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正家が越後へ遠征に向かって早ひと月。
その間、同盟国が続々と大坂城に集い寄った。
島津、長曾我部、金吾。
巫もこちらに靡いておる、正家が上杉の懐柔に成功すれば、天下の趨勢はわれらに傾くだろう。
順調と表する他なし。
太閤を失いし直後は三成も正家も惑い、悩み、足元も覚束ない様子だったが、今やその気配はない。
三成は大将たる器を示し、同盟国の将より慕われている。
正家は豊臣の軍師としての自覚を強め、日々各国との円滑な交流に努めている。
われは…われは一体、あの二人のために何が出来ているのか。
はかりごとも悪巧みも、何者かに阻止されているのか、するりと上手くはいかぬ。
巫の調略に時間がかかっていることもその証左。
正家は日々、同盟国を増やしているというに、われのこのザマは何だ。
この世に不幸を呼び寄せる、徳川を不幸の沼に沈めやる。
西軍と見れば順調にもかかわらず、われの企みは不調よ。
三成、正家、あの二人を転がしてみせ、より輝く不幸を撒いて見物したいというに。
今日も今日とて、真田と打ち合いをしているらしい三成の様子を見るため、修練場に向かっていると、強健な腕に肩を組まれる。

「よう! 大谷!」
「…長曾我部か。何用ぞ。われに触れるな」
「おう、悪ィな! いやなに、石田について気になることがあってな」

…この男も、病を気にせず触れる質であったか。
腕を振り払い、向き直ると長曾我部は腕を組み、深刻そうな表情で告げてくる。

「石田の野郎、あいつ、飯食ってねえだろ」
「…はあ、ぬしで四人目よ。最初は金吾、あやつは三成の手を付けなかった膳を食って良いかとな。次に真田。日に日に青白くなっていくと。そして島津。ここひと月で一気に痩せたとなァ。そうか、三成は食事を抜いているか」
「あんだよ、知ってるくせに知らねえフリとはなァ。素直にならねえと後悔するぜ?」
「なんのことやら。…大将がこの様子では、ぬしらに示しがつかぬな。ただ、われではあれに食わすは力不足よ」
「ん? あいつのあの様子じゃ、飯を抜くなんて日常茶飯事だろ?」
「そうよ。故に、正家がその度に飯を食わしておってなァ。われの言う事は、殊飯に関してはとんと聞かぬ」
「は…。長束が城を空けるのなんて、それこそいつものことだろ! その度に石田は飯を食わねえってか!」
「必要性を感じておらぬのでな」

金吾、真田、島津、長曾我部。
一人目を除き、皆、三成を心配してわれに声をかけてきた。
三成は上手いこと将の心を掴んでいるらしい、それは喜ぶべきことだが、飯を食わぬはまずい。
太閤臥せし後、あれはどれくらいの期間、飯を食わなんだか。
あの記録を抜いておるのではないか。
正家が城を明けて以来、碌に食っておらぬのでは、そろそろ倒れるであろ。
そうなれば、遠征より戻ってきた正家に叱られるのはわれよ。
…いや、当然三成が一番に叱責を食らうであろうが、われに飛び火するのは面白くない。
そも、元服してすでに数年経過している大の大人に、やれ飯を食え、抜くなと見張らねばならぬのが間違っておる。
いやはや、われも正家も、ずいぶん甘やかしたもの。
とはいえ、欲のないあの男は、われらが目を光らせておらねば飯も睡眠もとらぬ。
つまり、正家不在のこの城で、三成の世話をすべきはこのわれということ。
……いや、いや。われも気づいておったのよ。正家の出発一週間後のことであったか。
焦点の定まらない目で城を彷徨いておった姿を見てすぐに見抜いたわ。
ああ、調略に気を取られ、三成の面倒から気が逸れておったとな。
それではなぜ、ここまで三成を放置したか。
いやなに、正家が戻るまでには倒れ、それを契機に三成に説教しようとの魂胆でな。
正家には、まず倒れないように事前に手を打てと言われるところであろうが、ほんにわれには、あれに飯を食わす手立てがない。
われの苦言など聞きやしないのだ。
いや、われの言葉は、あれなりに気にかけておろう。
それはそれとして、鍛錬と政務が、あれにとっては肝要なのよ。
ゆえに優先度が低い食事も睡眠も、後回しにされる。
だからこそ、倒れた折に、飯を食わぬからだと言い聞かせようとな。
それが、まさかここまで粘るとは思わなんだ。

