インソムニア

彼女の姿を初めて捉えたあの日は、出会い頭の接触事故みたいなものだった。
奏でる雨音に重なる様に口笛を吹きながら軽い足取りで進む夜の街並は、暗く冷たくまさに僕に相応しい闇の世界だった筈なのに。
彼女と出逢い欲してしまった今ではあの時の光景は大切な1つの思い出となって、僕の視界を明るく照らして仄かに温かい感覚を与えるのだ。

幾重もの世代を越えてあらゆる感覚が麻痺した僕の、奥底に沈殿していた感情が這い上がる。


ーインソムニアー


嫌いなものは上げだしたらキリが無い、長い年月を掛けて構築された僕の中身は嫌悪という病魔に冒されている。
時々脳裏に過る嫌悪の元をランキング形式で思い浮かべてみれば、個々に浮かぶ理由は自身の感情を悉く煽り暴走させ、これでもかという位饒舌に拍車を掛けて凶悪な表情を造らせた。
いつだって笑顔と愛嬌と遊び心を忘れないこのエンヴィー様の顔を歪ませるなんてさ、万死に値すると思うんだよね。
其れでも何もしないよりはマシだから、頭に浮かぶ嫌いなものリストを順々に呟いてみる。
1つ1つくまなく想像すれば、自己判断で格付けした順位を繰り上げたり下げたりで忙しなさを極めた。
今度は暇で嘆く事はなくなった代わりに苛立ちが込み上げたけど、持て余す時間の退屈凌ぎを存分に発揮してくれたから、まあ良しとする。

ぶっちゃけ好きとか嫌いとか心底どうでもいい代物なんだけど、ほんの些細な事でも機転を変えてゲーム感覚で楽しまなければ暇で暇で死にそうだった、死んでも直ぐに生き返るから問題ないけどさ。
そんな僕に"人生は一度きり"なんて言葉は何の格言にもならず心にも響かない、どちらかと言えば"人生は何度だってやり直せる"の方がしっくりくるかも。

最も好きなものは絶望に陥った人間の悲痛に歪んだ顔を拝む事、最も嫌いなものは人間という存在と単語そのもの。
お父様より生を受けて気の遠くなる長い時を過ごしてきても、双方変わらず栄えある不動の地位に君臨し続けてる。
これだけ変わらないんだから殿堂入りにしてやってもいいかもしれない、人間ごときに勿体無い名誉を与える事に多少ムカつくけど。
だって人間ってさ、浅はかで学習能力が無くて群れを為さねば何も出来ない弱者の象徴じゃん。
さも自分達のお陰で世界の繁栄をもたらした功労者だと厚顔無恥を平然と曝す姿は、滑稽を通り越して憐れだ。

ほとんど無意識なんだけど、好きなものと嫌いなものを思い浮かべると文頭に"人間"という単語を必ず出してる。
"「人間」は簡単に惑わされるから好き"、"「人間」は無知だから嫌い"、例を上げればこんな感じに。
よくよく考えてみれば理由はどうであれ好きも嫌いも人間に限定されているとなると、今は嫌悪の対象であるとしても逆に好意に成り変わるのではと思った。
こういうの"嫌よ嫌よも好きの内"って言うんだっけ、うわ、無理。

僕が人間なんかを好きになる?
そんな事あるわけないじゃん、確率は0.00%だね、絶対に有り得ないし。
人間に対して感じている気持ちは否定的な思考しか存在しないのに、どうやったら好きになれるっていうのさ、想像するだけで鳥肌が立つんだけど。
無駄な考えは今すぐに刈り取らなきゃ、僕は人間が大嫌い、其れでいいじゃん。

だから僕は彼女を嫌いになる為に嫌いな生き物に成り下がりながら、ほんの一握りでもいいから微かな嫌悪を必死で探してる。

彼女も僕の全身に駆け巡って不快感を植え付ける、禍々しいウィルスの一部になっちゃえばいいんだ。



勢い良くドアを開けると、人一人居ない静寂の空間が目に飛び込んだ。
自分が発した靴と床が擦れる音が目の前の閑散とした部屋には酷く大きく聞こえた、心なしか室内の気温はドアを隔てた廊下よりも低く感じる。

