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正家様は算術を得意としていらっしゃる。
女中たちの噂によると、なんでも、四桁の暗算が出来るとか。
そのため、正家様に任せられるお仕事は算術を主としたものが多い。
私のような忍には理解し得ない数字の羅列。
真に正家様は聡く、素晴らしきお方だ。

「正家くん、ちょっといいかな」
「半兵衛さま! お呼びしてくだされば俺が参りましたのに」
「只でさえ仕事をたくさん押しつけているんだ、来いなんてとても言えないよ」

手に紙の束を持ち現れた半兵衛様。
先程までさらさらと計算をしていた正家様の背が自然と伸びる。
穏やかな微笑みを浮かべ半兵衛様が正家様の御前にお座りになった。

「もう少し、頼んでも良いかな」
「ええ。何の計算でしょうか」
「各国の兵、兵糧、集められる鉄砲の総数を千未満は切り捨てて求めてほしいんだ」
「はい、分かりました。…しかし、兵の人数など…まるで戦準備のようですね」
「実際、戦準備だからね」
「………例外もありますが、豊臣は各大名を従わせ、天下を掌握したと言えます。何故また戦などと…」

例外、の部分で苦笑した正家様。
正家様のお言葉に半兵衛様が頷きなさる。
あまりに白い顔を少し傾げて続ける。

「ああ、豊臣は今や日の本の覇者だ。そんな豊臣が次に目指すべきは──世界だ」
「……世界、ですか」
「ああ。日の本より大きな世界こそ、秀吉が手にすべきものなんだよ。世界から見たら日の本はどれほど小さなものか。秀吉はね、日の本に収まるような男じゃない。世界の覇者となるべき男だ」
「なるほど」
「まず手始めに日の本が古来より影響を受けてきた清国を攻めようと思う。そのためには、通過点となる朝鮮を先に服従させておく必要があるんだ」

目をきらきらと輝かせて語る半兵衛様。
彼の語る全ては、彼にとっての「夢」である。
秀吉様の野望、秀吉様の御威光が夢なのだと言う。
…私には常々思っていることがある。
何故、豊臣の方々は誰が為にこうも全てを注げるのだろうか。
半兵衛様然り、三成様然り、正家様然り。
お一人が為に熱心になることはこの世では忠臣と讃えられるだろう。
しかしそれは非常に危険な一面を含んでいるのだ。
大切なその方がもし、亡くなってしまったら──?
私は、三成様を失った正家様を見ることは、恐らく、出来ないだろう。
想像しただけで恐ろしい。
三成様亡き世を生きる正家様は、一体。

「…しかし、世界に日の本の戦火を広げるのは」
「……………ああ。分かっているよ。優しい君には、躊躇われることだろう。だから、僕は狡い手を使うことにしたんだ」
「…?」
「この、朝鮮を攻める戦を、僕の最期の戦とする」
「!」
「僕の、軍師としての最期の戦だ。……ふふ、君の揚げ足を取ってしまったね」
「……………ご冗談を。半兵衛さまはまだ、こんなにもお元気ではありませんか。俺をからかえるほどに」
「僕の体のことは僕が一番分かっているよ。もう僕は長くない。だから、急がなければいけない。正家くん、その書類はなるべく早く仕上げてくれ。動員できる兵と鉄砲の数が分かっていればそれだけ準備も進むからね」

…半兵衛様の、最後の戦……?
どうやら、お二人の間で何やら約束事を結んでいる様子だが…私の知らぬものらしい。
半兵衛様のお言葉に、正家様が表情を固める。
そして、何かを考えるように目を伏せ、数秒の後に開かれた瞳は決意に満ちていた。

「分かりました、なるべく早く半兵衛さまに提出いたします。ですので…どうか、無理をなさらないでください。何かなさる場合でも、なんなりと、この正家をお呼びつけください。この正家が全ていたしましょう。半兵衛さまのお体にご負担をかけるわけにはいきません」
「僕を心配してくれているんだ?」
「当たり前です。半兵衛さまは俺の師であり、兄上のような、父上のような…俺の中で、大きな存在なのです。心配せぬわけ…っう、」
「ありがとう、嬉しいよ」

正家様のお言葉を遮り、半兵衛様が正家様を抱きしめた。
半兵衛様の突然の行動に、ガチリと固まる正家様。
正家様の肩越しに見える半兵衛様は目元を緩め、嬉しそうに笑んでいる。
ようやく我に返った正家様が慌てて半兵衛様を押し返そうとするが、半兵衛様は負けじと腕の力を強めた。

