目が覚めた瞬間、鼻に届いた香りに違和感を覚えた。爽やかなそれはわたしが気に入っている柔軟剤の香りではなかった。つまりうちじゃない。ここ、どこだ?そして肌寒さに毛布を引き寄せて服を着ていないことに気付き、視界にちらついた綺麗な横顔に固まった。ああ、やってしまった。後悔してももう遅い。先に立たないから後悔、時間はいくら悔いても戻ってくれないのだ。
お酒の名残かうまく回らない頭で自分を宥めつつ、もう一度横に視線を送れば片思いの相手がすやすやと寝息をたてている。しかも腕枕をされている。今じゃなかったら絶対に喜んでるのに!状況が状況なだけにまったく喜べないけれど。疲れてるのかな、動いても起きなさそう。

瀬名泉。中学の時からの友人で、お互い芸能界に身を置いたことも手伝って成人した今でも疎遠になることはなかった。むしろ仲はいいほう。
その美しいルックスのおかげか、努力の賜物か、見た目に反して冷たい口調とのギャップからか、とにかく昔からあほみたいにモテる男だった。本人はうざがってたけど泉が歩けば砂糖に群がるアリのごとくファンが集まり、わたしはそんな彼を好きなうちの一人として、また、気軽に話せる友人として、何年もひたすら見つめてきた。好きよ、気付けばか、と。
それが、なんだ?この有様は。ずっと揺るがないポジションを得るために頑張ってきたというのに告白もしないままに関係を持ってしまった。もうおしまいだ。ぶち壊しだ。
泉の人柄を否定するわけじゃない。彼はあんな口ぶりでも根は責任感が強く真面目だし、分かりにくいだけで本当はすごく優しい。だけどさすがに駄目だろうこれは。付き合ってもいないのに関係を持つような節操のない女、泉は嫌うだろう。それもお酒の勢いで。翠じゃないけど鬱すぎる、死んでしまいたい。

「んん、」

自己嫌悪に陥っていると泉が寝返りを打った。前髪に寝ぐせがついて可愛いおでこが丸見えだ。わたしは確かにこういう無防備な泉が見たかったけれど、こんな形はこれっぽっちも望んではいなかった。
嫌な女の本音を吐露するのであれば、一般人であればワンナイトラブも考えたかもしれないけれど、わたしにはいくらでもチャンスはあるのだからどうにかなるかもしれないと思っていた。胡座をかいていたバチがあたったんですか?

そもそもどうしてこんなことになったんだろうか。確か泉と嵐と飲んでいたらレオが久しぶりに顔を出したんだ。それであれよあれよとしこたま飲まされてぐでぐでに酔ったところまでは覚えている。帰るのも無理なくらいどうしようもなく眠くなって、30分で起こしてくれと机に突っ伏して…?そのあとわたしは起こしてもらえたんだろうか。どう頑張っても思い出せない。
とにかく逃げよう、泉が起きる前に。決めてからは早かった。しわだらけの服を着てコートと鞄を掴むと部屋を飛び出した。部屋を出て気付いたが、あそこは泉の家だった。何度も訪れたあの家の、知らない一室。まさか初めて寝室に足を踏み入れた理由が酔いに任せてなんて最悪だ。
あっ、そうだ、何もなかったことにしよう。わたしは気付いたら自分の部屋で寝ていた。そう。わたしの記憶は居酒屋で眠ってしまったあの瞬間に途切れ、自分の部屋でまた始まるのだ。間違っても泉と寝てなんかいない。ここで演技ができなくてどうする?わたしは女優だ。やれないわけない。大丈夫。
それに泉だって友達とそんなことをしたなんて思いたくないだろう。自分で言っていてなかなかに悲しいけれど、なかったことにしないとわたしがつらい。図太いと思っていた神経は案外繊細だったらしい。正直言って帰ってからちょっと泣いた。

かくしてわたしはひいこらと逃げ出し、何事もなかったかのように日常へ戻った。もともとこまめに連絡をとっていたわけじゃないし、しばらく逃げても大丈夫だろう。と、思っていた時期がわたしにもありました。目の前には鬼がいる。

「挨拶もなしに帰るとか、随分じゃなぁい?」
「ヒッ」

だん!腕を組んだ泉が通り道を塞ぐように壁を蹴った。長い足に阻まれてわたしは震えるしかない。悪役さながらな登場に思わず悲鳴が出た。やばい、泉めっちゃ怒ってる。えっ、えー、こわー…、まじっすか、こんな怒る?ってくらい怒ってるじゃん…。
しかしわたしも女優だ、決めておいたとおりに振る舞う。あくまでも、ウワー記憶のないところで泉の逆鱗に触れちゃったヨー、感を出しつつ。

