指先 | ナノ
種子島の弾のごとし、と表現しても良いかもしれない。
三成の、官兵衛を降した戦のことである。
大友、小早川、長曾我部、毛利、島津。西の大国が粗方、西軍への参加を表明する中で、なかなかに粘った官兵衛。
吉継は当初、官兵衛自ら文を送ってくることを待っていたようだったが、三成が業を煮やし、いってくる、と一言置いて疾風のごとく駆けて行った。
大坂から豊前まで、普通に考えれば片道一月以上費やす道のりをわずか二週間で往復し、官兵衛西軍参加の文を握りしめ戻ってきた。
官兵衛の泣きっ面が浮かばれる、と胸中で両手を合わせつつ、軍が大きくなることは素直に喜ぶ。
家康を殺すために、戦力は多いに越したことはない。
西国で豊臣に降っていない軍は、わずか一国、伊予河野のみである。
伊予河野を束ねるは先見の巫女、鶴姫。
彼女は目下吉継が攻略中、との共有を受けているため、俺は特に何もしていない。
そろそろ、挟撃のためにも東の国に手を伸ばしてみるのもいいかもしれない。
東といえば、先日大坂城へと登城した武田だ。
武田を介して佐竹や宇都宮へも声をかけているが、どう転ぶかはこれから次第、というところだ。
官兵衛も近いうちに登城する、との報を受けていたが、違う知らせが耳に入る。

「正家様」
「鳳。どうした、徳川に何か動きでもあったかな」
「いいえ。三成様と大谷様に客人が」
「…? 別に、客くらい珍しくもないだろう。吉継を窓口にしている国もあるわけだし。……何かあるんだな」
「は。………その、私の見た限りでは、客人は丹羽長秀かと」
「…長秀さま?」

久しく聞いていなかった名を繰り返した。
長秀さま。病に倒れ、嫡男である長重に裏切られたために、高齢でありながら城を追われたお方。
最近はすっかりと隠居生活が板についてきた、と文でやり取りしたばかりだったのに。
書き途中の書類を放り、即座に応接間へと向かう。
なぜ、なぜ長秀さまが。
もう戦場に立てるようなお体ではない。
ましてや、交戦など。
あり得ない、と考えつつ、俺の知る長秀さまはそういうことをする人だ、という確信もある。
織田信長が討たれてから、丹羽家は豊臣についた。
その縁で今俺が豊臣にいるわけだが、豊臣の下についてから長秀さまは戦から縁遠い生活を送ってこられた。
そんなお方が、日ノ本を二つに分かつ大きな戦に出るなど、無理な話だ。
鳳の人違いの可能性だってある。そうだ、だって俺に長秀さま降下の話は届いていない。
俺だって、豊臣を代表する軍師だぞ。
軍師に、傘下の者の情報が与えられないなどあってはならないことだ。
大股で廊下を渡りきり、応接間の前に立つ。
慌てて俺を制止する鳳の声を無視して障子を勢いよく開け放った。

「…長秀さま」

そこにいたのは、確かに長秀さまだった。
三成を上座に戴き、自ら下座に座す長秀さまは、突然現れた俺に驚く様子も見せずに鷹揚に笑ってみせた。

「ああ、久しいな正家。両腕に傷を負ったと聞いていたが、息災のようで何よりだ」
「なぜあなたがここに! この場にいること、それが何を意味するか分かっているでしょうに!」
「ヤレ、正家。そうがなり立てるな。丹羽殿の参陣は三成が許可したこと。ぬしに申し立てる権利はない」
「そんなことどうだっていい! 俺は今、長秀さまのお考えを聞いている!」

ズカズカと室内に入り込み、仁王立ちのまま長秀さまを見下ろす。
歳を取り、すっかり小さくなられた長秀さまを、俺の影が覆い隠してしまう。
ほら、こんなにもお歳を召されているのに、戦など耐えられるわけがない。
俺の暴挙に三成は言葉を挟まない。
ただ静かに、成り行きを見守っている様をいいことに、俺は好きに言葉を放つ。