「そろそろ長束が帰ってくんだろ」
「ああ……そうよ、ちょうど一週間前に忍より文を受け取った。そろそろ帰城の連絡があろ」
「俺が見るに、あんたらの中で一番怒らせて怖えのは長束だろ、いいのか?」
「なにもかも良くない。われだけではないぞ、気づいておった主も叱責の対象よ」
「ゲ! それは敵わねえ! 大谷、上手いこと石田に飯を食わせろよ!」
「それが出来ておればわれはこうも焦りはせぬ。……ぬうう…よくもまァ、飯を食わねで真田と毎日毎日手合わせをしよるな、あれも…」

頭を抱える。
この大坂に神鳴りが落ちるのもほんのすぐの未来よ。
まさかこのようなことで毛利の手を借りるわけにはいかぬ。いや、あの男はこれしきのことに知恵を授けることを馬鹿馬鹿しく思うであろう。
島津も真田も、もともとが健啖家。参考にならぬ。
この長曾我部も、図体を見るに飯を抜くなど想像の余地もないこと。
さて、どうしたものか。
悠長に構えている暇はない、こうしているうちにも、正家は城への帰路を急いでいる。

「…長曾我部、忠告、感謝する。今日の夕餉は広間にて皆で摂るとしよ。ぬしからも三成に一言頼む」
「ああ、任された! ったく、飯を抜くなんざ考えられねえぜ。俺ァ飯が生きる楽しみの一つだってのによぅ」

ぬしぬしと長曾我部が廊下を行く。
われは自室に戻り、正家から受け取った「あれ」を探さねばならぬ。
これまで、三成の膳の監督を請け負ってきた正家。
その研究成果、「三成の食いつきが(比較的)良かった献立一覧」…!
不在にする間の食事の手配もして行ったであろうに、何一つ手を付けられなかったと知れば正家は傷つくであろう。
それを気取られぬよう、われは手を打たねばならない。
今から女中に伝えれば、夕餉には間に合うであろう。
われがあれを活用することになるとは思わなんだ、どこかしこに適当に置いた記憶がある。
やれ、面倒な!

* * *

「見えてきたな、大坂城」
「はい、ここまで長い旅路でしたね」
「ああ、まともに風呂に入れない日が続くこともあった。ゆっくり汗を流したいな…」

越後からの帰路。
少数の兵といえど軽々しく村に滞在するわけにもいかず、大きな町以外では野営をしていた。
服も数着を着回していたので、今俺は臭うだろう。
おなごの鳳のそばにいるのも申し訳ない。
三成に挨拶する前に風呂に入りたいが、今回の遠征の報告が一番だろう。
…この臭い体で三成の前に出るのは嫌だなあ。
誰が好き好んで、好いている相手に臭い体を近づけたいと思うか。
鳳を先触れに出して、風呂に直行してしまおうか。
そうすれば、鳳も早く風呂に入れるだろうし。
…そうだ、報告もすでに文でしてるわけだし、風呂に入ってしまおう。
決意すれば早く、鳳を振り返って先行を頼む。

「鳳。先に行って、まずは身なりを整える旨を三成に伝えてくれないか。戻ってくる必要はない。お前もそのまま風呂に入れ」
「いえ、私の最優先は正家様です。すぐに戻りますのでこのまま大坂城へお向かいください」
「いや風呂に…っ、…もう行ってしまった」
「長の心もお考えください。あの方は、あなたが無事であることが生きる指針なのです」

鳳の補佐である麒麟が告げる。
俺の無事と言ったって、ここは大坂。三成のお膝元。俺にとっての安全地帯と言っても過言ではないだろう。
そんな場所で、寡兵といえど護衛がいる状況で、どうして俺が傷を負うだろうか。
…いや、言いたいことは分かる。たしかに俺は弱い。不意を突かれたら万が一もあるだろう。
そうはいっても、お前たち忍隊を斥候として放っている状況で不意もなにもあるものか。
信頼を伝える意味でも、頷いて微笑んでみせれば麒麟は諦めたように下がった。
大坂城は目と鼻の先だ、鳳ならばこの一瞬で戻ってきてしまうかもな、と兵たちと談笑していると、目の前に傅く鳳の姿。

「戻りました」
「…今ちょうど、お前が今すぐにでも戻ってきそうだと笑っていたところだ」
「? それのどこが笑えるのでしょう」
「あり得ない話として冗談を言い合っていたんだよ…!」

