遠くから聞こえるのはどんどんとお腹の底へ響いてくるような、重みのある太鼓の音。カラコロ、前を歩いていく人々の足元は涼しげに笑っている。自分の足元に視線を落とせば、彼らと同じように下駄が覗いていた。昨日塗ったばかりの、ペディキュアは彼がいいねと買ってくれたものだ。気付いてくれるだろうか?期待しつつも、まあさすがにいくら梓でも爪先までは気付けないだろうと諦めてもいた。 手にもった携帯電話がふるりと身を捩る。フリップを開いてみると、梓からの着信だった。『もしもし、ななし?』梓の高い声が直接耳に届く。
「梓、どこ?」 『今階段登ってるとこ。ななしはもういる?』 「うん…あ」 『あ、いたね』
階段を登ってきた梓の視線が合う。彼は携帯をポケットにしまって手を振った。わたしも手を振り返して梓のほうに足を向ける。
「お待たせ」 「ううん、お疲れさま」 「月子先輩たちも今日来てるみたいだよ」 「そうなんだ」
部活のほうはよかったの?聞くと、梓はにっこり笑って「いいんだよ」頭を撫でた。それだけでどきどきして、胸がぎゅっと痛くなる。顔が熱くて仕方ない。きっと気付かれているだろう。「行こうか」梓はわたしの手をとってそう言う。 いつもそうだ、梓は余裕で、ずるい。確かにわたしは梓に可愛いと言ってほしくて浴衣を頑張って着てきたけど、さらりと「浴衣似合うね」だとか、「このあいだ買ったペディキュア?」だとか言われてどきどきしてるのはわたしばかり。 屋台を眺めながら花火の穴場だというところへ向かう。その間もちらちらと彼を見る女の子は多いのだ。
「なにか食べる?」 「んー…あ、かき氷食べたいな」 「いいね、あ、あそこか」 「梓はなににする?」 「僕はレモンかな」 「じゃあ…わたし、は、えっ」
かき氷の屋台に向かう途中、気がゆるんでいたせいかすれ違う人とぶつかり、バランスを崩す。ぐらっ、傾いた体は梓のほうへ倒れ込む。「危ないなぁ…」あきれたように笑うけど、しっかり抱き締めてくれるのがすごく嬉しい。 かき氷を買って、屋台から離れた階段を登っていく。から、ころ。雑踏が遠ざかっていく。賑やかな世界が、まるで切り離されているかのようだ。どこかでりーんりーんと鈴虫が鳴いている。 階段を登りきると、拓けた場所に出た。見下ろせばすぐ下にさっきまでいた屋台の群れ。
「ここならよく見えるでしょ」 「よく知ってたね、こんなとこ」 「前にたまたま見付けたんだ」 「そっか」
ベンチにふたりで座ってかき氷を掬う。梓との無言は嫌いじゃない。けっこう居心地がいいのだ。かき氷をわけあって食べて、たまに会話が途切れて、また手を繋いだ。「…ななし、」呼ばれて顔をあげると、思ったより近くに梓の顔があって心臓が喚いた。もたないよ、と。 あ、くる。ふとそう感じて、目を閉じた。やわらかい、梓の唇が触れた。ちゅ、と小さく小さく音を立てて離れていく。目を開けば、鼻と鼻がくっつきそうな距離のまま、彼がわたしを見ている。あの、アメジストの瞳が。くらくらと目眩のようなものを感じるほど、体が梓に意識をもっていかれている。
「あず、さ」 「ななし…」
どーん。一瞬だけ明るくなったまわりに、はっとする。花火が始まったのだ。「きれい…」ぽつりと口からこぼれた言葉。梓もそうだね、と花火に視線を移した。
誰にも邪魔されない世界で、ただただその幸せを噛み締める。ぎゅっと握られた手を握り返して。
(夏の3部作その2)
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