指先 | ナノ
これは、長束正家が黒田官兵衛のもとを訪れる数日前に起きた、ある事件の話である。

「正家よ」
「ん、どうした? 吉継」
「これを賢人に」
「お、いいよー。じゃあついでに茶を煎れてくる」
「うむ、頼んだ」
「……ふふ、三成も家康も起きないね」
「三成は仕方なきこととしても…徳川は何ぞ。何故われの部屋で寝こけなければならぬ」
「家康も頑張ったんだ、許してやろう」

小さく笑みを零して銀色の髪を撫でる。
戦中の睡眠不足が祟ったらしく、吉継の部屋に辿り着くと三成は倒れてしまった。
今は吉継の布団で死んだように眠っている。
気持ちよさそうに眠る三成の隣で、三成につられた家康も畳の上に寝ている。
普段の生活でならちゃんと三成に気が配れるんだけど…。
戦中ともなると俺も自分のことでいっぱいいっぱいになってしまう。
まだまだ、三成を守るには値しない男だ、俺は。
どんな時でも三成にちゃんとした生活を送らせなきゃ。

「三成には困ったものよ。少し目を離せば不摂生な生活をしやる」
「ああ…本当に。――じゃあ、俺は半兵衛さまのもとに行ってくる」
「握り飯を持って来よ。さすがの三成も腹が減っているであろう」
「ん、分かった」

吉継に手渡された書類を持って部屋を出る。
半兵衛さま、か…。
最近、ちょっと痩せられたように思う。
顔色も良くない。
半兵衛さまは働き過ぎだ。
秀吉さまに言って、無理にでも半兵衛さまに休んでいただかねば。
半兵衛さまの執務室の前に着いた。
襖の前に正座し、声をかける。

「半兵衛さま、正家にござります」
「ああ、入ってくれ」

両手で襖を開け、頭を下げる。
顔を上げると、やはりお痩せになった半兵衛さまのお顔があった。

「半兵衛さま、これを」
「ああ、大谷君に頼んだ書類か。ありがとうね」
「いえ。…恐れながら、半兵衛さま。お一つよろしいでしょうか」
「…? ああ、いいよ。どうしたんだい?」
「あの……些か、顔色が優れないように見えます」
「……そうかな。そんなことないと思うのだけど」
「近頃、紅も濃くなったように思われます。…少しお休みになられた方が…」
「僕なら大丈夫だ。秀吉の夢の邪魔をするわけにはいかない」

思い切って切り出してみるが、予想通りの答えが返ってくる。
半兵衛さまはいつもそうだ。
自分を顧みず、秀吉さまに尽くす。
それが悪いことだと一概には言えない。
主に仕える身としては尊い行為なんだろう。
だが、半兵衛さまは秀吉さまの家臣ではない、秀吉さまのご親友なのだ。
いくら秀吉さまの為といえど、ご友人であるならば、秀吉さまの為にもお休みになるべきだ。

「半兵衛さ、」
「っげほ! ゴホゴホ…ッ、がふ…!」
「!? 半兵衛さま!? 半兵衛さま!」
「っは…、大きな声を、出すな…っ」

説得を試みようと、再度名を呼ぼうとしたその時、半兵衛さまが酷い咳をしながらその場にうずくまった。
半兵衛さまのもとに駆け寄ると、口を塞いだ彼の手から赤い滴が零れ落ちた。
それを目にしてしまい、全身から血の気が引いた。

「半兵衛さま…!」
「は…っ、はぁ……。そう、大きな声を出さないでくれ……皆に聞こえてしまう」
「しかし、医者を呼ばねば!」
「良いんだ、医者ならとっくの昔につけてる。…しかし、この場にいたのが正家君、君で、本当に良かった…」
「…? それでは、そのかかりつけの医者を呼びましょう、どこに…」
「薬はある、正家君、落ち着いてくれ」

