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正家が武田を歓待していた頃。

* * *

「ご足労いただきかたじけない、この病躯では遠出が難しくてな」

三成に上座を譲る老人は、正家のかつての主──丹羽長秀。
西軍への参加を申し出たものの、病を理由に隠居先の庵へと三成を誘った。…正家を伴わぬことを条件として。

「……貴様は既に一線を退いていると聞いた。何故、今更戦に関わろうなどと考える。虚言は許可しない、貴様を今も慕う正家を裏切るな」
「はは、聞きしに勝る手厳しさだな。…なに、あの子を繋ぎ止める楔となりたいと考えただけだ」

吹けば消える灯火を持つ男は、未だ三成が気づいていない正家の心の内を語りやる。
この戦に向き合う正家の本音、われにすら語らぬが悟らせるには十分よ。
三成は、正家が己と思いを共にしていると信じている。
徳川を討ち倒し、太閤の教えを日ノ本に布くこと。
だが、肝心の正家は、未だ決心がつかぬ様子。
徳川への感情、三成への渇望、日ノ本への展望。
賢人より授けられた知恵が導く結論…それは、つまり。

「繋ぎ止めるだと? 正家は豊臣の将、丹羽に戻るなど、」
「あの子は死ぬ気だよ、石田殿」
「ッ!? …死ぬ……だと…? 貴様ァ…先程私が述べたはずだ! 虚言は許可しないと!」
「忠臣こそ諫言をするものだ。……明言はしないがね、君を含め、豊臣は滅ぶべきだと悩んでいるようだ」
「正家はそのような惰弱な男ではないッ!! 家康を殺し、秀吉様の御為に再び豊臣が天下を統一する! 私達が滅びるべきなど…正家が…ッ、こんな盲言、認可しない…!」

前置きも世辞もなく本題に切り込む丹羽。
当然、三成は怒り叫ぶ。
立ち上がり、左手に携える刀を今にも抜かんばかりに吠える。
…われも、考えたことはあった。
あの男が臨む世界を。
自らの沈黙により賢人を失ったこと。
自らの遅参により太閤を失ったこと。
豊臣の衰退を招いたのは己ではないかと恐怖し、まざまざと徳川の求心力が日に日に強くなる現状を見せつけられる。
賢人に託された豊臣の未来は、今まさに落日を迎えようとしておる。
他人に屠られるくらいならば、自らの手で。
あれの考えそうなことは、手に取るように感じ取れる。

「…やれ、三成。そう喚くでない。われの身に障る」
「! ……………」

感情に任せて立ち上がった体を座らせ、落ち着かせる。
今は寡兵であっても欲しい状況故、丹羽の機嫌を損ねることは避けたい。
…まァ、この様子ではわれらが断っても参陣しよう。
老い先短い古老にとっては、われらなど青二才、あしらう術も知っておろ。

「丹羽よ。願ってもない申し出、感謝申し上げる。正家もきっと喜ぶであろ。…否、貴殿を叱りつけるであろうな」
「そうだろうな、あの子はきっと私に怒るだろう。もう戦になど関わるな、と。…だからあの子を連れてこないよう依頼させていただいた」
「…丹羽」
「なんだろうか、石田殿」
「仮に、貴様の言が真実だとする。……正家が死ぬ気だと。それで、貴様は何をする? 正家を守るために私達に与するのか? 豊臣など眼中にないと…そう冒涜するのか?」

三成も平静さを取り戻し、丹羽と言葉を交わそうとする。
真っ直ぐなその視線を受け止めて、丹羽はふっと視線を落とした。
正家はああ見えて三成より頑固よ、一度決めたことはなかなかに曲げない。
われであれ、…三成でさえ、あれを説得するには骨を折る。
過去の主といっても、正家がわれらの行末を決めたのであれば変心は難しかろ。
…そう、決めた後の勧説に難儀するのであれば。
あれに、異なる道を示すのみ。

「勿論、俺は正家のために貴殿らに力を貸す。…だが、それは巡り巡って貴殿ら豊臣のためになると信じている」
「貴様に、私へ通す義理などないだろう」
「あの子が世話になった。それで十分だ」
「………豊臣への参陣、認許する。貴様の言う狂言が現実のものとならないよう、術策を献上しろ」