「半兵衛様……!」
「実のところね、僕がこんなこと言うのは少し躊躇われるのだけど…僕は君が一番可愛いよ」
「は、え……」
「素直で表情豊かで勉強家、世話焼きで損している人を放っておけなくて…家臣としてじゃなく、一人の人間として僕を思ってくれている」
「…そんな、俺は、半兵衛さまに誉めていただけるような人間では……」
「おや? それでは、君を誉めた僕を否定してることになっちゃうよ」
「はっ! す、すみません!」
「ふふ、ごめんね、あまりにも君が可愛いから、からかいたくなっちゃって」

顔を真っ赤にして混乱している正家様とにこにこ嬉しそうに笑っている半兵衛様。
微笑ましい光景に、私の口の端も無意識に上がる。
まるで、親子の戯れ。
なんて、心安らぐ光景。
今が戦乱の世だということが分からなくなるほどに。
……なんということだ。
忍の私が、戦場への恐怖を覚えてしまった。
そうだ、戦場は命を狩る場所。そして、狩られる場所。
このお方たちの命が狙われることもあるのだ。
こうも絆を深く結ばれている方々が、命の喪失によってその絆を絶たれるなど。
恐ろしすぎるではないか。

「…半兵衛、さま」
「うん?」
「………俺、を…可愛いと思ってくださっているのならば、…最期、などとおっしゃらないでください」
「……………本当にもう危ないんだ」
「置いていかないでください」
「!」
「半兵衛さま、正家も、半兵衛さまをお慕いしております、…秀吉さまよりも! 秀吉さまの小姓から将となった俺がこんなことを申しますのは甚だ無礼極まりないでしょうが、俺は半兵衛さまが…」
「……ありがとう、正家くん。君は僕の自慢だよ。だから、そう悲しい声を出さないでくれ。君は弱い部分を見せることが少ないから、戸惑ってしまう」
「…すみません、見苦しいところをお見せしました」
「僕は嬉しかったよ、可愛い部下にこんなに思われて、見苦しいと思うわけないだろう」
「はい……」
「──正家くん、無理を言うようだけど、君は笑っていてくれ。秀吉に三成くん、大谷くん…ほら、君がいないととんでもなく暗い集まりになってしまう」
「ふ、はは、そうですね」

正家様の切迫した声に心に動揺が走る。
半兵衛様と正家様の会話、それが非常に緊迫したものなのだと今更に分かった。
置いていくな、ということはつまり…、お二人の言う最後は「最期」ということだ。
…半兵衛様の、最期?
何故だ、何故そのようなことを。
正家様がこうも悲しんでおられるということは冗談ではないわけで。
戦で失せるつもりだということだろうか。
…いや、待て、何か嫌な予感がする。
とても悲しい、正家様のお心を乱すような、大きすぎる事件が起きるような…。
しかし、続いた半兵衛様のお言葉に微笑む正家様を見ると、そんな暗澹たる予感は打ち消されてしまう。

「ごめんね、正家くん。君が可愛いからこそ、先に言っておきたかったんだ。今考えれば、君に知られてしまって良かったな。君にこうも惜しんでもらえるのだもの」
「半兵衛さま」
「僕はまだ大丈夫だ。安心してくれ。まさか泣くなんてしないでくれよ」
「俺はもう元服しているんです、泣かないです」
「ふふ、そうか。──じゃあ、僕はもう行くね。早く戦準備を済ませなければならないし。書物室にいるから、何かあったらそこに来てくれ。分かったね」
「はい。…半兵衛さま、無理は…」
「しないよ、もう。心配性だね」

くすり、と笑みを零し半兵衛様が正家様を離した。
まだ赤い頬のまま憂いを帯びている正家様が心配そうに半兵衛様を見上げている。
そんな正家様の頭をかき回すように撫でて半兵衛様が出て行った。
半兵衛様の後ろ姿を見送ってから、正家様はその場に仰向きで倒れ込んだ。

「ああああああー……」
「本日の半兵衛様は意地悪でしたね」
「近頃は戦場に出られないから鬱憤が溜まっていらっしゃるのだろう。そうであれば俺の自業自得だ」

仰向けに倒れたまま、自嘲気味に正家様は笑う。
じっと視線を正家様から離さずに見つめていると、私の視線に気づき、慌てて言葉を繕った。

「いや、あのな、俺が半兵衛さまから戦場に出る機会を悉く奪っているんだ。秀吉さまに軍師としても役に立つと認めて頂きたくて」
「……お言葉ですが、正家様、真に左様なことを考えている者はその本意を口にはしませんよ。正家様は、何かを隠していらっしゃいます、この鳳に」
「さて、さあ、何の話だろうな」

くるりと私に背を向けると急ぎ各国の国帳を開く正家様。
問答無用と言うように作業に入ってしまわれては深入りすることは不可能。
後ろに控えながら、私は考え得る可能性を一つひとつ吟味することとした。