ゆっくりと半兵衛さまの、薄すぎる背を起こす。
手慣れた様子で布を取り出し、血を拭う姿に、鼻がツンと痛くなる。
かかりつけの医者がいる、その意味が痛いほどに分かってしまった。

「半兵衛さま……」
「…なんだい」
「いつからその御身を病まれていたのですか」
「……………僕は昔から体が弱かったからね、いつからかなんて分からないよ」
「…医者をつけた時期は……」
「二年くらい前からかな」
「最近…天下統一のために急がれているのも、まさか…!」
「……………………僕には、時間がないんだ」

ふらふらと覚束ない足取りで小箪笥へ歩いていく半兵衛さま。
その中から、懐紙に包まれた薬と思しきものを出す。
文机の上に置かれていた水挿しから湯呑みに水を注ぎ、薬を飲んだ。

「……ふう。ほら、これで大丈夫。発作は止まるんだ」
「……………」
「だから正家君、そんな顔をしないで。君にそんな険しい顔は似合わないよ」

突っ立っている俺に近づいて、半兵衛さまが頭を撫でてくれる。
辛いだろうに、俺を気遣ってくださる。
俺を安心させるように、じっと目線を合わせてくる半兵衛さま。
俺もその目を見つめ返す。

「……」
「…落ち着いたかい?」
「はい…」
「良かった。じゃあ、ちょっとこっちにおいで」

誘われるまま、畳に敷かれた座布団に座る。
…気づいてしまった。
いつの間に、俺は半兵衛さまの身長を抜いたのだろう。
今までずっと見上げていた半兵衛さまのお顔は、今や見下げる位置にある。
……いつの間に、数え切れぬほどの年月が過ぎてしまったのだろう。
知らぬ間に過ぎていった歳月が、こうも半兵衛さまのお体を弱めていったのだろうか。

「正家君」
「…はい」
「……こうして、病のことを知られたのが君で良かった。三成君や家康君ではきっと、これから僕が言うことを聞いてくれないだろうから」

半兵衛さまは、俺に向かい合うようにお座りになり、伺うように俺を見遣る。
半兵衛さまが言おうとしていらっしゃることは簡単に予想がつく。
受け入れてなるものか。
半兵衛さまの御身のためを考えれば、是と頷いては駄目だ。

「秀吉には、黙っていてくれ。もちろん、三成君たちにも」
「…半兵衛さま、ご自分が、無茶をおっしゃっていることがお分かりでしょうか」
「僕は、秀吉の天下を見るまでは死ねないんだ。秀吉が天下に立つ姿を、自分の目で見たい。秀吉の軍師として、死ぬまで陣中にいたいんだ」
「なりません。半兵衛さま、ご自分のお体を大事になさってください!」
「…僕が戦に出ないで、一体、誰が軍師をするんだ」
「それは、吉継でもこの正家、」
「秀吉の軍師は僕だけだ!」
「!」
「今までもこれからも、秀吉の軍師は僕一人でいい! 秀吉の苦しみも喜びも僕は全て見てきた! 秀吉の軍師は、秀吉の背を守るのは、僕だけでいいんだ!! 秀吉のためなら、僕は命くらい賭けてみせる! 秀吉が天下を統べる為に全てを賭けてきたように! …っぐ、ゴホゴホ……ッ、ごほ…!」

半兵衛さまが苦しげに胸を押さえているのに、その背をさすりに立ち上がることすら出来ない。
これほどの覚悟に見合うだけの言葉を、俺は知らない。
芯のある覚悟に対して是も否も、ないじゃないか。
俺は何を言えばいいんだ。
言ったとして、この軍師の命の言葉に、応えることは出来るのか。
俺は、俺はどうしたら。

「………半兵衛、さま……」
「…お願いだ……僕に、最期まで陣中に立たせてくれ…。僕を最期まで、軍師でいさせてくれ………」
「……………ッ」
「秀吉は優しい。きっと、僕の病を知ってしまったら、秀吉は僕を戦から遠ざけてしまう。僕は、それを望まない」