「え、泉怒ってる?わたしなんかした?」
「まさかしてないとか言うつもりじゃないよねえ。はあ…まあいいや、これ」
「あー!あの、…ごめん、レオと飲み比べ始めたとこまでしか覚えてなくて…」
「はあ?そんな言い訳通用すると思ってんの?」
「もしかして送ってくれたの泉?ほんとごめん…あんな状態でひとりで帰れたわけはないと思ってたんだよね」

ほんとごめん!何か言いかけた泉を遮って、両手を合わせて頭を下げる。どうにか誤魔化されてほしい。泉のスニーカーのお洒落な靴紐を見ながら願う。
息を呑むような音がした。

「…ねえ、本気でいってんの?」
「え?」
「………じゃあ、いい」

いつになく弱い声音でそう呟くと、もう用はないと言わんばかりに帰っていった。なんとか誤魔化せたみたいだけど泉のその背中はとても悲しそうで、なかったことにすると決めたのに追い縋りそうになった。呼び止めようと中途半端にあげられた手が重力に従って落ちた。泉は、何を言いかけたのだろう。足元を這うなにか恐ろしげなものは蹴り飛ばして見ないふりをした。
が、その日を境に連絡はおろか、テレビ局なんかでもまったく、そう、微塵も泉の姿を見かけなくなった。前まではたまにすれ違ったりしていたのに。これは避けられているなと気付いたのはわりとすぐだった。広いとはいえ、お互い売れている身だ。頻繁に訪れるここでまったく会わないなんてことあるわけない。
自分で招いた事態なのにいっちょまえに傷付いているわたしは本当に嫌な女だ。缶コーヒー片手にロビーで項垂れていると、男物の靴がフレームインした。

「おい〜っす」
「…凛月」
「やめてやめて、セッちゃんだけで暗いのはじゅーぶんだから〜」
「泉、どうかしたの?」
「ん〜、ななしが一番知ってるんじゃない?」
「…………」

凛月に聞かれて心臓がひやりとした。だけど、もしあれが理由なんだとしたら随分とわたしに都合がいいじゃないか。
何も返せないでいると、凛月は隣に座って面倒くさそうに話し始めた。

「最近さ〜、あ、ここからは独り言ね。言ったってバレるとほんとセッちゃんうるさいから」
「泉のお小言ってけっこうキツイんだよね」
「うん。だからこれは俺の独り言。セッちゃんねぇ、最近すっかりご飯食べれなくなっちゃって。胃には入れるんだけど受け付けなくて出しちゃうみたいなんだよねぇ。なんかストレス?とかみたいで」
「え、」

芸能界なんて図太くてなんぼだと思ってるあの泉が?
自分にも他人にも厳しくて自己管理にうるさいあの、泉が?

「入れる回数増やしてどうにかやってるけど、収録とか以外ほとんどぐったりしてる」
「……」
「あーあ、誰か知らないからなあ…」
「し、しらない」
「ほんとに?」

凛月の瞳がまっすぐわたしを見つめたけど、耐えられなくてすぐに逸らした。だって、やっぱりそんなの都合がよすぎる。もし凛月の言うことが事実なら、泉は「なかったこと」にしたことで傷付いている。
わたし、本当に嫌な女だ。好きな人が弱ってるって聞いたのにもしかしてって喜んで泣いてる。
怖いのに確かめたい。わたしのことどう思ってるのか、確かめたい。

「今セッちゃん楽屋で休んでるよ」
「凛月、ありがとう」

心の中を見透かしたようなタイミングで教えてくれた。空き缶をゴミ箱に放り込んで走りだす。部屋の前に着く頃には息があがって、髪はぼさぼさだった。拒否されたらとか、そんなことは頭から抜け落ちて勢いに任せて扉を開いた。

「いず、泉!」
「…なんで来たの、出てって」

泉は背中を向けて横になっていた。あんなに勢いよく扉を開いたくせにわたしはそこから一歩も中に入れない。冷たい声は今までぶつけられたことのないものだった。弱くて苦しそうで、わたしを拒んでいた。
自分の選択が間違っていたのだと気付かされるには十分すぎるほどで、とにかく謝りたかった。あなたをこんなふうにしたかったわけじゃないんだって。

「ごめんなさい、わたし、泉のこと傷付けた?怒ってる?」
「うるさい、出てって」
「…あ、ご、ごめ、」
「誰に言われてきたの?くまくん?」
「あの、泉、わたし」
「早く行って!」

