どうにも様子のおかしい夏目くんが、イライラしながら薬品をいじっている。慣れているおかげか正確に作業を進めているものの、いつもの丁寧さが欠けていて少し心配だ。
試験管からビーカーへと黄緑色の液体が流れ込んで、赤く変色しぱちぱちと泡を内包した。電灯に翳しながらビーカーを揺らすと星屑のようにきらめいて、夏目くんの顔に光彩が散った。遠心力でくるくると液体が揺れるのに合わせてちらちら舞う光はプリズムが砕けて散りばめられたようで美しい。
無表情でそれを眺めている辺り失敗ではないのだろうけど、喜びも見えない。
う〜ん、荒れてますねえ…。これはななしちゃんと何かあったんでしょうか?

「センパイ。ししょ〜どうしたんです?」

どうしたものかと眺めていると、宙くんがちらりと夏目くんを見ながら首を傾げた。

「たぶんななしちゃんだと思うんですけど…」

夏目くんがあんなに感情を露にするなら、原因はひとつと言っていい。宙くんも納得したように頷いた。

「ししょ〜はななしおねえさんのことになるといつも色が忙しないな〜」
「ななしちゃんのことが大好きですからね」
「宙もおねえさんのことは大好きな〜!もちろんししょ〜もせんぱいもです!」
「ふふ、ありがとうございます。でもちょっと違うんですよ。夏目くんにとってななしちゃんはたったひとつの宝石よりも大事なものなんです」
「違うんですか?うーん、宙にはまだ難しいです…」

宙くんはうんうん唸って考えている。そんな宙くんにも気づかないなんて、本当に夏目くんはどうしちゃったんでしょう。
結局しびれを切らした宙くんが、夏目くんがビーカーをテーブルに置くと同時に突撃した。構える暇もないスピードで抱きつかれた夏目くんは目を白黒させている。

「わっ、ソラ?!どうしたノ、急に抱きついたりしたら危ないヨ」
「えらいのでちゃんと実験が終わるまで待ちました!」
「ソラは本当にいいこだネ…☆よしよシ、褒めてあげよウ」

宙くんは撫でられて嬉しそうに目を細めている。夏目くんも毒気が抜かれたのか、さっきより幾分穏やかな表情をしているからホッとした。
やっぱり、夏目くんたちにはいつも笑っていてほしいですから。
それでも宙くんの目は誤魔化せないらしい。むっとした宙くんはもっと強く抱きついた。

「ししょ〜!ずーっともやもやした色をしてます!」
「ウ、そんなことないヨ」
「あります!宙の目は誤魔化せないです!」
「そうですよ、夏目くん。今日はちょっと、変です。俺たちでよかったら話くらい聞けますから」
「観念するほうがいいな〜」
「観念っテ」

俺たちが引く気がないとわかると、大きなため息をついて髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた夏目くん。急に真剣な顔になって、宙くんが息をのんだ。

「実ハ………」

ごくり、自分の嚥下する音が響いて感じるほど静かな部屋のなか、俺たちは夏目くんが口を開くのをただ待った。
もしかして思ってるよりずっと、深刻な状況なんでしょうか。
あまりの真剣さに、宙くんはぎゅっと両手を握りしめて夏目くんを見つめている。
かちかちと時計の針の音だけが聞こえるようになってようやく、夏目くんが言った。

「ジュンくんがななしちゃんのこと狙ってるんだヨ…!」

本人は真面目なのだろう。それでも、口から飛び出してきた言葉がいつもと変わらなくて気が抜けた。
やれななしちゃんがクラスの子と距離が近いだの、身の程知らずだの言っているから。
夏目くんのジャッジの厳しさから言うと、果たしてどの程度「ななしちゃんをそういう風に思っている」のかは怪しい。もちろんななしちゃんが素敵な子であることは間違いないですけど。近づくものすべからく敵みたいなとこありますからね、夏目くん。

「それっていつもと同じな〜?」
「そんなこト…………ないヨ?」
「………?」
「…ええと…ジュンくん、って、漣くんですか?」
「他にななしちゃんを狙ってるジュンくんがいるなら今すぐつれてきてヨ、ただじゃおかないかラ」
「ジュンちゃん先輩、ななしおねえさんが好きなんです?」

こんなことを言うと怒られるから口には出せないけれど、夏目くんはななしちゃんのことになると本当になんというか…?
あんなに溜めるから修復不可能なほどこじれたりとかを想像してしまいました。
手慰みに持ったお茶の入ったペットボトルが夏目くんの手の中でぱきぱき悲鳴をあげている。

「これは一大事なんだヨ、ななしちゃんに悪い虫が寄ってきてル」
「ななしちゃん、Edenのファンなんですか?」
「違うヨ!もしそうだったら許さないヨ」
「じゃあどうして…?」

漣くんとななしちゃんの線が繋がらず、いまいち実感が湧かない。ななしちゃんはアイドルに特別興味があるわけではないし、むしろ俺たちと一定以上の親しさにならないように気を遣っていると思ってたんですけど…?
アイドルと知らずに知り合ったとかでしょうか?
もしアイドルと知っていたら、ななしちゃんは逃げ出しかねないですし…。
苦い顔の夏目くんが、これ以上ないほど言いたくなさそうに呻いた。

「……ななしちゃんと小学校が一緒だったんだっテ」
「ああ!なるほど。昔のクラスメイトだったんですね」

元から知り合いだったパターンだったんですね。
ん?
昔の、クラスメイト。
自分で言ってその言葉がひっかかった。夏目くんが宙くんに励まされている横で、首をかしげる。
ななしちゃんの昔の、それも小学校のときの…?
ななしちゃんと昔話はしたことはあれど、ななしちゃんだけの過去の話なんてそんなに聞いたことがあるわけじゃないはず。なのにどうしてこんなにも気になるのか。
だって、ななしちゃんがバレンタインから遠ざかったときのはなしくらいし、か………。

「あ」
「ナニ?」
「えっ、え?いえ、なんでもないです」

怪訝そうな夏目くんを誤魔化して笑う。
バレンタインのときの話を思い返してしっくりきた。ななしちゃんを好きだったであろうあの男の子。
ななしちゃん、そういえばあの男の子のこと「ジュンくん」って言っていたような。
つまり、そういうことなのだろう。
これ、黙ってたほうがいいやつですよね…。
ジュンくんはななしちゃんにチョコをもらったことがあるのに、夏目くんはもらえてないわけですし。
転校して連絡がつかなくなったっていっていたけれど、いつのまに?
もしかして、あれからずっとななしちゃんのことを思っていたんだろうか。
夏目くんといい漣くんといい、初恋を拗らせていることだけは分かった。
ななしちゃんってそういう人に好かれやすいのだろうか。

「うーん、ななしちゃん、モテモテですねえ」
「そういうのはいいんだヨ!ななしちゃんはボクと結婚するの!」
「ななしおねえさんってししょ〜のこと好きなんですか?」
「ぐっ、」

鋭い切り込みに言葉を失った夏目くんは、行き場のない怒りを俺にぶつけた。物理で。

「いたっ?!宙くんにひどいことできないからって俺のこと殴るのはやめてください…!」
「す、好きだヨ、ななしちゃんはボクのこと好きなんだヨ!意味はさておき好きだかラ!」
「さておくんですか?」
「宙くん、この話題は触れないようにしたほうがいいですよ」
「とにかくジュンくんには諦めてもらうしかなイ……!」

今までみたいにはいかないと思いますけど、まあななしちゃん次第ですよね。
とりあえず俺のこと叩くのやめてください……いたっ!


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