだから。
善逸にとっては軽い気持ちでくれた贈り物だと解っている、其れでも私は一生の宝物と成り得た位に嬉しかったのだ。

そう、きっと善逸には其処まで深い意味などない。

……まだ炭治郎君と自由に話が出来ていた頃、割かし早い段階で私は彼から善逸と親しくなった経緯を聞いていた。
簡潔に解りやすく要点だけに納めた炭治郎君の説明は、その場の当事者では無い私の想像力を遺憾無く発揮させる。

その後も幾つかの話を聞いて分かった事があった。
善逸の女の子への貪欲とも言える程の執着心は、彼自身が受けたい愛情の裏返しなのだと。
必要として欲しい、受け入れて欲しい、好いて欲しい、自分だけを愛して続けて欲しい、噎せ返る様な情熱が渦と成って善逸の身体全体を纏って蔓延している。

"結婚してくれえ。俺には君しか、君しか居ないんだあ"

道端で気分が悪そうに座り込む善逸に声を掛けた女の子に放った台詞を耳にした時、私は言い表せぬ嫌悪感に埋め尽くされた。
何故ならば炭治郎君から耳にした言葉は、一字一句狂い無く私にも向けられたものだったからだ。
初めて善逸と顔を合わせ時を待たずして飛び付きながら聞こえた彼の声を反芻すると、其処に一切の嘘偽りは存在しなかった。
要するに善逸は其の時々出逢う異性に総て本気の恋心を抱いているのだ、若干の自意識過剰が裏目に出て毎度酷い有り様になるらしいけれど。

発想を逆転すると善逸を手酷く振って傍から離れれば、未練はあれどあっという間に薄らいでいく程度の気持ちなのだ。
となれば確実に先に善逸から姿を消す自分の事など、彼は時が経てば簡単に忘れ去って新しい恋を見付ける。
仕切りに結婚と言い続けるのは"自分はいつ死ぬか分からないから"らしい。
其れを聞いて私は善逸は私個人に固執している訳では無く、結婚という物事に執着しているのだと悟った。
だから私は善逸だけは名字で呼んで極力親しくならない様に先回りして予防線を張っていた、只の鬼殺隊の先輩と後輩の関係性を貫く為に。

私はただ絆されただけなのかもしれない。
相互間で交わされた密事に仲間意識が芽生え、強引に紡がされた善逸の長所で異性としての認識を促され、触れた掌から伝わる温もりで感情を昂らせ、そして私から想いを伝えさせる事で好意をはっきりと自覚させた。

其れでも私が今身体中に有している善逸への想いは確かなもので、もう誤魔化しようが無い。


「……!」

暫く道なりに走り続けていると、少し先に鬱蒼とした木々が消えて月明かりで仄かに光る地面が見える。
山に入った時から漂う不快な匂いが近付く度に色濃く嗅覚を刺激する、そのせいなのか鼻だけで無く目にも影響を及ぼした。
もしかしたら鬼が其処に居るのかもしれない、そんな考えが過った私は刀の鞘をきつく握り締め臨戦態勢に入る。

「……え?」

しかし完全に森を抜け切る前に目に飛び込んだ光景によって、此れまで走る事を止めなかった私の足を簡単に引き留めた。
無数の森林で埋め尽くされた山の上空にはとても大きく美しい丸い月が浮かびがっている。
其れだけで私の目を見開かせるに事足りる材料が揃っているのに、瞳に映し出された映像は其れを遥かに越えた。

私の思考を停止させるに相応しい、其処には円を描いた月の中に人の姿が在ったから。


月光によって黒く縁取られた人影が長い時間空中に浮いている様に見える。
そんな事は有り得ないと頭では十二分に理解しているのに、其れは私の体感を麻痺させて錯覚を抱かせる程にとても幻想的な風景だったのだ。
その後徐々に重力に従って落下速度を強めた後に月の輪郭から外れていき、宙に浮いた家屋の屋根が大きな音を立てた後に再び静寂な空気が戻る。
一羽の雀が慌てて羽根をばたつかせ暗い夜空の向こうに消えていく姿に、私ははっと我に返った。

