指先 | ナノ
さようなら、と告げた声は自分で思っていたよりも掠れて、聞けたものではなかった。
鼻が痛い、目頭が熱い。
零れそうになる涙を、唇を噛み締め耐える。
半兵衛さまは俺に笑っていてほしいとおっしゃった。
最後、半兵衛さまとお話ししたとき、俺は半兵衛さまに笑顔を向けられなかった。
今くらいは、本当の最後くらいは、笑おう。
安心してください、半兵衛さま、俺がこれからも笑い続けます。
半兵衛さまの代わりに、皆に笑顔を分け与え、豊臣の覇道を確実なものとします。
…俺に、半兵衛さまの代わりが務まるはずがありません。
それでも、少しでも、半兵衛さま亡き後の豊臣の穴を埋められたら。

「半兵衛さま…いってらっしゃいませ。また……来世で会えることを望んでおります」

白く冷えた、思っていたより小さな手を握る。
握り返されることはない、それに寂しさを感じるといえど、もう、悲しさは感じない。
夢を見たのかさえ分からない深い眠りにつき、やっと気づけたのだ。
半兵衛さまは、もう病に苦しめられる必要はないのだ、と。
ニコリと笑みを浮かべ、半兵衛さまの手の甲に唇を落とす。

「見ろよ…笑ってるぜ」
「やはり、半兵衛さまを見殺しにして軍師になるつもりだったんだよ、あいつ」
「文官は嫌に頭が回って怖ぇな」

にたにたと下卑た笑顔を浮かべ武断派の将─清正たちが陰口を叩く。
…言いたいように言えばいい。
何とも思わない、俺は半兵衛さまとの誓いを果たすまで。
半兵衛さまのご遺体から離れ、元居た場所に戻る。
その場に座り込めば、今まで仲良くしていた将たちも俺から離れた。
……こういうもんだよな、分かってる。
長秀さまの城にいた時もそうだった。
異端者は省かれる。

「正家…」
「…家康」
「お前…大丈夫か」
「………俺に話しかけない方がいい。お前も輪から外されるぞ」
「関係ない。ワシは、いざとなったら三河に帰ることが出来る。しかし、お前はそうはいかないだろう?」
「……………俺は大丈夫だ。鳳が傍にいてくれる」
「正家……」
「半兵衛さまの葬儀中だ、もう黙れ」
「…」

背筋を伸ばし、前を見据える。
半兵衛さまのお身体が秀吉さまの手により穴へ入れられた。
啜り泣く声が響く中、半兵衛さまは葬られた。
立派な墓が建てられる。
……良かった。
ほっと息を吐く。
僧侶より葬儀終了の声がかかる。
諸将がゾロゾロと去っていく。
俺も立ち上がり、馬に向かう。

「正家!」
「…家康、だから、もう」
「この後、秀吉公が諸将を集め、何やら話し合うそうだ」
「そんなの俺聞いてないけど」
「だからワシがこうして教えて、」
「俺に来てほしくないから俺には教えてないんじゃないの」
「う…。い、いや、小西にな、言われたのだ。正家に伝えてくれ、と」
「ふうん…」

伝えてくれた家康にありがとう、と言う。
笑いかけたかったのに、笑顔を作ることが出来なかった。
引きつった顔しか出来なかった俺の頭を、痛ましげな表情をした家康が撫でる。
俺はお前より年上だ、とその手を止めさせる。
それでもな、と悲しげに笑んで家康はまた撫で始めた。
どうして分かってくれないかな…吉継と行長は分かってくれたのに。
余裕ぶって、俺も家康の頭を撫でてやった。
そんなことをされるのは久々だったらしく、照れて顔を赤くする太陽が眩しくて、目を細めた。

* * *

部屋に集められた諸将がざわめきやる。
皆が隣近所の者と顔を見合わせ話し合う。
太閤殿の宣言、それは朝鮮へ出兵するというもの。
賢人が最期に立てた朝鮮に戦を仕掛ける計画。
その計画を実行し、賢人への弔いとするつもりのようだ。
…果たしてあれが黙っておろうか。
あれはもう一つ失態を犯せば失脚もあり得る。
……あれの所為で胃が痛んできたわ。

「半兵衛は我の覇権を世界に広げようとこの戦の準備を進めていた! 戦準備は既に半分程半兵衛の手により終えられている! 半兵衛の無念を晴らすため、そして豊臣の覇権を世界に広げるため、朝鮮を攻めようぞ!」

太閤殿の言葉に諸将が賛同の雄叫びを上げる。
特に近頃文官の登用で辛酸を舐めてきた武将共の声が目立つ。
われの隣でも、三成が白い頬を上気させ、拳を握り目を輝かせている。
…やれ、斯様に顔を緩める三成はまっこと珍しや。
三成の様子にため息を吐くとすぐに鋭い視線が横から飛んでくる。
それを適当に流し太閤殿に意識を戻す。

「異論は無かろうな?」

よく通る声に、騒がしかった室内に静寂が訪れた。
太閤殿を中心に円を描いているわれらを強圧的な目が見渡す。
皆々が縮こまり目立たないようにしている中、一人の者が立ち上がった。

