離れていくその熱に、体を駆け巡る何かが抑えられなかった。それは、言い訳になるのだろうか。

大学に入ってから始めた喫茶店のバイトは、思いのほか楽しくてもう二年目になる。特に店長の淹れるコーヒーはとても美味しくて、バイト上がりに出してくれるそれを飲むのが楽しみになった。その味は店長の人柄をよく表していると思う。きつすぎず、ぼやけすぎず、まろやかな風味。なんだか安心する味。
ここに来るのは近所の人たちばかりで、みんな店長の淹れるコーヒーが好きだという。みんなあんまり毎日のように来るものだから、もうほとんど顔を覚えてしまった。

その日もいつもと同じように、ゆったりとした時間がそこを占めていた。窓の外は寒い色をしていて、木々が風に揺られている。カラカラとドアの上のほうに取り付けられたベルが来客を知らせた。こんにちはー。ドアから入り込んだ冷たい風と間延びした声がゆっくりと店内に滲んでいく。

「いらっしゃい、ななしちゃん」
「こんにちは、橘さん」

コートに手袋、マフラー、さらにニットの帽子を被ってもこもこになったななしちゃんの目がきょろっと店内を彷徨った。ちょうどお客さんの入れ替わりの時間で、どの席もあいている。お目当ての席が空いているのを確認すると、満足げに頷いた。
入口から少し奥に入った二人がけのテーブルを彼女はよく選ぶ。そこはドアが開いてもあまり空気の動きの多くない席で、自分は寒がりだからちょうどいいと笑って教えてくれた席だ。
ほっぺたを寒さで赤くしながらコートを脱ぐと、暖かそうなニットが顔を見せた。ななしちゃんにとてもよく似合っている。向かいの椅子に荷物を置いたのを見計らってメニューを渡す。
今日のランチメニューはミニグラタンとホットサンドのプレートと、ナポリタンの二種類であることを伝えるときらっと目が輝いた。

「うそ!どっちも今日なの?」
「うん。店長笑ってたよ。すごく悩むだろうなって」
「店長ひどい…分かっててこの組み合わせにしたんだ」

むっとカウンターへ視線を送るが店長は知らんぷりでミルを挽いている。内心はきっと面白くて仕方ないんだろう。わざとらしすぎる。
それでも素直な彼女は唸りながら真剣にメニューを眺めた。彼女は店長のホットサンドとナポリタンが大好きだそうで、ランチにこのどちらかが入っているとたいそう喜ぶ。店長もそれが嬉しいようで、このふたつのメニューはよくランチに取り入れられるのだ。
きょろきょろ、大きな黒い瞳が行ったり来たりを繰り返す。

「な、なぽ、…やっぱりプレート…やっぱり…っ決められないよー!」
「とりあえずコーヒー飲む?」
「はい…今日はカフェモカで」
「カフェモカね。じゃあ決まったら教えて」

堪えきれなくて溢れた笑いに恥ずかしそうに視線を泳がせるななしちゃん。かわいいな。なんだか江ちゃんを思い出す。
店長にオーダーを伝えるとやっぱりか、と笑って言う。それが聞こえたのか、ななしちゃんがこっちをむいて頬を膨らませるのが見えた。
結局、課題をやりながら食べたいということでミニグラタンとホットサンドのプレートを選んだ。提出期限が明後日だというのに、イマイチうまくまとまらないらしい。俺は心理学は専攻じゃないから、アドバイスもしてあげられないしな。頑張ってもらうしかない。

「はい、おまたせ」
「ありがとうございます!ホットサンド…おいしそう!」
「大変だねえ」
「まあ…好きでやってますからね、しょうがないです」

困った顔で笑うのが可愛くて、ついつい頭を撫でてしまった。「がんばってるね」と褒めてあげたくなったのだ。子供扱いしないでください!ってまた怒られちゃうかな?と思ったら、意外なことににこにことした笑顔で「ありがとうございます!」お礼を言われた。

「じゃあ冷めないうちに食べてね」
「はい。いただきます」
「ごゆっくりどうぞ」

ずっと見ていたいけど店長の目もあるし、カウンターの中へ戻る。つい触れてしまった掌がなんだか、あつい。ふつふつと沸き上がる熱に気持ちを持っていかれそうだ。
日に日に大きくなっていく好意が、形を変え始めているのにどうにかブレーキをかけているはず、なのに。ときどき顔を出す変な気持ちに落ち着けない。
そんな思考に意識を絡め取られている内に、あっという間に時間は奪われていった。ななしちゃんのお皿はとっくにからっぽで、コーヒーを入れたポットを片手にお皿を回収に行く。

「コーヒー飲む?」
「あっ、はい。ちょうど眠くなってきちゃったのでお願いします」

あと、ミルクを…。言われるだろうと思って用意しておいたミルクとお砂糖を渡すと「バレてましたか」と笑顔が向けられた。
可愛いな。すごく、いいな、この感じ。
ゆっくりした空気の中で、彼女の熱を思い出しながらテーブルを片付ける。冬の雪のように、密やかに積もっていく何かに体が温かくなる。
そうして俺は少しずつ、少しずつその熱に沈んでいく。



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