指先 | ナノ
音のない城内。
活気を失った女中たち。
主を失った大坂城は、冷えた空気を纏っている。
つい先日、秀吉さまの葬儀を執り行った。
泣く者は、誰もいなかった。
―――否。
泣くことが出来る程現実を受け止められた者はいなかった。
三成ですら、あの時ばかりは涙を流さなかった。

「…………」
「…正家様」
「…ああ、分かってる」

三成のための膳を運ぶ俺を、鳳が止める。
無駄だと言いたいのだろう。
ここ数日、三成は何も食していない。水すら飲んでいないのだ。
そんな三成に毎日二食運んでいる俺を、鳳は止めたいのだと思う。
成果も上がらない、ただ俺を精神的に追い詰めるだけの行為だと、昨日言われた。
それでも、あんな状態の三成を放っておく方が危険だ。
秀吉さまの後を追われたら大変なのだから。

「三成」
「…………………………」
「…入るよ」

一声かけて襖を開ける。
昼間だというのに真っ暗な室内。
部屋の片隅に、力なく横たわった三成がいる。
ただでさえ心配になるほどの痩躯だというのに、更に拍車がかかっている。

「…三成」
「…」
「飯だ。食ってくれ」
「…」
「食わないと、死んでしまう」
「…」
「吉継も行長も、心配しているんだぞ」
「…」

言葉が返ってこない。
生気の感じられない、まるで壊れ人形になってしまったかのよう。
そっと頬に触れてみるが、刀より冷たい感触が伝わってきて、離した。
…あのとき、三成を止めておけば。
こんなことに、ならなかったのだろうか。

「…正家様、」
「……。三成、ここに膳を置いていくよ。少ししたら下げにくるから。ちゃんと食べるんだよ」
「…」

見もしない三成に、にこりと笑いかける。
当然のように反応しない三成。
せめて、と灯りを灯して部屋を出る。

「―――お辛いでしょう」
「…辛い、か。分からない。ただ、胸が痛いだけだ。心を一つ、失ったかのようだ」
「…吉継様が、お呼びです」
「分かった。多分、今後のことだろうね。吉継はどんな決断を下すのかな。あ、俺も何か決めなきゃいけないのか」
「……どうでしょうね。そればかりは、私には図りきれませぬ」

くすくすと笑う俺を、痛ましげな目で鳳が見る。
俺を、哀れんでいる。
主を喪ったことにか、想い人の心が壊れたことにか、それでも泣かないことにか。
ああ、きっと全てだろう。
端から見れば、俺は哀れらしい。
…いや、豊臣の者全てが、か。
武力で臣下にした将に、これまた武力で主を殺された、哀れな者たち。
そんな者の集まりである残党を根絶やしにするのは今が狙い目、と多くの国が押し寄せてくるに違いない。

「吉継」
「うむ。入りやれ」

部屋に入れば、書物を広げている吉継の姿が目に入る。
吉継は秀吉さまの死に堪えていないらしい。
ふう、とため息を零して床に座した俺に向かい合う。

「三成は如何様か」
「相も変わらず」
「そうよなァ、心酔し崇拝する太閤が亡くなられたのだ、そうそう立ち直れはせぬ」
「だが飯を食わぬはさすがに拙い。吉継、何か案は」
「三成に飯を食わすはぬしの役目であろ」
「その俺が食わせられないんだよ」
「ヒヒッ、三成には困ったものよ」

困ったコマッタ、と至極楽しそうに笑う吉継。
笑っていないで助けてくれ、と言えば神妙な顔つきになった。

「身の振り方を考えねばならぬ」
「、…」
「徳川に降るか、対抗の意思を見せるか」
「…吉継に、徳川に降る気なんて更々ないだろ」
「当然よ。斯様に幸に見舞われる徳川がわれには目障りで仕様がない」
「だが、徳川相手に敵対するとなると大将は…」
「三成しか居らぬであろ」
「…あの状態だぞ」
「……そう、よなあ。如何したものか」

生ける屍とは正に三成のことだ。
秀吉さまを失ってしまった三成に、刀を持つ意味はもはや無い。
秀吉さまの御威光と天下のために戦場に立ち続けた三成。
もう三成には、生きる意味すらないのだ。
秀吉さまに奉公を成すこと、それこそが三成の全て。
…俺は、三成の生きる意味にはなれないな。
分かっていはしても、やはり、悔しいものである。