汗一つかいていない様子に、忍としての能力の高さが察せられる。
いやもう痛いほど感じ入っているのだが、俺は本当に良い配下を持つことができた。
そうして皆で大坂城の門をくぐる。
城の前で兵たちと、風呂の前で鳳と別れ、一人大浴場へと向かった。
途中すれ違った女中に着替えの用意を頼み、汚れ切った衣服を脱ぎ捨てていく。
ああ、本当に全身ベタベタだ。
湯を桶で掬い、体に打ちかけていく。
あー…生き返る心地だ。
戦が終わったら、みんなで湯治に行くのもいいかもしれない。
ここから近場なら有馬、武田領まで足を伸ばして下部もいいな。
いや、その頃には天下を平らげているわけだし、出羽の蔵王まで向かうのも楽しそうだ。
あれやこれやと考えていると、大浴場の出入り口が開く音がする。
振り返れば、白い肌を晒す長曾我部がいた。

「おっ! 長束! 戻ってたのか!」
「長曾我部! 久しぶりだな。俺が城を空けている間に登城したと聞いていたよ。まさか登城後初のお目見えが風呂になるとは思わなかった」
「いやあ、そうだよなぁ! 奇遇だなあ! まさかあんたが風呂にいるとは思わなかった!」
「ああ、まだ真昼間だろうに、お前はまたなんで風呂に?」
「いやあ、ハハッ、毛利とやり合ってよぅ、汗かいちまってな」
「あの毛利と…。それはご苦労だったな、俺なら御免だ」

ぎこちない笑みを浮かべた長曾我部は、俺に並ぶと豪快に湯を浴び始める。
その飛沫がかかって、文句を言うも梨の礫。
笑い飛ばされてしまう。
備え付けられた洗浄剤で全身を洗い、湯船に浸かると隣に長曾我部が並ぶ。

「お前が夕餉に間に合って良かったぜ! 今日は西軍面子全員集まって広間で食うってよ!」
「へえ。まあ、全員集まる初めての機会か。良い案だ。吉継の発案かな?」
「ああ! あんたが今日戻るって聞いて急いで用意させてたぜ。石田もあんたに会うって聞かなくてな」
「ああ、それなら悪いことをしたな。風呂を先にしてしまって。やっぱり一番に三成に報告すべきだった」
「いやいや! むしろこうつご、ゴホン、飯までゆっくりしろって言ってたぜ! 長旅だったろうからってな!」
「三成はああ見えて寂しがりやだから。飯の前に報告も兼ねて顔を見せておくよ」
「石田の言うとおりにしとけって! 飯までゆっくり! な! 越後まで陸路で行ったんだろ、なんだ、按摩でも呼ぶか?」
「……………長曾我部、お前、何か隠してるな?」

ギクリ、なんて音が聞こえてきそうな固まり具合。
長曾我部は目に見えて体を硬くした。
…ははあ、なるほど。
風呂で会ったのも偶然じゃないってわけね。
俺を少しでも長く風呂に縛りつけておく要石だったというわけだ。
大方、吉継の悪巧みだ。
俺に知られてはまずいことがあるのだろう。
鳳の先触れで、すでに大坂城下に俺が到着していることを知り、しかし風呂に直行するということをこれ幸いと長曾我部を派遣したわけだ。
だがこの明朗な男を巻き込むような悪巧みなわけで、それは後ろ暗いことではない。
……なんだ?
半兵衛様が遺された掛け軸でも破いたか?
秀吉様の茶碗を割ったのかもしれない。
いや、これでは僅かな時を稼いだところでどうしようもない。
では、三成関連か?
そこで脳裏を過ぎる勘。
食事を摂っていないか、寝ていないか。
これなら、少しでも時間を稼げば食うなり寝るなりできる。

「俺は出るよ」
「待て待て待てって! 隠し事したのは悪かった! だが石田に免じてここはもう少し浸かっていってくれ!」
「その三成がまた不摂生をしたんだろう。吉継の証拠隠滅だな?」
「俺っ…俺は…し、知らねえ」
「お前、嘘も隠し事も下手すぎるなァ。お前も俺に叱られるようなことをしたんだな?」
「いや! 俺は関係ねぇ! 本当だ! …いや、俺も同罪か…!?」