半兵衛さまにじっと、真っ直ぐ見つめられる
……自分の中で、既に決心はついているだろうに。
こうして、俺のために、俺に認めさせようとしている。
半兵衛さまがここで、俺なんて無視して我を通すことは容易だ。
半兵衛さまは俺よりも地位が高いんだ、当たり前だろう。
ただ、半兵衛さまの体調が悪くなってしまったときに俺が己を責めぬよう、半兵衛さまは俺に許しを請おうとしているのだ。
俺に責任を負わせぬよう、という半兵衛さまの優しさ。

「…………条件が、ございます」
「…何だい?」
「これからの戦、半兵衛さまには本陣にて留まっていただきます。もちろん、秀吉さまにも」
「…」
「秀吉さまへの言い分は…、お二人が参戦せずとも豊臣は勝てる、とでも申しておきましょう。そして、………」
「……? 正家君…?」
「……半兵衛さまが…お望みになれば、一度だけ、参戦していただきます。半兵衛さまのお望み…秀吉さまの軍師として、秀吉さまのお背中を守るため…秀吉さまが天下にお立ちになるための、戦に」

俺の言葉に、半兵衛さまが驚いたように瞠目なさる。
そして、段々とその表情を和らげていく。
最初はくすくすと、最後には声をあげて盛大に笑い始めた。
笑っていらっしゃるわけが分からず、半兵衛さまのお言葉を待つ。
漸く笑い声が止み、半兵衛さまは笑みを浮かべたまま俺に向き合った。

「ふふふ、つまり、僕の最期の戦への参戦は認める…そういうことかな?」
「……………言葉が過ぎますよ、半兵衛さま。俺は決してそのようには……、ただ、半兵衛さまのお望みを叶えるために、と」
「分かっているよ。君は、誰よりも心優しき将だもの、僕に、いつまでも軍師としていさせてくれるつもりなのだろう? 城に置いていくのではなく本陣待機…君の立場に立って考えれば、僕を戦場に立たせることだって嫌うはずだ。それなのに僕に一度だけ参陣を許すなんて、…ねえ、そういうことだろう」
「………」

穏やかに笑んで、半兵衛さまが仰った。
その微笑みは、全てを諦めた人間が浮かべるものだった。
自らの未来の望みを捨てた、病に侵された人の、美しすぎる微笑み。
……ああ、この幾年で、俺は何人のこの微笑みを見たのだろうか。
長秀さま、吉継、そして…半兵衛さま。
侵されていく…じわりじわりと、気付かぬうちに。

「……君は優しい。だからこそ、僕が失せた後の軍師は君に任せられないな。正家君には悪いけど、軍師は大谷君に任せることとするよ」
「縁起でもないことをおっしゃらないでください。…そして、もう一つの条件ですが」
「…一つじゃないのかい」
「ええ、俺は一度も一つ、と申しておりません。……半兵衛さまには、規則正しい生活を送っていただきます」
「…は?」
「思ったんです。健康はまず規則正しい生活から成り立つものでしょう。ですから、女中たちに用意する膳を俺の方から指定させていただきます。魚に野菜、米と全て召し上がるまで膳をお下げしませぬのでそのおつもりで。それと、亥四つには仕事が残っていようとも眠っていただきます。半兵衛さまが寝付かれるまで正家が側仕えいたします故、言い負かせられるとは努々お思い召されぬよう」
「……」
「膳ですが、以前から三成のものは俺が指定していましたので、あの三成の寡食を補うほど、という自負がございます。ご安心ください」
「…………あはははははっ!!」
「は、半兵衛さま?」