「そんなお体で戦など無理にございます! なぜ西軍についた!? 静かに余生を過ごせば良かった、今更何ができると言うんです!」
「なに、まだわずかに俺を奉じる配下もいるのだ。寡兵ながらも、三成殿のお力になりたくてな」
「死にたいのですか!?」
「命は惜しい。だが、殿しんがりでもない、兵の数で負けているわけでもない。なぜ負ける前提で話している?」
「たとえ俺たちが勝とうとも、あなたが戦死する可能性はあるでしょう! 俺はそれを言っている!」
「…俺はお前が可愛かった。秀吉殿の下で才を発揮しているお前が。そんなお前に、最期にしてやれる数少ない報いが西軍への参加だ。先にも言ったように、俺についてくる兵は少ない。その分、忠誠心は高い。俺が死ねと言えば死ぬ、そんな兵だ。どうだ、少なくともお前の力になるだろう?」

暖簾に腕押しだ。
長秀さまに俺を言い負かすつもりはなく、それはつまり、俺が何を言おうともお考えを変えるつもりはないということ。
穏やかな瞳で俺を見つめていた長秀さまは、ふと微笑みを消して俺を睨め付ける。

「それに、お前はいまだに甘い。徳川に情があるのか? 徳川は秀吉殿を殺したというのに? 西軍諸将にも死んでほしくないと考えているだろう。友軍はすでに他国ではない、豊臣に降った外様ではない。西軍の将なのだ。お前が上手く使わずに如何する?」
「…ッそれは…死んでほしくないと考えることの…何が悪いのです…!」
「優しい性格はお前の宝だ。だが、それは半兵衛殿の教えに沿う戦略なのか? 秀吉殿、半兵衛殿の作った豊臣はそんなにも弱卒なのか?」
「なにを…あなたに何が分かる…!」
「お前はすでに豊臣、西軍の軍師。そのような甘い考えは捨てろ。今時分、三成殿も大谷殿もお前を叱りつけることはないだろう。お前を尊重するはずだ。そのとき、お前が道を違えたなら誰がそれを正す? なに、伊達に歳を重ねているわけではない。嫌われ役くらい担ってやるさ」

長秀さまは俺を睨む視線を緩め、再びフッと微笑んだ。
長らく政の前線から離れた長秀さまにすら、俺の軍師としての甘さを指摘されて耳が痛い。
そうだ、俺は甘い。半兵衛さま直々の教えを受けても結局この程度なのだ。
だが仲間に死んでほしくないと考えることの何が悪い。
俺は三成が大切だ、吉継が大切だ。
長曾我部に、真田にすら徒に死んでほしくない。
毛利が戦死したって、寝覚めは悪いだろう。
それほどに死が恐ろしいのだ。
全てを奪っていく。絆も、思い出も、愛も、居場所だって。
長秀さま、あなたは俺に残った最後の師だ。
秀吉さまも半兵衛さまもすでに失っている俺にとって、唯一生きた、戴いた主なのだ。
それを失いたくないと訴える俺は間違っているのか。
三成が秀吉さまの喪失を嘆くことと何が違う。
これは復讐なんだ、これから失うものは少ないに越したことはない。
もう家康に何一つ奪わせない。
そこに命が含まれるだけだ。

「…死という分断を恐れること…それの何が悪いのです……」
「軍師ならば将すらも駒として扱ってみせよ。半兵衛殿はそれができた」
「半兵衛さまだって…っ、俺たちを…大切にしてくださった…!」
「豊臣の後継として、だ。お前たちは豊臣の後継という駒だったのだ」
「それでも…そうだとしても…! 愛おしいとおっしゃってくださった…ッ」
「そうだ。愛情と冷酷は両立する。いいか。死んでほしくないと考えるのならば、お前が策を巡らせるのだ。冷酷に、冷静に、皆を勝利への駒とせよ。俺もその一つに過ぎん。将棋は得意だったな? それと同じだ。喪失を恐れるのではない。それはお前の為すことで免れられるのだから。痛いほどに覚悟しろ。お前はお前の手で全てを守るのだ」
「…!」

死を忌避する思いを打ち捨てる必要はない、そのために力を奮えと、長秀さまが紡ぐ。
それは俺が最も求めていた言葉かもしれない。
三成を失いたくない。三成との未来を掴みたい。
家康に奪われることを恐れるのでは受け身になってしまう、それこそ弱い者のすることだ。
強者は、俺たち豊臣は、奪われることに怯える存在ではない。
いかにして家康を殺すか、皆を守るか。それが俺の考えるべきこと。軍師としての為すべきこと。
世は家康を求めている、民は豊臣を望んでいない。
なんて惰弱な考えだったか。
豊臣は与える者、戴かれるべき者。
統治する者として世を、民を思うことはすれども、顔色を伺う必要はない。
求められる豊臣を作ること、それが俺の責だった。
どうして忘れていたのか、半兵衛さまにお教えいただいたことに、俺の求めるものがすべて詰められていたというのに。