左手に携えていた刀から漸く手を離し、丹羽の言葉を聞く気になったようだ。
豊臣の──いやさ石田軍の大将である三成は、今や正家一人の事情で動けぬことは重々理解しておろうに。
未だ互いが互いの心を絡めて離さないかのように、この二人はいつでも相手を優先しようとしやる。
それによって生じた歪みを正すのは常にわれの役目よ。

「術策という程ではないが…あの子は石田殿と同じく、人との関わりを大事にする子だからね。より多くの者と関わらせなさい。他軍であればより良いだろう」
「それが何になる。今でさえ彼奴は同盟軍との窓口だ」
「それは良い。言葉は悪いがね、この世に縛り付ける柱は多ければ多いほど効果的だ。あの子には後ろ髪を引く未練が要る」
「………やはり不愉快だ。なぜ正家が死ぬ前提で話さねばならん。そも、あれは永劫私のそばにいることを誓った身。私を置いて逝くことは念頭にない」
「なぜ貴殿を道連れにすることを考えない?」
「なんだと…?」
「……いや、貴殿とはこの件について話さないほうが得策だな。大谷殿、後日書状を認める。読んでくれまいか」
「あいわかった」
「待て! 私を道連れにするとはどういうことだ!? 疾く釈明を述べろッ!! 丹羽長秀!」

丹羽の判断は正しい。
三成にこのような話は聞かせないが賢明よ。
まず正家に気取られぬなど難しかろ、変に意識してギクシャクとするのが目に見えておる。
正家にはわれらがあれの心情を考えていることなど、悟られてはならぬ。
察知される前にあれを鎖で雁字搦めにし、生きるべく、徳川に勝るべく動かさねばわれらは負けの一途につくのみ。
賢人の知恵を引き継ぎ、されど心の強さは受け継げなかった哀れな子。
豊臣は正しいと、この世唯一の真実だとの盲信を抱けなかったが故に、…違う、途中まではその信義を掲げておった。
徳川にへし折られてしまったが故に、今正家は迷い、惑い、悩んでいる。
で、あれば。
また新たに強い光を灯せば良い。
宵闇すら照らす眩い光。
われの星の如く、生きる導、それが三成よ。
ちらちらと傍らに輝く星も必要であろう、それが長曾我部であり大友であり黒田であり。
丹羽は楔と呼んだが、それも的を得ておろう。
ふらふらと足が蹌踉めくならば重石を着ければ良い、先が見えぬなら明かりを示せば良い。
それだけで、三成も正家も健全であるのであれば、必ず、必ずや不幸の星をこの空に降らせる存在になる。

「三成」
「ッ刑部! もしや貴様もこの老人に准許するのか!? 正家が私の首を引いて共に死ぬと…そんなはずがない…!」
「そうよ。正家がそんなこと考えるはずもない。よう考えよ、三成。ぬしの知る正家はそのようなことを考える男ではない」
「そう…ッそうだ…! やはりあの男は耄碌している! 兵のみ徴収して参陣など、」
「だが、万一に備えるのは大将として必要よ。三成。正家の心を掴んで決して離すな。よく語らえ、二人の時間を作るのだ。ぬしらは近頃、兎角会話が足りぬ。太閤は賢人と会話をしない日があったか? 未来について語り合わぬ日があったか? 大将と軍師がそのような不健全な状態で良いと、賢人より知略を賜ったか?」
「……お二人は…常に共にあった。秀吉様が策に苦慮なされば半兵衛様が考案し、半兵衛様が窮すれば秀吉様が道を拓いた…」
「であろ。ぬしらは互いに多忙を極めるが故に対話が足りぬ。丹羽はそれを指摘しているのみ。『正家が死を望む』とはつまり、その暗喩よ。死の誘いに手を取りたくなるほど、ぬしらは互いの所願すら知らぬ、それが為に丹羽の諫言の意味を違えるのだ」