「早く行かなくちゃ」

幸いにも落ちた先は固く冷たい地面では無くて良かったと、私はほっと胸を撫で下ろした。
しかし目にしただけの頼りない情報ではあるが、叩き付けられた場所が違うだけで落下した時の衝撃は甚大で五体満足では済まない。
今の私に出来る事はその者の生存確認と救護であり、少しでも早く辿り着きたくてひた走る。

鬱蒼とした森を颯爽と駆け抜け突如として晴れた視界に目が眩んだ。
幾度か瞬きを繰り返して刺激を受けた瞳を慣れさせ暫くして、漸く周囲を見渡せると思いきや私は呆然と立ち尽くす羽目となる。

「……何、これ」

其処はこの世とは思えぬ不気味な光景で構築されていた。
其処には気絶した者と、意識はあるが頭髪が抜け落ち錯乱状態の者、そして人間から遠ざかり始めた容姿に変貌を遂げる者の姿が在った。
更に入念に当たり一面に目を向けると、地面を無造作に転がる複数の黒い影が飛び込み、不覚にも私は"ひっ"と小さな悲鳴を漏らしてしまう。

人間の顔を持ち合わせながら半身は蜘蛛の特性を形造った姿が複数体横たわる景色は、際限無く恐怖心と嫌悪感を植え付けた。
恐らくこの無造作に散らばった異形の群れは、現在私の上で身動きを奪われている人達の成れの果てなのだろう。
薄暗い闇夜の不気味さを余す事無く飛躍させる凄惨な視界には、私的な解釈も推察も無意味な程に畏怖の象徴そのものだった。
ただ一つ自信を持って言えるのは、人面蜘蛛へと変貌を遂げてしまった者も過程段階の者も総て鬼殺隊の仲間だという事だ。
私と同じ人間が地獄絵図と化す現状に、身体が縮み上がると同時に強い悲壮感で押し潰されそうだ。
既に蜘蛛にされた者達は元に戻るのだろうか、手立てはあるのだろうか。
私は悪魔の所業ともいえる悪趣味な血鬼術に怒りの業火を燃やしながら、過酷で熾烈な修羅場を潜り抜けた屋根に横たわる名も知らぬ同胞の元へ向かった。


「……善、逸?」

極力振動を起こさぬ様に細心の注意を払って屋根の上に降り立つと、自分の足元で仰向けで横たう人の姿に目を見開いた。
月光で艶やかに輝く金糸と同系色の羽織を他の人と見間違える筈も無い、善逸だ。
こんな状況下でも私の胸をいとも簡単に締め付け惑わせる、私に恋情を授けた男が鼻と口から血を流し目を閉じたまま力無く横たわっていた。

「善逸!目を開けてよ!」

「……なまえ、ちゃん?」

私が放つ切迫気味な声から少し間を置いて、善逸の覇気の無い虚ろな瞳が開かれた。
翳りを帯びた瞼を幾度か閉じては開いてを繰り返しながら、次第に焦点を私が放った声の方向へ合わせ始める。
ぎしりと屋根が軋む音が静寂な空間に一際大きく聞こえる中で、"シィー"という彼の独特な息遣いが定期的に耳に残った。
私の名を呼んだまま一言も口を開かない通常とは様子の違う状態が不安を誘う、しかし何よりも身を案じる想いが先行して静かに膝を付いて彼の様子を伺った。
変わらず善逸は特有の呼吸を繰り返しながら、未だ照準の合わない瞳で私の姿をじっと捉え続けている。

「……ねえ、此れって夢じゃない?夢じゃないよね?なまえちゃんと逢えた。また逢えて嬉しい。……やっぱり俺達は結ばれる運命なんだね」

「……」

"あはは"と乾いた笑いを放つ善逸の声に反して、形造った表情は満面の笑顔を繕っていた。
其れは彼の瞳から滲む涙が煌々と照らす月明かりによってきらきらと煌めきを放ちながら、絶大な破壊力を以て私の心臓を鷲掴みする程に。
自発的に肢体を動かす気力を失って弱々しく寝そべる身体を優しく抱き上げると、善逸は嬉しそうに艶かしく私を見つめた。