「秀吉さま」
「……………正家か」

立ち上がり、太閤殿に歩み寄っていく正家を見、またざわめきが起きる。
…やりよったわ、あの阿呆……。
痛み始めた頭を抱え、目頭を押した。
あれはまっこと…われの予想の斜め上を行ってくれることよ。
そして、正家が異を唱えようと立ち上がったことに周りの将が震え上がる程の殺気が隣から立つ。
…これは、拙い。
下手すれば流血沙汰になりかねん。

「立ち上がったということは、我の方策に異論があるというのだな」
「はい」
「…」
「秀吉さま、今は世界に目を向けている場合ではござりません。半兵衛さま亡き今、官僚も武将もまとまりを失い、半兵衛さまが築き上げてきた制度が崩れつつあります。これは近いうちに豊臣の弱体化に繋がります。故に今は、内政をまとめ直すべきです」
「我は斯様な話を聞いたことがない」
「皆が秀吉さまにご報告していないだけです」
「ほう…随分な言い様だな、正家」
「豊臣が未来のため申しております故」

太閤殿の眼前にまでやってきた正家は、そのまま膝をついた。
顔も伏せ、淡々と言葉を紡ぐ。
正家のその態度に、隣の怒気がぐつぐつと音をたてるように沸いていっているのが分かる。
…これは、本格的に拙い。
早にそこを退きやれ、正家。

「ふん…豊臣のため、か」
「はい」
「己が昇進のためではないのか」
「!? 何をおっしゃっているのですか、秀吉さま! 俺にそんなつもりは…」
「我に内政に力を入れさせ、その中心となり半兵衛の後継者となるつもりではないのか?」
「違います! この正家、官僚として秀吉さまに仕える身にござります。諸将が半兵衛さまの死により混乱に陥っていることが身にしみて分かるのです!」
「どうだかな」
「秀吉さま!」

らしくないことを言う太閤殿に、われも些か驚いた。
やはり、賢人の死が堪えているようよな。
さて、如何様に正家を助けてやろうかと頭を捻っていると、隣で立ち上がる気配がする。
まさか、と隣にいるはずの三成を見れば既に諸将を掻き分け太閤殿と正家の下へ向かっていた。
…更に頭が痛うなってきたわ。

「正家、貴様ァ! 秀吉様に刃向かうつもりか!?」
「違う! 世界に目を向けるより先にすべきことがあると、」
「それが秀吉様への裏切りだと言っているのだ! 秀吉様に異を唱えるなど不忠不義の限り! 今すぐ頭を垂れ詫びろ! 許しを希え!」
「そんなことは出来ない! 今この不和を見て見ぬふりをすることこそが俺にとっての不義となる!」
「貴様…ッ、分からぬ者め、斬滅してやる!」
「そんな脅しに俺は屈しない! よく考えろ、どちらが豊臣が永劫の権勢となるか!」

太閤殿を前に、三成と正家が激しく言い争う。
…ここまで激しい口論はわれですら見たことがない。
ついに三成が正家の袷を掴み、拳を振り上げた。
三成が正家を殴るようなことになっては、後々三成が後悔をすることになる。
止めねば、と輿を浮かそうとしたところに声が上がった。

「もうよい」
「! 秀吉様!」
「…」
「とにかく、正家、お前は朝鮮出兵に反対なのだな」
「……はい」
「ならば、これからの談合に参加せずとも良い。お前一人おらずとも戦は出来る」
「な……」
「自室にて謹慎していろ。戦が終わるまで我の前に姿を現すな」
「……………、……………………承知しました」

顔を驚きに染めた正家が太閤殿の顔を食い入るように見つめた。
太閤殿の目に偽りがないことを確信すると、その目を伏せ、頭を下げた。
そして、足早に部屋から去っていった。
皆正家に気がいっていた為気づかなかったが、いつの間にか徳川まで円の中心にやってきていた。
後悔していたらしい三成も、突然の徳川の登場にまた怒気に顔を染めた。

「家康! 貴様何を、」
「ワシも此度の計画から下りよう、秀吉公」
「…家康、貴様もか」
「ああ。ワシも、正家と同意見だからな」

にこりと健やかな笑みを浮かべ、徳川は颯爽と去った。
その背を、三成が憎々しげに見つめていた。

破滅への掌握


「正家」
「……家康、お前、何故ここに…」
「ワシも、世界に戦火を広げるのは反対だ。お前もあんな理由を挙げていたが…つまりは、こういうことだろう?」
「…」
「大丈夫だ、正家…ワシはお前を一人にはしない」
「…俺は一人じゃない」
「だが、いつも一緒だった三成たちと離れているんだ。辛いだろう?」
「…」
「だから…正家、」
「っわぶ!」
「ワシを頼ってくれ。ワシもまた、お前の友であり、絆だ」
「…………ありがと、家康」

きゅ、と弱い力で背の布が握られる。
その感触に、太陽と称される男は笑みを零した。

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