「ま、居たら居たで困るけど」

呟いた言葉と共に小さく鼻で笑った後、今立っている所から一番近いソファへと脚を進めてドカッと座り込んだ。
何回来ても殺風景で面白味の無い場所だと嘲笑を浮かべながら、乱暴に横たわって一番に映った真っ白な天井目掛けて小さく呟く。

「……何やってんだろ、僕」

軍法会議所に出入りする様になり一体どれ位経っただろうか、余りにも昔の事過ぎて既にうろ覚えだ。
しかも当初の目的を完遂した今となってはもう此処に来る必要は無いのに、僕は今も尚他人を装って脚を運んでる。

「あーもう、苛々する!」

大きく溜息を吐いて寝返りを打ち、此れまでの経緯を険しい表情で振り返った。



最初に此処に来た目的は、僕らの行動に勘づいてこそこそと嗅ぎ回っている軍人を探す事だった。

一体何をしようかとしているのかを暴くには、アメストリス建国時から現在までの戦歴を調べなければならない。
そしてそれらの過去が事細かく記されていて、尚且つ把握するに事欠かないのは軍部の軍法会議所だけ。
しかし此処は謂わば関係者以外立ち寄り禁止区域、頻繁に出入りする為にはきちんとした理由が必要となる閉塞された部署だ。
となれば許可の必要が無くいつでも出入り自由のフリーパスを持っている人間、つまり軍法会議所勤務の奴ではないかと早い段階で目星を付ける。

"膿は早急に取り除かねば"と、思い立ったら吉日と直ぐ様実行に移した。
本来ならばゲームのレアボス撃退並みに難しい事だけど、このエンヴィー様の手に掛かればお茶の子さいさい。

姿形を自由自在に変化できる能力って超便利、こんな画期的な機能を備えてくれたお父様に感謝しなくっちゃ。
其れに以前軍部に侵入した際に擦れ違い様に軍人の男の顔を記憶していたから、呆気ない程に簡単に侵入出来た。

後々になって周囲からの声掛けで分かったんだけど、コイツの名前はインウィディアというらしい。
階級は軍服に付いた勲章で判断する限り少尉、そんなに出世しそうにない見てくれだけど人は外見じゃ判断できない事を学習した。

コイツの素性を知った時、僕は一番に"最悪"の単語が過った。


しかも僕が成り済ました男は割りと人望が厚い様で、軍人共と擦れ違う度に声を掛けられ内心辟易しながらも笑顔で対応しなければならなくなった。
度重なる人間達との関わり合いで苛付きか頂点に達し始めた僕は、化けの皮が剥がれてバレそうと思ったと同時に、どの部署に所属しているのかも分からないしで路頭に迷った。
其れでも行動あるのみと何気無く軍法会議所内に入ったら、奇跡的にもコイツは此処で働いていたらしくすんなり受け入れられる。
おまけにこの男の性格は普段の僕の性格と然程大差無い事を知り、蓄積されていたストレスから解放されて清々しい気分になった。

"ほんっと僕ってluckyboy!"と心の内で自分の運の良さに自画自賛したのも束の間、"てことは一日中監視出来ないじゃん"と直ぐに意気消沈する羽目になる。
仕方無いから本物のコイツと鉢合わせ無い為に、就業時間の始まりと終わりを狙って脚を運んだ。
別に鉢合わせてもソイツの存在消しちゃえば問題は難なくクリアするんだけど、出来るだけ殺生は避けたいんだよね、ほら、僕って平和主義者だし。
ああ面倒臭い、とっとと標的を見付けて手早く仕留めてさっさと帰りたい。

