からからん、扉の上のほうについたベルが騒ぐ。お客さんがきたわよ!からからん、ぱたん。ファミレスにはないゆったりした空気がここにはあって、鼻をくすぐるコーヒーの匂いに気持ちが高揚するのを感じた。右から左へと、視線をさっと流す。
奥のほうにあの柔らかいブラウンを見つける。カウンターでコーヒーを頼んで「真、」彼に後ろから声をかけ、近寄る。

「もう来てたの、ごめんね」
「いや、いいよ。早く終わったんだ」

わたしは真がどんな仕事ぶりを見せているのか知らない。ただ、女子高生が好きだと公言していると、友達からちらりと聞いたことがある。教師としてまずいと思うんだけど。
真は冷めたコーヒーを口に含み、新聞に目を向けたまま「今日はどうする?」と言った。外食してもいいけど、たまにはのんびりしたい。明日はわたしも真も、久しぶりに揃っての休みだ。わたし作ってもいいよ、そう言ったところで、わたしの分のコーヒーが運ばれてきた。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「これからデート?いいわね」
「はい」

優しい笑顔の女性の、柔らかそうな指先がカップをソーサーごと机に乗せる。垂れ下がった目尻に少しシワがよっていて、この人は幸せな人だなと思う。はい、と返事をした真に満足そうに頷くと、ごゆっくり、彼女はそう言ってカウンターの中に戻っていった。
彼女の左手の薬指で輝いていたリングにほっこりとした気持ちになる。この喫茶店は彼女と旦那さんで営んでいて、真のお気に入りである。「そうだな」真が窓の外を眺めて呟く。

「今日は家で食べよう」
「わかった、じゃあ買い物して帰らないと」
「このあたりのスーパーはやめてくれ、生徒に会う」

そう言ってコーヒーを飲む姿が、やけに"先生"で、少しだけ唇を尖らせる。

「あら、いいじゃない。それともわたしといる所を見られるのはそんなに嫌?」
「そうじゃなくて、だな」

なんて紹介しろって、いうんだ。急に先生から彼氏の顔に戻るからこっちが驚いてしまう。学生でもなし、柄にもなく照れているのが伝わってきて、不躾にもにやにや口角があがるのが押さえられない。お前はそうやって…とぶつぶつ言うけれど、ちっとも怖くない。

「彼女、じゃだめなの?」
「そうだな、…せめて、奥さん、くらいじゃ、ないと」

えっ、ドキリとして、ソーサーにコーヒーを溢してしまった。真は「こんなはずじゃ」とか「タイミングが」だとかまたぶつぶつ言いながら溜め息をついた。

「大人になると踏み出せないものなんだ」
「恋人に対しても?」
「それはな」
「そんなこと考えてたなんて知らなかった」
「…それは、なぁ」

そうだろうなぁ、彼は両手のひらで小さな箱を持て余したように転がす。「あー…」ごほん。

「ななし、結婚しよう」
「感動もなにも、ないねぇ」
「感動くらいはしろよ」
「ふふ、そうだね」

それはいつもの会話とあまり変わらないもので、当たり前のように受け入れられた。カウンターの向こうで「よかったね」と店長さんと奥さんが寄り添って微笑んでいるのが視界に入った。



幸せを運ぶそれは、わたしにとってはただのオマケでしかないのだけど。

「じゃあ、行こうか?奥さん」
「夕飯の支度しなくちゃね、旦那さん」

真は伝票を持って立ち上がった。

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