頭を抱えてしまった長曾我部を尻目に、浴場の出口に向かう。
まったく…俺が城を空けたのはひと月だぞ。
その間寝ずか食わずか、そのどちらもか。
俺がいない間の三成の生活管理は吉継の責任だということは、痛いほど分かっているだろうに。
だが、まずは三成への説教だな。
いつもしっかりと食え、寝ろと叱っているのに、少し目を離すとこれだ。
同盟国の歓待で忙しくしていただろう吉継に叱るのは少し哀れというものか。
それならそれで、行長がいただろうに。
まったく、本当に手のかかる昔馴染たちだよ。
体を拭い、女中の用意してくれた着替えを身に纏い、三成の部屋へと急ぐ。
慌てて追いかけてきた長曾我部を無視してその襖を開くも、部屋の主はいなかった。
ふむ…それであれば、広間ですでに食事にしているのか?
踵を返して広間へ向かうと、中から話し声が聞こえる。
まだ夕餉の時間には早い、それならここで正解、というわけだ。

「現場を抑えたぞ三成!!」

力いっぱい襖を開くと、そこには無理やり口に箸を押し付けられている三成が。
そしてその横には、念力で箸を操作している吉継。
よくよく三成を見てみると、小さい数珠で床に強制的に座らされているようだ。
…ここまでされても素直に口を開かないところには感服するよ。
膳を見るに、俺が以前渡した献立集を参考にしたようだ、比較的三成の食いつきが良かった品々が並んでいる。
この光景を見ただけで、吉継の努力が簡単に想像できる。
俺が戻る前に、なんとしてでも三成に食事を摂らせたかったのだろう。
その頑張りはよく分かった。
長曾我部も、どうにかしようとしてくれていたのだろう。
だが、先に三成に飯を食わせたとして、皆との夕餉には腹も空かずに箸が進まなかっただろう。
どうせ、そこで俺に違和感を持たれていただろうに、そこまで考えが至らないくらいには吉継も焦っていたと思われる。
…はあ。しかたないな。

「三成」
「………」
「また飯を食わずに過ごしていたんだな。その隈を見るに、碌に寝てもいないだろう」
「……………」
「叱られるようなことをしたのは分かってるんだな」
「…………」
「吉継」
「ヒッ、………ヒヒッ、年貢の納め時のようよな」
「そうだな。なぜずっと放っておいたのかは後で聞いてあげる。長曾我部」
「お、おう」
「三成を心配してくれてありがとう。気にかけてくれていなければ、飯を食っていないことも気づかなかっただろう。お前の面倒見の良さには助けられる」
「…おう」

さて。
帰ってきて休む暇もなく働かなければならないらしい。
すっくと立ち上がり、厨に向かう。

「忙しいところすまない! 献立を一部変更してくれ!」
「はい、正家様! お待ちしておりました! 三成様ったら、全然召し上がってくださらなくて…!」
「心配をかけたな。無理を承知の上で、よろしく頼む」
「もちろんですよ!」

夕餉の時間までの残り半刻。
急いで皆の膳を用意しよう。

友誼と忠誠、親愛


「西軍の皆々、よくぞ集まってくれた! 今日は親睦を深めるため、集まってもらった! 好きに食ってくれ!」

号令をかけると、主に金吾を中心に、皆、膳に勢いよく食いついてくれる。
金吾、真田、長曾我部、島津の食いっぷりは見ていても気持ちがいい。
毛利は、あのいけ好かない顔で美味いのか不味いのか分からないように食っている。
官兵衛は…相変わらず、こういうときは表情を読ませない男だ。
三成は、自ら箸を口に運んでいた。
最初からそうやって大人しく食っていればいいものを。

「三成」
「………なんだ」
「あとで吉継と一緒にお説教だよ」
「…私が食事を摂らないのはいつものことだろう。貴様が見ていないのが悪い」
「俺は越後に行ってただろ。まったく…報告すら出来ていないじゃないか」
「報告は良い。文ですでに聞いている」
「じゃあお説教だけだからね」
「……ひと月も離れていただろう。叱責は甘んじて受ける。……代わりに、私と会話の時間を設けろ」
「……ほんとに、人誑しだよね、三成は」
「なんだと? それを言うなら貴様だろう」
「俺が? ないない!」

しばらく様子を見ていても、途中で食事を止める気配はない。
このままだと、すべて平らげるだろう。
あとで吉継から伝え聞いたことだけど、三成を心配して真田や島津も声をかけてくれていたらしい。
西軍の大将として、好かれているようで安心したよ。
…本当に、人誑しだよ、三成は。
俺を骨抜きにするだけじゃ飽き足らず、諸将の心も掴んでしまうんだろ。
魅力的な人だ、秀吉さまに劣らないほどに。
きっと、そんなことを言ったって、三成は聞きもしないんだろうけど。
説教は中途半端なものになってしまいそうだな。
その後の二人での対話を楽しみにして、賑やかな広間を微笑ましく見つめた。
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