……そう思っていたのに今では自ら脚を運んで、仕舞いには其れが楽しみになってしまっている現実に目を塞ぎたい。

そして成り済ましたコイツの名前が、今更に僕を窮地に追い遣るとは。



「おはよう、インウィディア」

就業開始から一時間以上余裕のある部屋のドアが開き、ソファで優雅に寝転がっていた僕の耳が捉える。
ドア側に頭を向けているから相手の顔なんて分かる筈も無いのに、声色だけで簡単に判断出来てしまう自分の心境を呪ってやりたい。

「今日こそは一番だと思っていたのに。また先を越されちゃったな」

「……おはよう、なまえ少尉。僕に勝とうなんて100年早いよ」

「相変わらず口が悪いんだから」

完全無視を決め込む態勢だったというのに、意思に反して思わず声を出してしまった。
"馬鹿か!"と急いで手で口を塞ぐも既に後の祭り、なまえの微かな笑い声が耳を擽る。
……このまま狸寝入りしてりゃいいものを何を律儀に挨拶を返してるんだか、平静を装っていても身体は嘘が吐けない、秒刻みで鼓動が加速する自分の正直さに顔を歪めた。

自席に向かい鞄を置くなまえの姿を視線だけで捉えていると、不意に顔を上げた彼女と視線が交わった。
予期せぬ自体に慌てて瞳を反対方向へ移動するも、そんな僕の行動に気付いたのか否か、彼女は再び微笑みを浮かべて声を掛けてくる。

「眠そう。珈琲でも淹れる?」

「……」

其の表情は必死に押し殺している感情を溢れさせるから嫌だ、気持ち悪くてやっぱり苛々する。
優しさに満ちたなまえの自然体の笑みと発せられた台詞の中の単語は、問い掛けに対する返答を忘れさせ、否応なく僕を思念の世界へ飛ばした。

そうさせるのは、目の前の女があの日と同じ笑みを僕に見せるからだ。


少しだけ前に遡る。
こそこそと厭らしく第5研究所に忍び込んだ、弱っちょろい癖に無駄に血気盛んな鋼のおちびさんの腹に蹴りをお見舞いしてやったあの日。
あっさりと気絶してしまった彼を其のまま放置して帰ろうかと思ったんだけど、一緒に居たラストが"彼は大事な人柱候補なんだから"としつこく言うもんだから流石の僕も根負けした。
仕方無く鋼のおちびさんを追い掛けてきたであろう軍人達の所に届けてやった、其処までは別に問題はない。

その後お父様に今日の報告をする為に家路に向かっている最中、突然見舞われたゲリラ豪雨。
ほんの数分前の夜闇の静けさとは一転、けたたましい雨の音と身体に刺すような雨粒が僕を包んだ。
いつもの自分だったらすこぶる気分を害すに充分な状況なんだけど、その時は小生意気な鋼のおちびさんに一撃を与えられた事にご満悦だったから許せた。
"こんな日も悪くないよねー"と、上機嫌で口笛を雨音に乗せながら角を曲がって直ぐにご対面した人間がなまえ。
危うくぶつかりそうになって軽く文句を言ってやろうかと口を開こうとしたら、なまえの問い掛けで先手を打たれて不覚にも足止めを食らった。

「びしょ濡れじゃない。傘は持ってないの?」

「……はあ?見れば分かるじゃん。放っておいてくれない」

「良ければこの傘使って。返さなくてもいいから」

「要らないし。あのさあ、人間なんかに心配されたくないんだけど。本当人間ってお節介!あー、やだやだ。だから嫌いなんだよ、人間は」

「自分だって人間でしょ!じゃあ家に来て、すぐ其処だから」

外見は僕より少し上で恐らく20代前半、二言目と共に差していた傘を此方に傾けた光景は今でも鮮明に覚えてる。
親切心の押し売り、余計なお世話、有り難迷惑、何度か繰り返される会話の度にそんな考えが過った。
最終的にはいきなり手首を掴まれ、無理矢理になまえの家へと引き摺られた。
なんて強引な女なのだと心の中は文句で埋め尽くされたけど、有無を言わさぬなまえの雰囲気と言動に圧倒されてしまった。
僕は案外強引に押し切られたり詰め寄られると弱いのかもしれない、ラストの時もそうだったし。

