ようやく授業が終わり、ざわめく教室でぐっと背を伸ばした。
あんずがどうしてもとうるさく言うものだから仕方なく受けたが、固くなった体が疎ましくてたまらない。たまに真面目に授業を受けるとこれだから困るのだ。
ぐったりと机に体を預けると少し楽になるけど、やっぱりあとで血でも貰わないと割りに合わないよねえ。
と、そこで普段なら小うるさく声をかけてくるはずのま〜くんが静かなことに気が付いた。
隣の席を見るとま〜くんは頬杖をついてぼーっと黒板を見つめたまま、何度目か分からない溜め息を吐いていた。

「はあ…」

かろうじて右手にはシャーペンが握られてはいるが、ノートは授業の前半で足を止めている。この様子だと授業が終わったことすら気付いていないんだろう。
ま〜くんをこんな風に出来るのはたった一人だけだ。

「ま〜くん」
「………」
「ま〜くん、授業終わったよ」
「………」
「ねえってば〜」
「………」
「…………あ、ななしだ」
「っ?!」

ガタン!大きな音を立てて立ち上がったま〜くんは耳まで真っ赤で狼狽えていて、分かりやすすぎるほどだ。
椅子が倒れたのに驚いたコーギーが訝しげにこちらを見ている。ま〜くんはそれにも気付かず未だにきょろきょろと教室を見回しているけど、ななしはもちろんいるわけない。
…本当に重症だ。
いつからま〜くんがななしを好きだったかは分からないけど、日に日に調子が狂っているように見える。
まさしく恋煩い、というのがぴったりだ。
ななしを見かけては赤くなり、思い出しては溜め息を吐き、誰かと話しているのを見かけては青くなる。
俺のお世話も疎かになるし、さっさとくっついて安定してほしい。
けど、見てるだけは楽しいんだよねえ。

「嘘だよ〜」
「は、…は?」
「だから、ななしがいるっていうのは嘘」
「…なんでそんな嘘吐くんだよ」

恨めしそうに俺のことを見て言った。

「だってま〜くん授業終わったのも気付いてないんだもん」
「えっ、あ、いつの間に!?」

まわりを再度見回し、ようやく気付いたのか慌てて椅子を起こし座ると、ノートを見て顔を顰めた。

「俺、今日はノートとってあるよ」
「まじか」
「見せてあげてもいいけど〜?」
「頼む…」
「ふふん、ま〜くんに頼られるなんてなかなかないからねえ…♪」

珍しく埋まっているノートを渡すと「助かる」と力なく笑った。
反対に俺は、ま〜くんに頼られるのが嬉しくて上機嫌で、多少の小言も気にならない。

「いつもこうだと助かるんだけどな〜?」

と言うと、ま〜くんはさっそくノートを写し始めた。
ちらっと視界に入った扉には、噂をすればなんとやら。

「あ、ななしだ」
「凛月〜?さすがにもうその手には乗らないぞ」

手を止めて、明らかに疑っているという顔でじとりと俺を見る。
嘘じゃないのに、信用がないなあ。

「何が乗らないの?」
「うわっ」
「わっ?」

さっきのやり取りを知らないななしが横から声をかけると、ま〜くんは大袈裟なくらい肩を震わせて立ち上がった。その弾みで大きな音を立てて、今度は椅子だけじゃなく机まで倒れたそうになる。ま〜くんはそれを咄嗟に掴んで元に戻した。ナイスキャッチ。
ノートや教科書や、ペンケースは飛び散ったけど。

「あっぶね!え、ななし?!」
「ね〜、嘘じゃないでしょ〜」
「ま、真緒どうしちゃったの?」

ななしは机から飛び出していった教科書やノートを拾うと不思議そうな顔でま〜くんを見上げた。
ま〜くんは目が合うと顔を真っ赤にして息を呑んで、金魚のように口をぱくぱくさせた。黙ったままのま〜くんを変に思ったのか首を傾げるななし。
無自覚って恐ろしい。その仕草がどれくらいま〜くんにダメージを与えているか知りもしないんだろう。
きっとま〜くんは、可愛いとかこんな時にとか、思っているんだろう。
俺はにやにやしたまま二人を見つめる。

「真緒…?」
「な、なんでもない」
「ま〜くんにも考え事くらいあるんだよ〜」
「あっ、もしかして真緒、また困ったことに巻き込まれてるの?手伝う?」
「え、いや、違うから!大丈夫だから!お前は心配しなくていいから!」
「…?そう?なら、いいんだけど…」

手をわたわたとさせて必死に誤魔化すま〜くんに、ななしは腑に落ちないようだった。勢いに流されてとりあえず頷いたという感じだ。
どうしようかとでも言うように俺を見るから、聞いてやるなと首を振った。

「あー、そ、それより用があるんじゃないのか?」
「そうそう、そうなの。あんずから伝言!」
「あんずから?」
「うん。レッスン場所がね、変更になったんだって」
「どこ?」
「えっとね〜、」

ななしがポケットからメモを取り出すとちょうど予鈴が鳴って、慌ててま〜くんに渡して飛び出していった。

「あっ、次、移動なんだった!じゃあ真緒、またレッスンでね!」
「お、おう」
「ばいば〜い」
「凛月もまたね!」

扉で振り返りにっこり笑って手を振ると、ぴゃっと走っていった。その時スカートの裾がひらひらはためいたのを見て、ま〜くんは深い溜め息を吐いて机に突っ伏す。ごちんという音が痛々しい。

「…可愛いな〜チクショウ…ていうかスカート短えよ…」
「ま〜くんのエッチ〜」
「は、はあ!?ちっちが、凛月!」
「冗談だよ。よかったねえま〜くん。おつかいに出してくれたあんずに感謝しないとねえ」

うっ、と言葉に詰まったま〜くんはななしが出て行った扉を何度も振り返りながら大きな溜め息を吐く。
あんずにもバレバレなおかげでこうしてななしを送り出してくれるのだから、ありがたいことである。

「はあ…」

こんなに分かりやすいのに、ななしはいつになったら気が付くんだか…。
まあ面白いし、やっぱり当分このままでもいいかな。
ま〜くんがななしを好きになればなるほど、溜め息の数が増えていくのだった。



×