* * *

「ああ、疲れた」

あれから二刻ほど経ち、正家様は背筋を伸ばした。

「お疲れ様です。何か用意させましょう」
「うん、じゃあ頼もうか。大福でも食いたいな」
「承知いたしました」

正家様の御前を失礼し、女中に声をかけると急ぎお部屋へと戻る。
襖を開けばぐったりとお体を横たえている正家様がいらっしゃった。

「ただいま戻りました」
「ありがとうな、鳳」
「は。…正家様、少々お尋ねしてよろしいでしょうか」
「うん?」
「半兵衛様は、病ですか」

ぐ、と固まった正家様に一歩詰め寄る。
はじき出した答え、正家様はこの事実を隠すため自分を貶める空言を口にしたのだろうか。
たどり着いた可能性に、あり得ない、あり得てほしくないと何度も頭を振った。
半兵衛様が亡くなってしまっては、正家様が悲しまれる。
御心を乱す程に深く愛していらっしゃる。
正家様にとって、半兵衛様は大きすぎるのだ。
しかし、どうしたってこの結論にしか至らなかった。

「……俺は、今更ながらに後悔している」
「…?」
「半兵衛さまはやはり、戦場に立つべき方だったんだ。凛々しく、冷静な、素晴らしい軍師を何故…俺は」
「………正家様のことです、何かお考えがあってのことでしょう」

正家様は私の問いに答えず、うつ伏せて顔を隠した。
その声音は救いを求めるような響きを伴い、無意識に庇うような言葉を返す。

「……………鳳、俺は、半兵衛さまに傍にいてほしい」
「…ええ」
「挫けても悲しくても悔しくても…半兵衛さまの笑顔を見ればどうにかなるような気が湧いてくる。三成や吉継とは違う……、そう、半兵衛さまは、俺にとっての『なるべき姿』なんだ」
「…」
「だから、鳳、忍の知恵を貸してくれ、どうやったら、どうしたら半兵衛さまにこれからも傍にいていただけるんだ」

くしゃり、と顔を歪める正家様。
泣きそうに目の縁を赤らめ、震える体で縋るように私の肩を掴んだ。
私を射抜く視線は痛いくらいに真っ直ぐだ。
ああ、そうか、やはり病か。
戦場で死ぬることは事前に分かるようなことではない。
最近痩せられ、顔色も優れなく、正家様に生活面を管理されている半兵衛様。
…もしそうだとして、何故私は気づけなかったのだろう。
確かに私は半兵衛様と会ってから日が浅い。
だが病一つ見落とすなど有り得ぬ。

「正家様、半兵衛様の病は、」

「兄様!」
「! 直吉? どうしたんだ、そんなに急いで」
「兄様、兄様、」
「…落ち着け、どうしたんだ。秀吉さまの湯呑みでも割ってしまったのか? 大丈夫だ、秀吉さまはそんなことで怒るような器量の狭い方では、」
「半兵衛様が、半兵衛様が!」
「、……………半兵衛さま、が?」
「お、お亡くなり、に…っ」

ばたばたと、廊下の先から聞こえてきた足音に言葉を切ると同時に直吉様が襖を勢いよく開け放った。
ふるふると震え、今にも崩れ落ちそうな状態で正家様に縋りついた。
直吉様の様子に顔を青くした正家様は、何でもないようなことをお尋ねなさった。
その目はまるで願っているようで。
しかし、次に直吉様から出た言葉に完全に表情が失われた。

「………半兵衛さま、は…どこに」
「ひ、秀吉様のお部屋、に……っ! っ、兄様、どこへ!」
「正家様、甘味をお持ち、きゃっ、正家様!?」

直吉様がおっしゃるとすぐに正家様は立ち上がり、ちょうど大福を届けに来た女中を押し退け部屋から出て行った。
私はその後を追う。
直吉様もついてきているようだ。
先を行く正家様の背が強張っている。
走らなければ追いつけないほどに早く歩く正家様。

「正家様、」
「……………」
「正家様、落ち着いてください、正家様…」

何の意味も持たぬ言葉を吐いて、正家様の横に並ぶ。
そっとお顔を盗み見ると。

「……っ」

ぞっとするほどの無表情が、裏腹に感情を語る目が、そこにあった。
黄土の瞳は数多の感情に覆われている。
それほど感情が沸き上がっているというのに、その御心の内を読むことが出来ない。
苦しみ悲しみ絶望疑義…様々に絡み合って混沌と化している。
ズグリと胸が痛む。
正家様が、悲しんでいる。
言の葉などで言い表すことなど出来ないほどに。
胸の痛みが強くなる。
正家様の痛みはこれほどではないだろうに。
苦しすぎて、息が出来ない。