「……三成に、秀吉さま以外の目標が出来れば良いのだけど」
「それはこれから以後まず無いであろうな」
「…そうだよね」
「…」
「……」
「…………一人だけ、そうなり得るやも知れぬ奴が居るな」
「…………………嫌だよ…そんなの」

吉継の脳裏を過ぎった人物と俺が思い至った人間は恐らく同じだろう。
ただ、それでは、俺は…。
やりきれない思いに胸が詰まる。
三成の心を壊した奴が三成の生きる目的となるなんて。
そんなの…世は無情で非情で…なんと、皮肉なものだろう。

「嫌だと言うてもな…われとて、彼奴は憎々しい」
「……………」
「…最良の手は、三成がぬしの為に生きることであろうがな」
「そういう風に言うのならば、吉継も分かっているだろう? そんなこと、まず起きるわけがない。三成の眼中に俺は映ってないよ」
「己で言うておいて、傷つくでないわ」
「はは、…うん、ごめん」

笑って見せた俺の頭を、以前より細くなった腕で吉継が撫でた。
珍しいな、吉継がこんなに優しいなんて。
冗談を言うような軽さで言うが、吉継はそれを聞き流す。
ただ俺を撫で続け、微かに笑みを見せた吉継。
鼻の奥が痛むのを我慢する。

「ありがと、吉継―――」

「殺してやるぞぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」

「!」
「今の声…三成…?」
「正家様! 三成様が錯乱状態にあるとの報告が!」
「今行く! ――吉継!」
「あい分かった」

吉継が座布団ごとふわりと浮き上がる。
それを見てから三成の部屋へと走って向かう。
恐らく、時が長らく経って現実に気づいてしまったのだろう。
嘘だ夢だと現実に蓋をして、しかし何時までも覚めぬ幻がまやかしでなく現の出来事だと嫌でも理解したのだ。
受け入れ難いに違いない。
家康のことを、文句を言いながらも家康を認めていた三成。
友人と、認めていた。
悲しくないわけがないんだ。

「三成!」
「殺してやる! 殺してやる!! 矛盾を振りかざすあの偽善者を!! 私から秀吉様を奪ったあの男を! 私は許さない!!」
「三成! 落ち着け! まずは刀を納め、」
「黙れ!!!」
「っ!」

不用意に三成に伸ばした腕に刀が滑った。
深く斬られた腕から散った血飛沫が三成の顔にかかる。
痛いほどの殺気を飛ばし鳳が三成に襲いかかろうとするのを制する。
追撃に出た三成の刀を懐刀で防ぐ。
ギチギチと嫌な音をたてて鍔迫り合いをする。
俺に迫る三成の顔は鬼気迫るものがあり、――秀吉さまの死が三成を精神的に追い詰めているのは明らかだった。
ギラギラと光り血走る目から零れる涙が俺の頬に落ちた。

「み、つなり…!」
「貴様が家康を止めていれば…ッ、秀吉様は! 秀吉様は…!」
「!」

はたはたと落ちてくる涙と言葉に胸を抉られる。
動揺により弱まった力。
その隙を突いて三成が腹目掛けて刀を下ろした。
駄目だ、死ぬ―――。
襲いかかるであろう痛みに強く目を瞑る。
がぎり。
耳に障る音に目を開くと、宙に漂う数珠が刀を防いでいた。

「…吉継、」
「この部屋より出るぞ、正家」
「え? うわ!」

もう一つの数珠に体が浮かされる。
そのまま三成から離され、鳳によって開かれていた襖から出される。
三成の部屋は吉継によって堅く封じられた。
中からは酷い音がする。
物が壊れる音、三成の、嘆き。
どっどっど…。心臓が脈打っている。
怖かったからではない、悲しかったからでもない。
ただ、痛かった。

「……っう」
「正家様! お怪我の治療を致しましょう! ……ああ、なんと深い…」
「吉継…三成、三成は……俺を…恨んで、いるのか。憎んでいるのか」
「落ち着け。三成はぬしを憎んでいるのではない。全て悪いのは徳川よ。三成もぬしも、何一つ悪くはない」
「三成は俺を責めた! 俺は…!」
「ぬしまで心を病んでは、われらは崩壊の一途を辿るのみよ。ぬしは、健全であれ。心配せずとも、三成をああしたのは徳川よ…ぬしは徳川を憎めば良いだけのこと……」
「……………」