意味を違えてなどおらぬがな。
ぬしはこう言わねば疑心暗鬼に陥るであろ。
丹羽は己が本意を曲げられても口を出さずして聞いている。
望む結果が手に入れば良いのだ。
正家を生かすという結末が。
想う相手との時間が増えればそれだけ、正家の憂いも癒え、対徳川への勢いも増すであろう。
あの老人は、正家が大戦の後の世も生きること、ただそれのみを望んでおる。
たったそれだけのために、過去に己のもとを去った子のために半屍人の体を引きずり、戦に挑もうとしている。
愚かよなァ…三成も、丹羽も、正家も。
誰も彼もが、己のために刃を持つこの時代に、誰がためにと強く願う愚直な男たち。
われは、それらの生き様を見るのがほんに楽しい。
物語が書かれた紙を捲るように、時が移ろうにつれ不幸に足を進めやる。
われは、その結末を外れにて眺めるのが楽しみなのよ。

「…大谷殿のおっしゃる通りだ。石田殿。ぜひにあの子との時間を設けてくれ。きっとあの子もそう望んでいる」
「…………フン。命拾いをしたな、丹羽。このような讒言、常ならば即刻斬首していた」
「はは、昔から運だけは良いのだ。この乱世にまさか、ここまで歳を重ねられるとも思わなんだ」

幾分か機嫌を直した三成は、用が済んだとばかりに立ち上がり、庵の出口へと向かう。
これまでは豊臣の遺臣として軍の立て直しに時間を使わざるを得なかったが、老骨とわれの言という大義名分を得れば多少は気も緩まろう。
ぬしも正家のことを憎からず想っていたのであれば、共に過ごす時間の減損を厭悪していたであろうしなァ。
ぬしら愛し子が共に在る時間の加増により軍が安定するのだ、われとしても多少楽になるというもの。
早に大坂へ戻ろうとする三成を、丹羽が呼び止めた。

「石田殿」
「──なんだ。私は城へと戻りたい。貴様が唆したのだろう、正家との時間を創れと」
「貴殿の後ろ姿を見て感じたことがあってな……いや、なに。正家とよく似合いの男だと、感心しただけだ」
「似合い、だと…? 貴様ごときが私を品定めしたのか?」
「いや、いや。あの子の隣に立つのは貴殿が望ましいと、そう思ったのだ。…徳川を討ち倒し、秀吉殿の思い描いた強い日ノ本に導いてくれ。きっとその世では、正家も貴殿の隣で笑っているだろう」

戸から差し込む陽の光に照らされる三成を、眩しげに見上げる老人が力なく笑う。
自らが見出し、羽ばたいていった子の後見に、伴侶に、三成を認めたようだった。
幼子が三成への想いを文によく綴っていたようだったが、丹羽は三成との直接の面識はなかった。
この短い合議にて、三成の為人は嫌でも分かるというもの。
不器用な三成と、器用貧乏な正家、互いに補い合って、上手くできているものよ。

「…貴様に認められるまでもない。私達は離れぬのだ。…………何があってもな」

いよいよ三成は振り返らずに庵を出た。
外は緩やかに陽が沈みつつあり、残り火の如く柔らかな光が差している。
帰路につく三成の足取りは早かろう、城にて待つ正家を労らればならぬ故。

「丹羽よ」
「なにかな、大谷殿」
「諫言、礼を言おう。あれらは、ここ最近根を詰めすぎでな」
「ははっ、老人だからこそ出来ることもあろうさ。…正家には、西軍への参陣の旨、伝えずにおいていただきたい。俺から伝えたいのだ」
「承った。それでは、その時まで努々倒れられぬよう」

三成の後を追い、われも庵を出る。
…まっこと、あれらの世話には手が焼ける。
賢人、これをわれに託したことには恨み言を言わせてもらおうぞ。

深淵


「刑部! 急ぐぞ! 日が落ちる前に大阪へと戻る!」
「あい分かった。…いや待て、正家の忍が来た」
「! まさか…正家に何か…!?」
「……………いや、武田との同盟が成ったらしい。正家はわれらの帰城を待ち望んでいるようよ」
「ク…ッ、そのような些事、報告は不要だ! 行くぞ刑部!」
「うむ」

馬に跨がり駆ける三成の背が遠くなる。
三成を迎え入れるであろう正家の笑顔を思い浮かべて、われも三成を追う。
正家、ぬしにそのような悩みは似合わぬ。
陽に当てられぬような薄暗い企みは、われの役目。
ぬしはただ三成をぬるり照らせば良いのだ。
…このような述懐、誰に聞かれようはずもなかろうが。
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