じわじわじわ。蝉の鳴き声が縁側で踊る風鈴の音と混じり合う。生温い風が通り抜ける本丸はいつにも増して静かだった。蝉の鳴き声の他に聞こえてくるのは遠くではしゃぎ回る弟たちの声と、馬の嘶きばかり。
一期一振は木々を照らす痛いくらいの日差しに目を細めた。掌で日除けをしないと強く照りつける太陽にうっかり目を焼かれてしまいそうだった。人の体を手に入れて初めての夏。じりじりと肌を焦がすようなその感覚はきっと何度手にしても慣れるものではないだろう。手の甲で額に滲む汗を拭い、動きを止めていた両足を目的の部屋へと向けた。

のっく、というものをして木製の襖を開く。報告書を片手に足を踏み入れたそこで、思わず一期一振の口から溜め息がこぼれ落ちた。細っこい体を畳に投げ出し、うちわで扇いでいる少女。主であるその少女の装いが、男ばかりのこの本丸においてはあまりにもお粗末だったからだ。ノースリーブのシャツにデニムのショートパンツ。おおよそ防御力は皆無と言って差し支えない。現代の夏では当たり前の格好でも、刀剣たちには刺激が強過ぎる。男はみな狼なのですよ、と、近侍として何度も注意しているにも関わらず、彼女の行動に改まるところはないようだ。努めて平静を装って声をかけるとななしはゆっくりと体を起こした。

「主殿。そのかっこうは如何かと申し上げたと思うのですが」
「あら、一期一振。はい、だからこの格好では部屋の外には出てないですよ。ちゃんと上着を着ています」
「そういう問題ではないのですが…ここを訪れる者もおりますでしょう」
「うーん…?」
「とにかく、そのような軽装で出歩くことはお控えください」

ななしは言葉をそのまま受け止めるような人だから、目の毒です、とは言わなかった。一期一振は報告書を手早く渡し、部屋をあとにしてほっと肩をなでおろした。思っているよりずっと、一期一振はななしに振り回されているらしい。吐いた息と共に体から逃げていった力にまた溜息が出た。はあ、本当に、あの人は。音にもならないような小さな声で呟いた。
それから少しして、てっぺんにあった太陽が地面へ帰ろうとしている頃。褒美として与えられた書物を読んでいる手をふと止めたその時。一期一振は遠征に行っていないはずの弟たちの声がぴたりと止んでいることに気が付いた。はて。不思議に思って本丸の中を探して歩くと、それはすぐに見つかった。ななしと短刀たちが仲良く畳の上に転がっている。ななしのすぐ横には薬研の姿もあった。真っ白な二の腕と腿が晒されている。何度目か分からない溜息を吐いてそっとななしに近付く。一期一振の影がななしの顔にかかった。弟たちを起こさないように、小さな声で呼びかける。

「…主殿、主殿」
「ふ、…ん?」
「起きてくだされ。さあ、さあ、こちらへ」
「ふぁい…」

揺すり起こされて寝ぼけたままのななしの手をとって部屋を出る。掴まれていない手で目を擦り、ふらふらと覚束無い足取りで後ろを着いてくる少女をなんと言って叱ろうか。一期一振の考えも知らずにとろんとした顔で見つめている。

「あんなところで寝てはいけません。それにその格好で部屋を出ないでくださいと言いましたでしょう」
「ごめ、なしゃい…」
「主殿…貴女まだ半分くらい寝ていますね」
「ま、せん……」

うつらうつらと舟を漕いで首が散歩してしまっている。一期一振の問いかけにも舌っ足らずに答えているほどだ。痛くなる頭をおさえて、できるだけ根気よく語りかける。そうでないと今にも顔を出してしまいそうだった。

「男はみな、何を考えているか分からないんですよ」
「んー、はい。は、い」
「弟たちもあれで、貴女よりずっと長生きです。知識もあります。私の言っている意味が分かりますか?」
「……」
「主殿、聞いておりますか?主殿?」

今にもまた眠ってしまいそうなななしに痺れを切らせた一期一振は、もういいだろうと思った。自分はよく頑張った。危機感のない主に何度も何度も言い聞かせ、守ってきたつもりだ。だというのに主はこんなにも暢気で、突然すべてが馬鹿らしくなった。揺れる首を支えるように頬に手を添える。ななしはその手に擦り寄るように目を閉じた。ぞわりと這い上がってきたのは紛れもない歓喜だった。
ふやふやと柔らかい頬を親指で撫でてやる。安心しきったその顔がこうさせたのだ。少しはこれで反省してくださいよ、と言い訳のように言って半開きの唇に噛み付いた。下唇を舐めてやると体がびくりと跳ねた。

「んっ、う?!」
「おや、おはようございます」
「いちっ、ふっ、ん、ぁ、」

驚きにぱっちり開いた瞳と目が合う。一瞬だけ唇を離して挨拶をすればさらに肩が跳ねた。反抗しそうな唇をもう一度塞いで、掴んでいた手を離し後頭部へまわす。微かな力で縋るようにシャツを握られた。ああ、だから言わんこっちゃない。貴女、安心しきっていたでしょう。息継ぎもろくにできない少女に一期一振はにこやかに笑う。

「んん、ぁ、はっはあ、」
「目は覚めましたか?」
「は、はい」

潤んだ瞳が一期一振を見上げた。この人は本当に、なんで分かっていないのだろう。唾液でつやめく唇をなぞった。それにすら体を震わせるななしの耳元で囁く。

「だから何度も申し上げましたのに…男はみな狼ですと」

ついに顔を出したのはななしを食べてしまう男の顔だった。


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