「正家」
「三成…」
「私は貴様に闕乏けつぼうを感じない。貴様が私の、豊臣の軍師だ。貴様の両の目が曇っていたことも、半兵衛様の教えを忘失していたことも、すべて家康のせいだ。私から、貴様から主を奪った。その痛みになぜ正常でいられる?」
「…」
「正家、貴様の目から見て私は過ぎし日の私か?」
「…変わったよ。あの頃からは、随分」
「そう、貴様も同じだ。貴様もまた変じられた。否が応でも。家康によって変わらざるを得なかった。故に私たちは家康という仇を討つ。彼奴の首を秀吉様に奉じ、赦しを乞う。それが私たちに残された唯一の道だ」

三成がようやく言葉を発した。
そうだ、俺たちは変わってしまった、変えられてしまった。
安寧の日々を奪われた。
半兵衛さまが道を示し、秀吉さまが先頭を切って俺たちを導いてくださる日々は、ある日突然閉ざされてしまった。
すべて家康のせい。
俺が知略を奮えなかったことも、正しい判断を下せなかったことも、秀吉さま、半兵衛さまを失ったため。
家康を殺せば、俺と三成は、またあの日々のような、安らいだ日々を送れるのか。

「……三成」
「ああ」
「俺たちはまた、あの頃に戻れる?」
「正家よ、それを問う相手を間違えておる。それはぬしの為すべきことであり、われが考えること」
「…じゃあ…家康を殺した後、俺たちに残るものは何?」
「家康を殺した後のことなど、今考える必要はない。まずは家康の首を取ること。それのみを考えろ」
「………でも…それは…」

家康を倒した後。俺たちの幸せはどうなるの?
そう言葉にしかけて、吉継から視線を投げかけられていることに気づく。
…ああ。ああ、そういうことなんだね、吉継。
三成はその後のことなど考えられない。
崇める主君を失い、生きる希望を失った。
そして今、三成の生きる目的を支えているのが「家康を殺すこと。
その後、三成はどうなる?
秀吉さまを失い、家康がいなくなり、その後は?
三成は考えられないのだろう。いや、違う、想像することさえ放棄している。
だって、秀吉さまがいない世界に、三成は生きる意味がないから。
…だからさっき、吉継は変に三成への問いかけを遮ったんだね。
そのことに気づいたら、三成の足は止まってしまうから。
じゃあ、今俺が三成のためと為すすべてのことは、どんな意味を持つの?
三成との未来のために、正則も清正も殺したよ。
すべて、これまでのすべて、三成と生きるためだったんだ。
そのために三成と俺は、会話の機会を設けたし、俺も頑張ろうって思えたのに。
…家康を殺した後、俺たちは一体どうすればいいのか。

「……」
「正家」
「長秀さま…」
「三成殿のおっしゃる通りだ。後のことはまたその時考えれば良い。状況も変わっていよう。…まさか俺も、信長様が光秀などに討たれようとは思いもしなかった。だが、俺は今も生きてる。お前のために命を張る機会にも恵まれた。未来は、どうにだってなるんだよ」
「…」
「…だから、死んだ方が良いなどと考えるのはよしなさい」
「! なに…何をおっしゃって…」
「お前の考えることなど、長く離れていてもよく分かる。豊臣は滅びるべきじゃない。お前たちは生きるべきだ。まだ若人だろう、未来は如何様にも変わる。秀吉殿の、半兵衛殿の教えでこの日ノ本を導きなさい。実際、豊臣直轄領の民は豊臣を主として求めている。丹羽の領でもそうだった」
「………死ぬべきなどと、俺は考えていませんよ」
「はは、そういうことにしておいてやる」

三成との未来。三成自身の未来。
三成が望んでいなくても、家康を殺せばいずれ直面する問題。
「未来は如何様にも変わる」。
長秀さまがおっしゃることが真実なら、この戦に勝利した後も、三成が希望を持って生きることが出来る可能性もあるということ。
…それならば、いいのだろうか。
たくさんの人の命を賭ける価値が、あるのだろうか。
三成だけじゃない。長曾我部も、真田も。皆の未来。
家康を殺した後も、安寧の日々を送ることができるのなら。
その可能性が皆無じゃないのなら。
命を賭ける意味はある。だって今、皆どん底なのだから。
長曾我部は国を傷つけられ、武田は信玄公が病に倒れ。
…毛利や大友のことは知らないけど。
これからもう、這い上がるだけならば。
この戦に全力を奮うべき。
俺が半兵衛さまの代わりに、豊臣に天下への覇道を歩ませる。
そのためならば、俺は長秀さまのおっしゃる通りに、三成を、吉継を、同盟国の将たちを、駒として操ってみせる。