……やめてよ、そんな顔を私に見せないで。
泣きたくなる位慈愛に満ち溢れた優しい表情をこんな狡い、別れの挨拶も告げずに去った卑怯で薄情な私が受け止めていい筈が無いんだよ。
善逸の紡ぐ台詞が痛い位に私の胸を締め付けて、欲して止まない、繋ぎ止めたくて堪らない空気が私の肌に絡み付いて身動きが取れない。
私はどうしたらいいの、私はこの人をどうしたいの。
もう分からない、善逸を前にすると私は私で居られなくなる。

私の心情など知る由もない彼は、息苦しそうに呼吸を継続しながら言葉を捻り出す。

「……俺さ、なまえちゃんが居なくなってから毎日同じ夢を見るんだよ」

「夢……?」

「うん。現実の俺は凄く弱いけど、夢だと誰にも負けない位強いんだ。夢の中の俺は沢山の人達を護って沢山の人達に感謝されて。……それで」

「……それで?」

「それで、家に帰ると、なまえちゃんが美味しいご飯を用意して、俺を笑顔で出迎える、そんな夢。俺と君は幸せな家庭を築いてるんだ」

泣きたくなる位凄く凄く幸せな夢なんだ、と涙を滲ませて穏やかな笑みを見せる善逸に私は言葉を失った。
台詞の端々から伝う心底嬉しそうな空気が互いを優しく包み込み、温かな雰囲気は掻き消える事を知らず変わらずの調子で彼は口を開く。

「俺さあ、今まで沢山の女の子を好きになって求婚したよ。……まあ、全部玉砕したけどね。これでも俺なりに本気で恋してたつもり」

「……そう、だね」

「……でも、でもさあ。ずっと一緒に居たくて、居て欲しくて、ずっと好きで居続けたくて、ずっと俺を好きで居続けて欲しい。其処まで強く思わせる位本気で惚れた女はなまえちゃんだけなんだ」

「そんなの、嘘だよ」

「嘘なんかじゃない。なまえちゃんへの好きな気持ちは死んでも変わらない。絶対に変わらないから。……俺、君に約束するよ。もう俺にはなまえちゃんしか考えられないんだ」

「……約束……」

約束から逃げたくて私は貴方から去ったのに。
好きだけど、好きだから、約束を結びたくなかった。

私は選択を間違えているのだろうか、過去に縋り付くが故に本当に大切な事が何なのか見誤っているのか。
重要なのは過去への柵を打破せんとする勇気と、二度と同じ過去を繰り返さない覚悟が必要だと頭では分かってる。

"すぐに帰るから、いい子で待ってろよ。約束だ"と笑顔で出掛けて行った両親の姿が、無惨な肉片の一部となって戻ってきた過去を。
"必ず生き延びて一緒に帰ろう、約束ね"と差し伸べた同期の幼馴染の手が、醜悪な鬼の胃袋に呑み込まれた過去を。

突如として大切な人と想い出が私の掌から零れ落ちていく情景は、見事に未来への希望と豊かな情緒を討ち滅ぼした。
不必要に他人と近付く事を何よりも避けた、親しくなり過ぎれば投げ捨てた情が再び芽吹いて絶望を産み落とすから。
大事な人が増えれば其れだけ私は見えぬ恐怖に怯える事になる、嫌だ、怖い。

「しつこいって分かってる。こんな姿になった俺が言っても説得力に欠けるけど……。俺がなまえちゃんを護るよ。君の命と心を俺がずっと護る」

「……善逸」

もしかしたら善逸となら臆病さの象徴となる、約束事に対する心的外傷を癒す事が出来るのかもしれない。
私は初めて見た時から奥底から漲る彼の強さを察知していた、また其れが未だ発展途上である事も分かっていた。
"約束"という言葉を紡ぐ時の善逸はとても澄んだ空気を纏っていて、普段は仕切りに後ろ向きな発言ばかりを連呼しては不安定な空気を放出する彼の姿は皆無に等しい。
其れは必ず護り通そうとする絶対の意志が垣間見れ、這い寄る死に直面する今の善逸から放たれる空気はこれ以上無い決死の覚悟が神経に伝わった。