本当は直ぐにでも掴まれた手首を振り切って逃げてしまっても良かったんだけど、ホムンクルスだって身体の構造は人間とほぼ同じだから風邪は引く、基本丈夫だけど。
其処まで言うのであれば折角だから至れり尽くせりさせて貰って、この女を下僕の様に扱ってやれという悪知恵が働いた。
どうせもう二度と会う事は無いんだからやりたい放題しちゃえばいいんだと、僕は"当然お茶の一杯位出してくれるんだよね"と先行くなまえの背中を見つめながら注文する始末。

だけどなまえの家に着いて雨に打たれていた時の考えは、不覚にも簡単に覆された。
安いインスタントコーヒーと貸し出されたなまえの衣服の香りが漂う一室の中で、徐々に気を許してしまっている自分。
人間が嫌いだという根底自体は確かに変わらず根付いている、数秒でも奴等と同じ空間に居る状況は苦痛以外の何物でもない筈だったのに、彼女との行き交う会話は時間軸を鈍くさせた。

どちらかといえば普段猫被って社交性に富んだ自分が、不思議と初対面の女であるなまえに本来の素の部分を曝す事に躊躇を削ぎ落とした。
其れは彼女から放たれる問い掛けに対して毎回皮肉と嫌味と屁理屈で受け答えをしても、嫌な顔1つ見せずに楽しそうな微笑みを浮かべる姿に少なからず感化されたからなのかもしれない。
人間に対して耐え難い程の暴言を突き付けているのに、寧ろ賛同の意を込めた言葉を彼女も時折返してくる。
決して人間を卑下する訳では無く、ましてや人間を非難し続ける僕を諭す訳でも無く、"そういう所もあるね"とにこやかに切り返す姿が此れまで接してきた人間とは違っていた事がとても新鮮で。

其れが何故だかとても嬉しくて、まるで身体中に蔓延していた毒気が抜けていくみたいだった。
なまえは素の僕を受け入れてくれる、"嫉妬"という醜悪な感覚で形作られた自分を寛容に包んでくれる。
なまえの存在は僕に此れまで微塵も生じなかった感情と感覚を与えさせるに事足りた、他の人間だったらきっとこんな気持ちは芽生えない。

僕はなまえに対し此れまで感じた事の無い感情が込み上げている、其の事実に心が激しく揺れた。



「不味い珈琲ごちそうさま」

「全部飲み切っといて失礼じゃない?」

「だって其れしか無いって言うからじゃん。其れにあんなの見せられたら喉が渇いて飲まずにはいられないし」

「えー、私の周りではあれ位普通なんだけど。……そうだ、今更だけど貴方の名前を教えてくれる?」


「……インウィディア」

ほぼ無意識で名乗った固有名詞は、自分でも何故其れを選択してしまったのか理解に悩んだ。
だけどなまえに名を聞かれた時にほんの一瞬だけ凄まじい早さで思考が通り過ぎた、其れはつい数時間前に知り合った女に本名を名乗る必要は無いという理由と、本名を言いたくないという不可思議な結論。

"嫉妬"の意味を持つ自身の名を此れまで隠したりなんてしなかった、寧ろ最高で気高く崇高な名前であると思っていた。
反面一般的には決して前向きな意味合いを持たない醜い感情の象徴だという事も理解していたから、そんな名が自分に付けられているのだとなまえに知られたくなかった。