頭が痛い。
…あんな三成、見たことがなかった。
激昂している姿は幾度も目にしたがあれほどの憎しみに駆られている姿は初めて見た。
恐ろしくて、震えが止まらない。
三成の心は本当に壊れてしまったのだ。
これから後の世を、三成はただ復讐のために生きることになってしまった。
誰が、誰が愛している人にそんな生き方をしてほしいと思うだろうか。
三成にはただ真っ直ぐに秀吉さまの天下を、秀吉さまと共に行く未来を、見ていてほしかった。

「………吉継」
「…」
「国力を…、三成は家康と相対することを望んでる」
「周囲の国を取り込むのか」
「ああ…俺らに降るのならば、な。俺らに牙を剥き、家康に尾を振るのならば国主も大将も将も雑兵も…皆殺しだ」
「……ヒヒッ、あい分かった。早速戦準備を進めようぞ。ぬしには、三成を任せた」

三成が家康を憎むのだ、俺も家康に刃を向けよう。
胸が痛もうが心が抉られようが、立ち止まらない。
どんな形であれ、三成がもう一度立ち上がった。
憎しみに支配され復讐の鬼と化そうが、三成がまた生きようとしているのだ。
喜ばしいことだ、喜ばしいことである筈、なんだ。
三成、三成。
お前が歩く道を、俺と吉継で拓いていこう。
俺らは、お前から決して離れない。
運命を共にすると、誓うよ。

「…あの三成をどうしろと」
「あれは丸五日間飯を食うてはおらぬ。直に倒れるであろ」
「…………それで飯を食わせろ、って?」
「うむ。では任せた。われは厄介な戦準備にかからなければならぬ故」
「面倒事を俺に押しつけやがったな…!」
「ほう…? 三成が、厄介事、と」
「! ……分かったよ」
「ヒヒヒ…それで良い」

ふわりと浮き上がり部屋へと帰って行く吉継。
ふう、と息を吐くと途端に襲う腕の痛み。
戦で負う傷など比べようもない。
深く深く―――三成の憎しみをも植え付けられたようで。
もしそうならば、本当にこの身に三成の感情の一欠片でも息づいているのならば、それは何と狂おしい喜びだろうか。

「…正家様、お怪我のご様子はあまりよろしいとは言えませぬ」
「そう…どんな感じ?」
「二月は戦場に出陣なさることを許しませぬ」
「手厳しいな」
「政務の方も控えて頂きます」
「……それは手痛い」
「…先程から、上手くおっしゃっているおつもりですか?」
「はは」

染みる軟膏を塗りつけられ顔をしかめた。
傷は骨に達する程らしく、断絶面でパックリと開いていた。
………さすがにこれほどの傷を己の身に見るのは初めてだ。
この傷をつけたのが見知らぬ雑兵でなく三成で良かった。
知らない奴の傷で幾月も痛い思いをするのは癪だしね。

「本当ならば厨に立つのも控えて頂きたいのですが」
「それは無理だ」
「そうおっしゃられるだろうと思っておりました」
「今から三成の飯を作らせねばいけないしな」
「……また、ですか? 先程三成様に蹴散らされたばかりでしょう」
「吉継も言っていただろう。三成は腹を空かしているんだ、実際のところは」

お人好しですね、ため息と共に言われた言葉に冷たい響きはなかった。
そうかな、呟くように言えば、そうです、とやはり暖かな言葉が返ってきた。
これからの三成にはきっと、ちっぽけでも、温かみが必要だ。
三成にこれ以上悲しい、辛い思いをさせないためにも、俺は人であり続ける。
三成を無念のうちに、絶望の淵に死なせはしない。
そう決意を固めてしまえば、三成のあの様子だって恐ろしくない。

「はい、これで良いでしょう」
「ありがと、鳳。それじゃ、まずは三成の食事を考えなきゃだな」
「…鳳も手伝います」
「料理分かるのか?」
「…………………………私は忍ですよ」
「信用ならねえ!」

俺は笑う。
俺が笑ってなきゃ、三成に幸せはやって来ないんだから。
逆境の中でも、笑ってみせるよ、三成。

* * *

「……静かになったな」
「…倒れられてるのかもしれませんね」
「急ごうか」

日も沈み夜の冷たさが城内を包み込んだ時頃、三成の絶叫が止んだ。
丸五日何も食べていないんだ、力尽きるのも当然だ。
ふう、とため息を吐いて早足に歩く。
俺の少し後ろをついてきている鳳を振り向いて、打掛や羽織を持ってきてくれるよう頼む。
この冷気と食事を採らなかったことによって体温が下がっているだろう。
温かい食事にしたが、衣服でも体を暖めるようにしたほうがいいはずだ。