善逸は優しい、でも溢れる優しさの陰に哀しい空気も一緒に纏っていて、感覚を伝う度に私は訳も無く泣きたくなった。
彼もまた暗い過去を背負っているのかもしれない。
善逸は愛に飢えている、特に異性への愛慕は顕著に顕れ、結婚してくれと死に物狂いで口説いては自分から離れないよう繋ぎ止めようとする。

本当に私達は正反対だ。


「なまえちゃん。双六しよ」

「突然何を言うの?こんな状況で出来る訳」

「いいから。やろ。俺の羽織の内側にあるから出してもらえる?俺さあ、今手足の感覚が無いから動かせない」

ふと彼全体に目を向けて全身の熱が急激に下がっていくのを感じた、何故ならば肉眼では見えないが善逸の身体の手足が縮んでいるのだ。
無事に最終選別を生き抜いた時に個々の身体に合わせて採寸している筈だから、真っ直ぐ手足を伸ばしている状態で衣服の裾から完全に隠れる事は有り得ない。
其れに一寸たりとも微動だにしない善逸の容態が悪化している事は明白で、再会した時から虚ろであった瞳の光に翳りが見え、時々意識も混濁している節が見受けられた。
気丈に振る舞おうと平静を装っているけれど、もう既に限界は超えているのだ。
こんな時に何をふざけた事をと一喝するつもりだったのだが、穏やかに微笑む中の強さを秘めた善逸を目にしてあっさりと言葉を失ってしまう。
時々悲痛な声を洩らしながらもはっきりとした物言いの善逸に怯んだ私は、遠慮がちに羽織の胸元部分に手を忍ばせた。
かさりと小気味良い音が一瞬響いた後ゆっくりと取り出すと、何度も目にしてきた少し薄汚れた双六が目に映る。

「サイコロは持ってるよね」

「本当に今やるの?」

突拍子の無い善逸の指示に私はあからさまな動揺を見せた。
私が真っ先に行う事は彼の救護であり、間違っても一度放棄した盤上遊戯に再び戯れる選択肢などあってはならない。

「……先に言っとくけどさ。指示内容は絶対に遂行してね」

「……」

平気そうな表情を浮かべているけれど、確実に生気を失い始めている善逸の顔色を垣間見て、躊躇する時間の猶予が無いと理解出来た。
彼の口調は何かしらの企みを秘めていると察するに余りあるが、今の状況下では素直に従う他無い。
私は羽織の裾に手を伸ばし、捨てるに捨てられなかったサイコロを取り出して其のまま屋根に転がす。

「今日は私が確認するから」

「……うん」

双六はあと六個のマスを残して中断されていた。
私が出したサイコロの目は"弐"、どうやら終幕は後日以降に持ち越しのようだ。
……そんな日が訪れるのか、分からないけれど。

「!」

恐る恐る和紙を捲り指示を確認して、私から涙が溢れた。
この男は本当にいつだって私の情緒を悉く撹乱させる、人前で涙を見せない私の涙腺を崩壊して、罪深いにも程がある。

「……あ。そういえば俺、人面蜘蛛に手を刺されたんだった。なまえちゃん、やっぱやめ」

「止めない。絶対に遂行が決め事だったでしょ。……其れに」

貴方の血液を介した毒ならば、私も一緒に引き受けてあげる。

相変わらず無茶苦茶な指示内容だけれど、初めて自らの意思で遂行出来るよ。
貴方のお陰で私は此れからも貴方の傍に居られる、善逸、有り難う。

"好き同士は永遠に離れちゃいけません!さあ、愛を囁きながら浪漫溢れる口付けをしよう"

「……大好きよ、善逸」

二人の真上に煌々と光輝く月を背景にして、満足に身動きが取れないながらも芋虫みたいに蠢く善逸の唇に、私は自身の唇をそっと寄せる。
彼から与えられる唇の柔らかさと、"俺も大好きだ"と紡いだ今まで以上の甘い囁きに心奮い起ち、止めどなく涙と笑みが溢れた。

再び巡り逢えた以上は、縋り付いて離すつもりは二度と無いから覚悟していて。


其れから程無くして、空から美しい羽を有した蝶が私と善逸の元へと舞い降りた。

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