「気持ちは固まったか?」
「……元より、三成との対話で覚悟は決まっていました。ただ…皆の命は俺の手で守る。その決意は新たに。…長秀さまのおかげです。ありがとうございます」
「では、俺の参陣にも文句はないな?」
「…まあ、はい」
「なんだ、その不服そうな顔は!」

快活に、長秀さまは笑った。
三成も穏やかな表情を浮かべている。
吉継は…晴れない様子だけど。
家康を殺した後。秀吉さまも半兵衛さまもいらっしゃらない未来。
なにも分からない、どうなるか誰も知らない、だけど俺たちは生きていかなければならない。
豊臣の後継として、お二人の知を継ぐ者として。無駄に命を散らすことは許されない。
たとえ今、三成に復讐以外の生きる道がないとしても、仇討ちを叶えた後でなければどう転がるかは分からないのだから。
推し量ることができない事実に恐れて、歩みを止めることは愚か者がすることだ。
吉継が懸念していること、それは俺も先ほど察した。
そうならないために、俺たちが努力するべきなんだね。
誰も死なせない。復讐を果たしたその先を、また穏やかに過ごすために。
俺はしっかりとこの地に立たなければならない。
…ああ、これまでの俺はいかに足元が覚束なかったことだろう。
よく三成は文句も言わずに委ねていてくれたな。
鳳は、兵たちは、不安に思わなかっただろうか。
自嘲の笑みすら浮かべる俺を見遣って、三成は強い瞳で射抜いてくる。

「惑うな。義は私たちにある。そうだな、刑部」
「ああ、そうよ。義はぬしにあり、われらにあり。正家、ぬしは三成を信じ共に歩めば良い」
「…うん。ありがとう。俺は随分頼りなかっただろう。これまで支えてくれて…本当にありがとう。頑張るよ。秀吉さまと半兵衛さまのためにも」
「話はまとまったようだな。では、寡兵ながら西軍並びに豊臣軍へ尽力仕る。よろしくお頼み申す」
「フン。役立たぬと見れば、たとえ正家の元主といえど斬り捨てる。正家。丹羽の世話は貴様に委任する。…ああ、官兵衛馬鹿が近く登城するとの報せも入っていたな。あれも貴様が世話をしろ。腹立たしいことだが、あれは貴様の言うことであれば存外素直に聞く」
「ああ、任された。……突然押しかけてごめん。でも、良かった。四人で話せて」

そう、俺は不躾にも、会談の場に乱入した闖入者。
改めて詫びを入れ、長秀さまを伴って応接間を出る。
長秀さまに割り振る客間までの道すがら、他愛のない話をしつつ、居もしない仏に祈った。
どうか俺らの前途に、希望が満ちておりますように。

主従


「よーう正家! 小生が来たぞぉ!」
「ようこそ、官兵衛。無理矢理降された割にはご機嫌だね」
「己の不運を嘆くだけでは仕方がないと思ってな! 前向きに生きることにした!」
「いつもいつも三成たちがごめんねぇ…」
「思ってないことを平気な顔で吐くようになったなあ、お前…。ま、それくらいじゃなきゃ豊臣の軍師は務まらんか」
「ふふ、うん。覚悟新たな俺に期待しておいてくれ。官兵衛のことも守ってみせるよ」
「(小生はお前さんに守ってもらうほど弱くはないんだがなあ)難儀な男だ、お前も」
「そうかなあ。…あ、官兵衛は鉄球のせいで城内に入れないから離れを使ってね」
「な…っ、それでは雨風しか凌げないじゃないか!」
「仕方ないだろう、廊下や畳に傷がついてしまう」
「くうぅ…っ、いつもいつもそうだ。小生はこの枷のせいで不幸な目に遭うんじゃ…! やはり三成も刑部も許せん! せめて食事は豪勢にしてくれよ!」
「はっはっは」
「笑って誤魔化すな!!」
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