箒から降り立つと扉の前で笑顔を作る。いつも通りにしようと、努めて明るい声を出して中に入った。

「ただいま!」
「…おかえり」
「これ、ヒースたちから。ぎりぎり濡れてないよ。あとで食べる?朝食にする?」
「中身なに?」
「スコーンとか色々あるよ」
「朝食かな」
「じゃあ置いてくる」

少し降られてしまったが、バスケットは無事でほっと胸を撫で下ろす。せっかくおいしいものを用意してもらったのに、ネロに食べられる前に濡れてしまったら忍びない。
窓から外を見るともう本降りになっていて、ぎりぎり間に合ったようだった。もう少しでも遅かったらあのおいしいスコーンが濡れてしまっていたかもしれない。

「そういえば、ファウストは?」
「帰ったよ」
「そっか、残念」

ネロはひとりで机を片付けていて、どうやらファウストとは入れ違いになってしまったらしかった。一言くらい挨拶できるかと思ったけれど、このあとの天気を考えれば当然か。
棚にバスケットを置いて戻ると、落ち着かない様子で布巾を握ったり畳んだり、片付けが進まないようだった。
よく見てみると、そもそも布巾を手にしているだけで何ひとつ片付いていない。カップもお皿もそのままだ。

「どうしたの?」

問いかけずにはいられなかった。これ以上なく後悔することになるとも知らずに、近寄って覗き込んだ。伏せられた目に戸惑いが感じられた。
そっと、手を握られる。握るというよりも、寄り添っている程度の弱々しい拘束だ。ネロの手は、外から戻ったばかりのわたしでも驚くほどに冷えていた。

「ネロ?手、冷たいよ。温めたほうが」
「あのさ、ファウストに聞いた」

賢者さんのことは、もういいから。
言葉を遮って、わたしを見もせずにそう言った。それに反応もできずただネロを見ていると、彼は小さく謝った。

「ごめん」

ネロが何を伝えたかったかなんて考えもせず、反射的に振り払い、部屋を飛び出した。もつれる足で箒に跨がって逃げ出した。
名前を、呼ばれたような気もする。引き留められたような気もする。でも止まれなかった。戻れなかった。
ぶつかる雨粒が痛いほどのすごいスピードで加速して、気付いた時にはヒースの部屋のバルコニーに降り立ち、窓を叩いていた。
この嵐の中、どうやってブランシェットまで飛んだのか思い出せなかった。
ネロのごめんと言う声だけがずっと頭の中でループして、心臓が痛い。全速力で走ったみたいにひどく呼吸が乱れた。

「ななし?!」
「ごめん……しばらく、ここにいさせて」
「いい、けど…」

ヒースに受け入れられて気が抜けたのか。震える足を支えられずバルコニーにへたりこんで動けないわたしの手をとると、自分が濡れるのも気にせずに部屋に招き入れてくれた。
強い雨風が吹き込んだせいで、カーテンは濡れ、テーブルに乗っていただろう用紙が床に散らばっていた。
ヒースが理由を聞きたそうにしていることは分かったけど、どうしても言う気になれず、ごめんと繰り返す。
ぽたりと前髪から滴が落ちて絨毯に吸い込まれていくのを、他人事のように眺めた。
濡らしたら、だめなのに。


ネロから逃げ出したわたしに他に行く宛などなく、ブランシェットへとんぼ返りするしかなかったとはいえ、申し訳ない。気持ちよく晴れていた昼とは違い、雨の吹き荒れる城がまるでわたしの気持ちのようだ。
ただ早く飛ぶことだけに魔力を注ぎ込み魔法で雨避けをする心の余裕もなくびしゃびしゃのわたしを、驚きながらも受け入れてくれたヒースは、何も言わず部屋と温かい飲み物を用意してくれた。

「何かあったら呼んでくれていいから。じゃあ、その……ゆっくり休んで」
「うん」
「ななし。ネロには、連絡しないほうがいいんだよね?」
「……ごめん」

頷いて部屋を出ていった彼にも、きっと事情はなんとなく伝わっているのだろう。
ていうか、帰ったと思ったらずぶ濡れで戻ってくるなんて、ネロと何かあった以外に考えられないか。あの家にはわたしとネロしかいないのだから。