またもや、声を上げて豪快にお笑いになる半兵衛さま。
腹を抱えて、先ほどより大きな仕草をする。
…俺は真剣に申し上げたのだけど…。

「あーもう! すごく真剣な表情をするから何かと思えば…っ! 口うるさい女中のようなことを言うんだもの! そりゃ可笑し…、っふふ」
「な…そのように普段の生活を軽んじておりますから病など患うのですよ! この正家をご覧ください、生まれてこの方飯と睡眠を欠いたことがありませぬ故か、風邪一つひいたことがないのです!」
「ふふ、ああ、そうだね、どこをどう見ても健康体だ。それじゃあ、お願いしようかな。正家君の言うような生活を送れば少しは良くなるかもしれない」
「! 承りましてござります! それでは早速夕餉のご用意…を……」
「…? 正家君?」

半兵衛さまのお言葉に、外を見てみれば沈みゆく陽。
そろそろ夕餉の時間かと上体を起こしかけて思い出した。
……ここに来る前、吉継に…。

「やっべ、茶!」
「え?」
「す、すみません半兵衛さま! 急ぎ夕餉の支度を言いつけますので!」

そうだ、そうだった、吉継に茶を煎れてくると約束してたんだった!
三成の握り飯も頼むように、と…ああ三成が起きていたらどうしよう!
何も食ってない上に寝不足だというのにまた働き出すと言い張るに違いない!
すれ違う女中たちに注意されながらも廊下を全力で駆けた。

憂慮の莟


「い、如何でしょうか…半兵衛さま」
「……味、濃過ぎじゃないかい」
「それは普段からあまり食事に気を遣わない半兵衛さまと三成仕様になっているんです。量を食べていただけないのならば違うところで力をつけていただかないと」
「…分かった、分かったよ。全て食べるから薄味にしてくれ。まるで東国の台を食べているかのようで、僕にはとても完食出来そうもない」
「…ええと、それでは半兵衛さまの御台は薄味とさせていただきます。……そうなると、苦労をかけてしまうな…。三成と家康は濃味で半兵衛さまと吉継は薄味かあ」
「……吉継くんと家康くんの分も君が見ているのかい?」
「いえ、家康はいつもというわけでは。吉継はですね、病を患ってから人を遠ざけて…女中を厭うようになりましたので、調理を見張るついでに吉継の好みに合わせて作らせているのです。手間にはなりますが…あの二人が食事を摂っている姿を見るのはなんとも嬉しく…つい調理に口を出してしまうのです」
「ふふ、困った子たちだね」
「ええ、もう、本当ですよ」
「…うん、君たち三人は絶対、道を違えることはない。確信したよ」
「………ここまでくると腐れ縁、です」
「思ってもないことを言わないの」
「ははっ」

オマケ

「正家」
「…はい」
「われはずっとぬしの茶を待っておったのだが」
「う……」
「三成も、ほれ、こうして利口にぬしを待っておったのよ」
「………待ってる、というか…家康に押さえつけられて…」
「三成も、ぬしを、待っておったのよ」
「…はい」
「まあ良かろ。賢人と話し込んでおるのは想像がついた。飯も用意してきたことだし、致し方ない、許してやってもよい」
「ありがとうございます、吉継さま」
「ヒヒヒっ」
「離せ家康! 私は政務に戻る!」
「まあまあ三成。正家がこうして食事を考えてくれたんだ、頂こうじゃないか」
「〜〜〜〜〜! 正家! 何故私と刑部のだけでなく家康の飯まで見繕った!!」
「ついでだったし……」
「フンっ! 私は政務に戻るからな!」
「あ! おい、三成! …すまん、逃げられてしまった」
「日常よ。やれ正家、食わせて来やれ」
「うん。じゃあ行ってくる。 家康、食ったら自分で片付けろよ! んじゃ!」

「…刑部」
「何ぞ」
「食わせる、とは…一体……」
「そのままよ。正家がぴしゃりと言えばあの三成もただの仔猫。黙して食し始める」
「……傍目から見てもお互いがお互いに甘いのに、本人たちのみが知らぬのはもどかしいものがあるな」
「われはそれをかれこれ十数年見続けておる」
「…お疲れ様、と言うべきか……」
「ヒヒ」

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