だから咄嗟に思い浮かべた単語を口に出した。
"嫉妬"と同類の意味を持つけど、前向きで堂々と放てる言葉、"羨望"の意を担うインウィディアの名を。

……奥底から這い出て漲るこの気持ちは何だろう、気味悪くて苛付く。

「じゃあインウィディア。気を付けて帰ってね」

"それじゃあね"と微笑みながら片手を振ってドアを閉め、少しずつなまえの姿が見えなくなる光景は、これでもかという位胸を締め付け切なさを与えた。
もう二度と会えないのだろうか、あと一回だけでもいいから会えないかな、寧ろ会いに行ってもいいかな、別にいいよね、嫌がっても無理矢理押し入ってやる。

其れから数え切れない位なまえの家に行った、彼女も突然の訪問に驚きはしたものの快く招き入れてくれた。
用意された珈琲は相変わらず薄くて不味かった、"豆をケチるなよ"と文句を言いながらも口に運ぶ光景をなまえは嬉しそうに眺める。
"不味い、不味い"と言い続けても彼女は改善する意志を見せなかった、果たして豆が勿体無いから使い切ろうとしているのか、はたまた自分の中では美味いと思っている味覚音痴なのか。
行く度に馬鹿の一つ覚えみたいに発する言動は最早挨拶代わりとなっていて、自身でも其の台詞を吐く事が苦痛ではなくなっていた。

そんな状況に僅かに幸福を噛み締めて僕らの目的を嗅ぎ回ってる奴を見付ける為に姿を変えて潜入したら、軍法会議所の中になまえが居た。

僕達の間で飛び交う会話に互いに私生活の深い部分までは話さなかったから、彼女の働き先なんて知る由も無かった。
盛り上がる内容は大抵なまえが出す珈琲の話題とその後の彼女の行動の批判とあとは大体僕の愚痴、考えてみればどうでもいい話しかしてない。
大した中身の無い会話を延々と繰り返していても、なまえは楽しそうに嬉しそうに聞いてくれた。
話の内容なんてどうでも良かった、ただ一緒の空間で時を過ごせる状態が、其れだけが強い意味を持っていて。

だけど敵対関係にあると分かってしまった時、確実に膨れ上がったなまえへの想いをどうにか消そうと必死になった。
元々人間の存在に価値なんて無いって常日頃から思っていたのだから、ほんの些細な材料一つで簡単に気持ちを手放せるものだと自信があったのに。

その後に起こった巻き添え事故ではっきりと気付いてしまって、なまえを手離したくない衝動が暴走してる。



「はい、どうぞ」

「……あ、ああ。どうも。……うわ、不味そう」

カチャンという甲高い音が突然耳に届き、暫く物思いに耽っていた僕の意識を一気に現実へと戻した。
音を奏でた方向に視線を落とすと、カップの内側からゆらゆらと揺れる湯気が立ち上がる薄茶色の液体が目に飛び込み、僕は一心不乱に其れを眺め続ける。
"彼女が淹れる珈琲は何故だか薄くて不味いんだよな"と思いながら背中を向けるなまえを見ると、彼女の手元で行われている状況に顔をしかめた。

「……あのさあ」

「何?」

通常より若干低めの声で話し掛けると、なまえ自分と反対側に向けていた顔をくるりと此方に向ける。
其れでも手元は変わらない動きを継続している様を見て、僕は先程以上の険しい顔付きを露にした。

「砂糖入れ過ぎじゃない?見てるこっちが気持ち悪くなるんだけど」

自分で何杯入れてるのか分かってる?五杯だよ、五杯。
甘党にも限度があるっつーの、しかもまだ入れようとしてるからどんだけだよって思う。
薄々感じてたけど絶対に味覚音痴だよね、家で出される珈琲豆も勿体無いから使いきってる訳じゃなくて、なまえが好き好んで買っている代物だと最近知った。

こんな小さな欠点も以前なら嫌悪の対象になっていた筈なのに、彼女になると愛しく思えてしまう僕は重症だ。


「……ふふふっ」

なまえの行動に否定的な言動を放ったというのに、彼女は不貞腐れる所か心底楽しそうに笑った。
糖分摂取過多のせいで頭がおかしくなったかと怪訝な表情を向けていると、大量の砂糖が入った胸糞悪い飲み物を口に含んだ後に変わらぬ笑顔を見せながら口を開く。


