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私はただ、誰かに愛されたかった。

私はただ、誰かに必要とされたかった。

強烈な憧憬が型を成して身を投じた先は、欲に塗れる穢れた宴の世界。


【愛欲の宴 −序章−】


どうして私は毎晩机と睨み合っているのだろう。
何故私は自分で取り決めた1日のノルマに此処まで躍起にならなければいけないのかと、ふとした瞬間猛烈な猜疑心に襲われる事が時々ある。
密やかに空虚と孤独感を膨らませていく夜更けはただただ静寂だけを与えるだけで、決して私を救ってはくれない。

其れでも状況に立ち向かえるのは、あの人が放つ呪いみたいな台詞が原動力となっているからだ。


「受験勉強は進んでいるの、莉子。早く着替えて勉強しなさい。煩く言うのもあんたの為なのよ」

顔を合わせれば毎度告げられる言葉は極めて歪な表情を作り表して、同時に心の中は肉親に対する罵詈雑言で埋め尽くす程の負の連鎖反応を引き起こした。

「……嘘つき」

言われなくても解ってる、いい加減しつこい。
私は私のペースでちゃんと勉強しているんだから、一々そんな事言う為に呼び止めないでくれるかな。

住む地域の中でも名門と称される大学を受験しようとする私を、ご近所さん達に自慢したいだけの癖に、私の為だなんて見え透いた嘘を良く平然と言えるよね。
あんたの真っ黒な考えなんて金と欲に眩んだ醜い顔ですぐ解る、自分の育て方が良いからって言われたいだけなんでしょ、ふざけないで。
私はあんたの周囲の株を上げる道具なんかじゃないんだよ、こんな時に親の威厳をひけらかすのは止めて欲しい、腹が立つだけだから。

……だけど私が何不自由なく学校に通えているのは悔しいけれど母親のお陰だから、毎回繰り出される小言に逆らわずぐっと堪えている。
何故ならば蒸発してしまった父親の代わりに女で一つで私を育ててくれたから、少なからず私は彼女への恩があった。
金銭面でも、生活面でも、不甲斐なくも親の脛を齧っている今の自分の現状では何を言われてもそれに黙って従うしかない。
どんなに性根の腐った母親の現在の姿を垣間見ても、自分が生活力を得るまでは私は母親の言いなりになるしかないのだ。


「……何、今日もまた出掛けるの」

帰宅してきたばかりの私がリビングに足を運ぶと、身支度を済ませてジャケットを羽織っている母親と対面した。
家の中でも比較的身なりには気を遣っている彼女だが、明らかに外出用の服に着替え直していた為に簡単に把握出来た。
其れに今みたいな状況は此れまで数え切れない位遭遇してきたから、私は半ば呆れ気味な表情で彼女に刺々しく声を掛ける。

「夕飯は用意してあるから。後で温め直して食べて」

「うん」

「其れから、私が居なくてもちゃんと勉強しなさいよ」

「……分かってる!」

だからもう聞き飽きたってば、いい加減にしてよ。
心の中で犇めく思考に苛立ちが沸々と込み上げて激昂した私は、勢い良く顔を背けて不愉快極まりない表情で口を開く。

「じゃあ、後はよろしくね」

「……服も香水も似合わなすぎ」

私の怒り心頭な態度と不躾な言動など気にも留めず、母親は淡々と言葉を返しながら颯爽と玄関に向かっていった。
視線を重ねる事も無いまま流れる様に私の肩を僅かに掠めて通り抜けていった嘗ての道筋は、既に少し先で靴を履く母親が付けていた香水の残り香で蔓延している。
むせかえる程の甘ったるい匂いは程無くしてドアの外へと足音を奏で始めた彼女の姿とは反対に、室内に立ち込めていつまでも消えてくれない。
先程まで確かに此処に居たという形跡は心底気分を害すに充分すぎて、私は強制的に植え付けられた嫌悪感で顔を歪ませる。

「……私はあんな風にはならない、絶対に」

母親を見るといつも思う、今のご時世では女も教養を身に付け将来に生かす事が必要であるのだと。
小さい頃に時々耳にしていた彼女の少女時代は、学年でも常に上位でいた位の優等生だったらしい。
真面目で生徒の鑑と称されていたという話は、当時彼女が通っていた高校の教師だった父親から誇らしげに語られた事は今でも覚えている。
嘘か本当か過去となった今では確証が無いから半信半疑だけれど、数年前までの母親は彼の半歩後ろを歩く様な慎ましやかな人だったから、多分事実なのだろう。

だけど現在に引き継いでいなければ何の意味もない。
今ではあの頃の片鱗を伺わせる部分は完全に失われていて、少なからず理想の母親像であった嘗ての尊敬の念すらも簡単に打ち崩される。
其れでも胸を潰される様な強い喪失感に襲われて暫くは、どうにかして払拭しようと努力はした。
母親の変化はきっと一時的な豹変でいつかは再び優しく穏やかな本来の姿に戻ってくれるのだと、そう信じて繰り返される同じ言葉をぐっと我慢強く堪えたのだ。
……でも改善する処か酷さを増す日常で其れは無駄な希望なのだと思い始めるようになり、次第に心がやさぐれていった私は彼女に期待する気持ちを放棄した。

もういいよ、貴女には何も望まないから。
もういいよ、私は貴女に何も求めないと決めたから。

私は三年生に進級してから数年後の自分の未来を設計し始めた。
まずは精一杯勉強をして就職率の高い名門大学を主席合格する、合格したら奨学金制度を利用してこの家を出る、そして今後は母親の後ろ楯を完全に断ち切る事。

主席で合格する事は、此れまで私を育ててくれたせめてもの恩返しだ。
強欲な彼女は偏差値の高い大学に受かる事だけに飽き足らず、必ず主席で合格するようにととんでもない要求を追加してきた。
告げられた台詞に私は直ぐ様"そんなの無理に決まってるじゃない"と言おうとしたけど、すかさず口を閉ざした。
何故ならば私にだって意地とプライドはあるし、始めから出来ないと諦めたくなかったから、そして何よりも彼女に目に物見せたかった。
喩え母親の願望成就に荷担する事になろうとも、主席合格の実現を果たせば其れでご満悦なのだろうし、希望通りになれば四六時中同じ言葉を吐き捨てる光景に遭遇しなくて済む。
私の中で母親の存在は拒絶と嫌悪と心労の象徴でしかなかった。

「勉強しよ」

彼女が外出して暫く物思いに耽っていた私は、一つ大きな溜息を吐いて足先を部屋のドアへと向ける。
とりあえずは目先まで迫っている模試の事を考えねばと、制服から部屋着に着替える為に薄暗く冷たい階段をゆっくりと登った。


生涯大切にしなければならないものは誰しも必ず一つは所持していて、其の想いを捨て去り蔑ろにしてしまえば、相応の天罰が下る。
私はあの時をこんなにも後悔した事は無かった、意固地にならずにもっと歩み寄っていけば良かったのに。

壊れてしまった私にはもう、修復する機会さえも失ってしまった。

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