「三成ー…」

部屋の中は、先程灯した灯りが消えてしまった所為で真っ暗だった。
目を凝らして三成を探すが見当たらない。
気が急いて、三成、三成と名を呼んで辺りを探す。
一等暗い、部屋の隅で縮こまっている三成を見つけた頃には食事の湯気は尽きていた。

「……三成」
「…秀吉、様」
「三成…ご飯を持ってきたよ、食べよう」
「秀吉様……」
「三成の苦手なものは入れてない、ほら、三成の好物ばかりだろ?」
「秀吉様、秀吉様…はんべえ、さま…」
「今日は特に趣向を凝らして作らせたんだ。食べて、ほら、口を開くんだ…」
「……………」

ガタガタと震えて己の身を抱きしめている三成。
その頬は痩け、瞳孔は開き、血が出るほどに薄い肉に爪を立てている。
ずきりと胸が痛む。

「三成…!」
「…………」

両の腕をいっぱいに広げ、細すぎる体を抱きしめる。
三成の震えが少し収まる。
俺の体温を少しでも分けられるよう、更に強く抱き込んだ。
もちろん、三成の腕は俺の背に回らない。

「俺も、家康への復讐を果たすよ、三成」
「…」
「悔しいな、悲しいな、辛いな、苦しいな、…でも、そう塞ぎ込んでいては復讐なんて出来ないよ」
「………」
「だから、飯食って、寝て、力つけて、家康に挑もう。大丈夫、お前の傍には吉継も行長もいるから」
「……貴様も、いるのだろう、正家」
「…! ………ああ、もちろんだよ、三成」

やっと、俺の目を見て、俺の名を呼んでくれた三成。
俺の着物を緩く掴む手を感じて心が暖かくなる。
平静を取り戻した三成に、優しく笑んでみせる。
吉継も行長も、三成から離れるわけないんだから。
三成の傍で、三成を支えてくれるよ。
俺も、三成の傍にいれるよう、頑張るよ。
だから…そう、泣かないで。
三成に泣かれてしまったら、俺は、どうしたらいいか分からないんだ。
三成はいつものように、己の為すことに正しさを信じて、ただ突き進んで。

「私から離れるな、正家。貴様だけは、絶対に、そう、誓え」
「…誓うよ。俺は、三成から離れないため、力を、知を、奮う」
「そんなことはしなくてもいい、ただ、私の隣にいると誓え」
「うん。未来永劫、死んだって、三成の傍にいるよ」
「違うな、この誓いを、決して…」
「この飴色に誓うよ」

着物の中に隠していたねっくれすを出して、三成に見せる。
目は依然として虚ろだが、それでも三成は安心したように息を吐いた。
三成を抱きしめる俺の着物を弱々しく握る手はもう、震えてはいない。

「眠い…」
「あれ、三成にしては珍しい。…寝食とってないんだから、当たり前だけど」
「食事は…あとで食う。今は……」
「寝るんだろ? 布団を敷くよ」
「……いい、私から、離れるな…、正家…」
「でも…」
「私、の…傍に……い…、……」
「…寝たか……」

こんな体勢じゃ寝づらいだろうに、俺の着物をしっかり掴んで三成は眠りについた。
冷たいがそれでも微かに温かい体を抱きしめ、そっと目を瞑った。

絶望の花


襖の影から姿を現す。
三成様のお体を抱きしめたまま、共に畳に横たわる正家様。
三成様のためにと持ってきた羽織をお二人に掛ける。
…寝顔は、つい数月前と変わっていないという、のに。
お二人の運命は曲げられてしまったのだ。
きっとこの先、正家様の道を妨げる輩が出てこよう。
豊臣は終わったのだと押しかけてこよう。
私は、いくら正家様が不利になろうと、このお方の道を開く鬼神となろう。
正家様がお望みになるのでしたら兵を殺す道具となりましょう。
これからは戦に追われる日々となります。
今だけは、どうぞ、苦しみも悲しみも絶望も、忘れ去って安らかにお眠りください。
眠るお二方の上には欠けた月が寒々と光っていた。

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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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