「貴方、インウィディアね」

「はあ?当たり前じゃん。何言ってんの」

発せられた言葉に間髪いれずに答えると、再び可笑しそうになまえ声を出して笑った。
腹を抱えて笑える程の台詞を僕は言っただろうか、此れまでの会話を振り返っても全く見当が付かない。
答えの出ない苛立ちで眼光鋭くなまえを睨み続けていると、僕を見て不快感に気が付いたのか"ごめん"と謝ってきた。

「私が言っているのは、今みたいに私が珈琲を淹れると"不味い""薄い""砂糖入れすぎ"って散々な文句を言い放つインウィディアの方」

「……今まで口に出さなかっただけだから。ずっと思ってたけど言われたらショック受けるでしょ」

兎に角その場を凌ごうと言い訳を捻り出した、なまえの言い方を察するにもう僕は本物のインウィディアではないと確信している。
素直に認めてしまったら二度と二人きりの空間は訪れない、そんな事を言える立場じゃないと重々理解しているけど、避けたかった。

ずっとずっと気持ちを誤魔化していた。
会う度に増幅していく感覚から逃げたかった、そうしないと僕は頑なに思ってきた人間への憎悪に近い嫌悪を糧に生きてきたから、どうしたらいいのか自分で自分を見失ってしまう。

だけどある切っ掛けでこの気持ちがなまえへの恋心だと気付いてしまった。
鋼のおちびさんと糸目野郎の巻き添えを食らってグラトニーの腹の中に吸い込まれてしまった時、血生臭い闇の中で一番に彼女の姿を思い浮かべて絶望した。

この中に閉じ込められたら二度となまえに会えない、嫌だ、会いたい、どんな手を使ってでも元の世界へ戻りたい。
もし戻る事が出来るのならば四六時中傍に居てやる、喩え自分が嫌悪する人間の姿に成り済まし続ける事になっても、ずっと、ずっと。

きっと僕の容姿は軍部全体に知られてしまっているだろうから本当の姿で会う事はもう出来ない、虚像に包まれた自分で近寄る選択肢しか残されていなくても其れでもいい。

あの日から僕はなまえを嫌悪の対象から永久に外す意志を固めた。



「まあ二つ目までは確かに良く言われたけどね。だけど三つ目に限っては絶対に言わない台詞なんだよ」

「……どういう意味?訳分かんない」

首を傾げながら眉を顰めて問い掛けると口端を上げて笑うなまえの表情に胸が高鳴った、目を細めて嬉しそうに僕を見つめる状況に耐えきれず瞬時に目線を珈琲に向けたと同時に彼女の声が聞こえる。

「私でさえもウンザリしてしまう程の超甘党だから。其れに彼は自分の事を"俺"って言うんだよ、インウィディア。……いいえ、エンヴィー」

「……!?」

「自分を危険に曝してまで私に会いたかった?」

「ち、違うから!自意識過剰なんじゃないの」

「私は会いたかった」


もしも僕が卑怯な手を使って一人の男を死に至らしめた現実をなまえが知ったなら、今と同じく僕を其の腕に収めてくれるだろうか。
もしも僕が冷酷な表情で一人の男に銃の引き金を迷い無く引いた光景が逆の立場てあったとするならば、僕と向かい合って額に銃を突き付ける相手はなまえがいい。

だけど願うならば、永久にそんな日が訪れませんように。



僕の体内は嫌悪というウイルスが血液を介して常に身体中を蔓延している。
だけど彼女と出逢い、奥底へ沈んでいた前向きな感情が膨れ上がって、胸に凝縮して腫れた心はゆっくりと其れを和らげていった。


僕は長い人生の僅かな時間にしがみつく、喩え其れが儚く脆い夢物語であっても。



END

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