「…秀吉さま」
「…………………………入れ」

閉ざされた秀吉様のお部屋に着いた。
そっと襖を開けると途端に聞こえる嗚咽、すすり泣き。
三成様が、床に臥す半兵衛様の傍らにうずくまり泣いている。
諸将も集まり、半兵衛様を囲うように座している。
その中にふらりと正家様が歩み寄る。
諸将を掻き分け、半兵衛様の枕元に跪く。
震える手であまりにも白い頬に触れた。
慈しむようにその白磁の頬を撫で、何かに気づいたらしい、唇を震わせた。

「…正家」
「…」
「賢人は書物室にて次なる戦の準備をしていたそうよ。……最期まで、太閤の軍師であった」
「……」

正家様の様子を見ていられなかったのか、吉継様が声をかけなさった。
最期まで軍師、その言葉に微かに反応なさった正家様は、光の宿らない瞳を上げた。
恐ろしいまでに虚無な瞳に射抜かれても吉継様は物怖じなさらない。
やがて正家様から視線を外し、正家様は半兵衛様の頬から手を離した。
聞こえるのは、三成様の嗚咽だけ。
正家様は、一粒も涙を零さない。
…まだ、泣ける状態でも、話せる状態でもないのだろう。
それなのに何かを言葉にしようとしているのか、唇が小さく震えている。
いや、全身が震えている。
不意に、半兵衛様に向けられていた視線を秀吉様、三成様、諸将の間に泳がせた。
そこでようやく表情を変え、沈痛な面持ちを浮かべなさった。
そして、覚束ない体で立ち上がりなさった。
諸将の視線を一身に受け、正家様は秀吉様の傍らに額を畳につけ跪いた。

「…何をしている、正家」
「半兵衛さまが亡くなられたことは、全て俺の責にござります」
「…どういう、ことだ」
「半兵衛さまが病を患っていらっしゃったことを、半年以上前より知っていました」
「……………」
「それ故、半兵衛さまの死は、それを、秀吉さまにお伝えしなかった俺の責にござります」

底冷えするほど冷たい、淡々とした正家様の声。
土下座の体勢のまま身動ぎ一つしない正家様を秀吉様が見下ろす。
正家様同様に涙を流していない秀吉様の顔に小さな動揺が走った。
なぜ正家様はこうも感情を押し留めていられるのかと、落ち着かない心情で正家様をじっと見つめる。
──正家様の震えが、大きくなっている。
ガタガタと全身を震わせ、正家様は土下座し続ける。

「……半兵衛が、そう望んだのだろう」
「、…」
「我が、あれの考えることを分からないとでも思ったか?」
「…………いえ」
「致し方ないことだった――我に愛など、情など要らぬ。…だが、当分貴様の顔は見たくない」
「…は」
「……暫し、我の前に姿を現すな。蟄居せよ」
「…申し訳、ございません」

体を大きく震わせたまま正家様は立ち上がりお部屋から出て行った。
正家様の後を追い、襖を閉めるときに見えた光景を、私は忘れられない。
正家様の親友であるはずの吉継様も行長様も、三成様でさえ、正家様を心配する様子を見せずに半兵衛様の死を前に首を垂れていた。
…なんと、薄情な。
私はそのまま襖を閉め切り、弱い足音を追った。

賢人の沈黙


今にも倒れそうなお体をお支えし、正家様のお部屋に運ぶ。
無作法ながら、足で襖を開けお部屋に正家様をお入れした。
部屋に入った途端に膝から崩れ落ちた正家様。
慌ててお側に駆け寄ろうとすると手で制される。

「は…っ、あ、う………」
「正家様!」
「あ、ああ、あああああ…はんべ、え、さま…ッ」
「……正家様、」
「ああ…半兵衛さま、半兵衛さま!」
「正家様!」
「俺が、俺が、俺が!!! 半兵衛さま! 半兵衛さま…!」

畳を力の限り殴る。
藺草で御手に傷がつくのも構わずに叫び、嘆き、吼える。
その身から悲しみが溢れ出ているように見えるほど悲痛の縁に立っていらっしゃるはずなのに、正家様は決して、涙を流さない。
目に涙が滲めば、傷ついた拳で強く拭い、唇から血が出るほどに噛み締め、耐える。
半兵衛さま、半兵衛さまと啜り泣くように呟き続ける正家様。
泣いてください、正家様、そう叫んでも、聞こえてはいないのか、正家様は懺悔と哀惜の言葉を紡ぐのみ。

「は、んべ……、さま、」

そして、ふと声を止めた正家様は、己の体を強く抱きしめた。
抱きしめたまま、虚ろな顔を上げて、悲しげな笑みを浮かべた。

「……はい…半兵衛さま……俺は…、」

悲哀が混ざっていた笑みは、途中で途切れた正家様の言葉の後に、純なものとなった。
続けられるはずだった言葉が察せられてしまい、忍だというのに、正家様が耐えていらっしゃるというのに、涙を零してしまった。

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