5話「彼女の名前」

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彼女の話に冨岡はじっと耳を傾けた。

「そこで一般客としてあの男が来たのです。しかもああ見えて地主で…昔からうちの宿を贔屓にしてくれているんです」
「その男がなぜおまえをつけ回す」
「自分で言うのも何ですが、気に入られてしまったようで…」

彼女はがくりと肩を落とした。

「彼もこのことは自分の身内や仲間には知られたくないみたいです。だからこっそりやってくるんです」

いつも「あなたの周りに言いふらしても良いんですか」と言うと逃げ帰るらしい。
しかし酒を飲んでいる日はなかなか帰らないのだと、彼女は大きくため息をついた。


「相手は鬼でも何でもないただのろくでなしなのに…鬼狩り様の手を煩わせてしまって申し訳ないです」
「気にするな」

気の利いた言葉を言えないのがこの冨岡義勇という男である。

「また何かあったら言え。俺がいる時であれば少しは力になれるだろう」
「そんな!」
「いつかおまえの勤め先で厄介になるかもしれない。お互い様だ」
「……ありがとうございます。嬉しいです」

心から安心したように彼女はふわりと笑って見せた。
もともと雰囲気が姉に似ていた女性である。
冨岡は少し切なくなって顔を背けた。

その間に彼女は一旦断りを入れ、部屋の中へ行ってしまった。
少ししてから何やらかかえて冨岡の元へ戻ってきた。

「あの、もしよかったら…」

そう言って彼女は冨岡に包みを差し出した。

「きんつばです。お嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃない」

さすがに好きでもない、とは口にしなかった。

「あの男とはまた別のお客様からいただいたんですが、私きんつば苦手なんです」
「そうか…ならいただく」
「ありがとうございます」

彼女からきんつばを受け取り、自宅へ戻ろうとしてふと足を止めた。

「名前を聞いても良いか」
「えっ」
「おまえの名前だ」
「あ」

彼女は一瞬ぽかんとして、でもすぐに笑顔で答えてくれた。

「苗字名前と申します」
「…俺は冨岡義勇だ」

こうして2人はこの時になってようやく初めてお互いの名前を認識した。



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