一向にこっちを見ないままで彼は怒鳴った。止まりかけていた涙がまた溢れてくる。や、やだ。なんとか飛び出たのはそんな幼稚な言葉だけだった。
苛立ったようにもう一度「はやく」と言った。

「やだ、いず」
「いい加減にしてよ!早く行けってば!」
「お願い…怒らないで…嫌いにならないで…」
「っもう聞きたくないんだってば!」

ついに泉が起き上がってこっちを見た。いつも綺麗な泉からは想像もつかないような疲れきった顔。ブルートパーズの瞳からはぽろりぽろりと涙が溢れている。涙が!
泉が、泣いている。えっ、えーー、どうしよう。嘘だ?あの、あの泉が?
びっくりしすぎてわたしは涙止まった。しかし泉はヒートアップしていく一方で、次から次へと気持ちをこぼしていく。

「だっ、だいたい、俺は好きだってちゃんと言ったのに、逃げたのはそっちでしょお!」
「えっあっ、ご?ごめ、え?!」
「自分だって好き好き言ってたくせに起きたらいないし?!指輪置いてくし!会いに行っても覚えてないとか言うしぃ?!今更なんなの?ちょーうざぁい!」
「まっ、ま、泉まって、まって」
「そんなに俺と結婚したくないなら最初からほいほいついてこないでよねぇ!」
「えっ?」
「なに?!」
「えっ、え?指輪?結婚?泉、結婚するの?」
「しないよ!」
「だ、だっ、て、」

結婚?指輪?好きって言われた?予想外の展開についていけないでいると、何かを投げられた。

「痛っ」
「アンタはなんにも分かってない!自分が俺を、瀬名泉をどれだけ揺るがす存在かを知りもしないでいる!」
「ねえ…泉…それって、わたしのこと、…好きって、こと?」
「だったらなに?」

ぎろりと強く睨みつけられたけど、溢れてる涙で全然怖くない。むしろ子供みたいでかわいい。
ねえ、普通は逆じゃないかな。例えばわたしがヤリ逃げされて、泉にわたしのことどう思ってるのーって問い詰めるの。そしたら泉が好きだよって言ってくれて…。なのになんでわたしが泣きながら怒られてるんだろう。うーん、まあほとんどわたしのせいだからか。
毎日ポケットにこれ入れてたの?置いてけぼりにされたのに?避けてたくせに?どんだけわたしのこと好きなの?
床に転がっているそれを拾ってようやく一歩足を踏み入れる。泉は動かないでわたしを睨んでいて、それでも逃げないでいてくれた。

「泉、これ」
「……………」
「これ、わたしの?ほんとに、わたしの?」
「…そうだよ」
「ありがとう…すごく嬉しい」

わたしも勇気をもって話さないといけない。こんなにボロボロになるくらいわたしのことを好きでいてくれる彼のためにも、都合の良いことをようやく受け入れ始めたわたしのためにも。
ずっと好きだったこと、記憶も曖昧なまま関係をもったことを軽い女と嫌悪されると思ったこと、泉がいてくれないと苦しいこと。一生懸命言葉にしたけど、泉にうまく伝わっているだろうか。指輪を渡したらもう一度つけてくれるだろうか。

「わたし、ずっと泉が好きだった…だからつらかった。勢いで関係を持って、それを覚えてなかったことも、泉が好きじゃないのにわたしを抱いたんじゃないかって思うことも、付き合う前にやれるような女だと思われることも。だから逃げて、そしたら泉を傷つけた」

ごめんなさい、わたしも泉がすき。口にしたら思い切り抱きしめられた。あ、震えてる。

「お願いだから、今度は逃げないでよねぇ」
「逃げないよ」
「もう一度、あの夜からやり直させてくれる?」
「泉がいいなら、もちろん」
「……ずっと前から、好きだった。俺と結婚を前提に付き合って」
「うん、わたしも、すき。お願いします」

抱きしめる力が弱くなって、今度はキスされた。嬉しくてまた泣けてくる。泉はまだ目尻が赤いままだけど落ち着いたみたいで澄ました顔をしてる。

「ちょっと、いつまでブスな顔してんの」
「うるさい。泉だって泣いてたくせに〜」
「なっ、うっざぁい!忘れろ!今すぐ!」
「やだよ、ご飯食べれなくなるくらいとかわたしのこと好きすぎじゃない?」
「ほんと調子乗るのやめなよ!ななしのくせに生意気!」

やっぱり泉は元気でいてくれないと。そうじゃないとダメだ。わたしはこのあほみたいにモテまくる、天邪鬼を好きになってしまったのだから。
もう少ししたら指輪を嵌めてもらえるようにお願いしよう。



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