ネロが本気で追いかけてきたら、きっとわたしはすぐに捕まっていた。そうじゃないってことは、きっと追いかけなかったんだろう。
きちんと話すことが怖いくせに、自分から逃げ出したくせに、追いかけてほしかった。恥ずかしくて、惨めで、心臓がぎゅうっと嫌な音を立てる。
冷えきった指先を暖めるようにマグカップを抱えると、じりじりと指先に熱が移っていく。
ネロの手も、冷たかったな。

「死にそうな顔してるな」
「シノ、」

俯いたままマグカップをいじっていると、ノックもなしに扉が開いた。魔法舎ならともかく、教育の行き届いたブランシェットでそんな無遠慮なことをするのはシノくらいしかいない。
それに、なんとなく来る気がしていた。
やたらとネロに気持ちを伝えさせようとするシノが、わたしが戻ってきて気にしないとは考えにくい。

「ごめんって言われた」
「告白でもしたのか?」
「してませんけど?」
「なんだ、意気地がないな」
「うるさいな。そういう暇も、なかったんだよ」
「ふうん?」

なんの遠慮もなく部屋に入ってくると、ソファにどかりと座った。膝に肘をついて続きを促すシノは、わざと生意気な態度でわたしに接した。おかげで少し、いつものペースを取り戻せた気がする。

「で?」
「で、って?」
「だから、ネロと何かあったんだろ」
「あったと、いうか。逃げてきただけっていうか」
「やっぱり意気地がないじゃないか」

シノはわたしの途切れ途切れの話を急かしもせず聞いて、最後には呆れたように首を傾げた。

「ななしはどうしてそんなに運命にこだわるんだ?」
「……こわい、から」
「怖い?」

いろんな運命がある。殺し合うもの、引き寄せ合うもの、愛し合うもの。他にも数えきれないほどの運命がある。
とりわけ愛し合うものの運命の線は強くて太いことが多い。もちろん、愛じゃなくてもシノとヒースのように強い絆で結ばれている運命もある。
ネロと賢者様の線もはっきりしていた。だから絶対にそうだと、考えることを放棄していた。
だって、違うかもしれないと期待するのは、怖いことだ。
愛し合っているけれど、そういう運命とは違うかもしれない。わたしにも希望はあるかもしれない。そんな風に期待するのは、恐ろしかった。可能性がないと分かったときの落胆は、期待した分だけ大きくなるから。
だから他の道は考えないようにした。

「確かに賢者とネロは愛し合ってたのかもしれないけどな、じゃあ、お前とネロは?」
「わたしたち、には、なにもないよ」
「本当にそうか?」

真剣な目で問いかけられると、怯んでしまって唇が戦慄いた。
本当に。本当に?
シノの問いかけを繰り返す。わたしたちの間には、何もなかったんだろうか。
臆病なわたしがその通りだと言う。
期待をすれば傷つくだけだ。傷つくのは怖い。痛いのはいやだ。
近くにいるようでいてそうではない、わたしとネロの間にはなにもない。何も生まれないし変わらない。わたしとネロを繋ぐ運命は、ちらりとも見えないのだ。
でもどこかで、ほんの小さなわたしが……、よく前を見ろと言う。後ろを振り返れと言う。
わたしたちが辿ってきたこれまでは、本当に何もなかったのか問いかけてくる。

「……ある」
「当たり前だ」
「なにも、なくない…」

ぽろりと涙が落ちた。ふたりの運命に気付いてから一度も流れなかった涙が、ゆっくりと落ちていく。
わたしはネロの運命ではないけれど、いつだって側にいた。きっとこれからもずっと。
それはわたしだけの気持ちでない。ネロはどうでもいいと思っている相手をずっと近くにいさせるほど無関心じゃない。
それが例え愛じゃなかったとしても、彼の柔らかいところにいたことは事実だ。遠くにいるような気になって足踏みしていたのはわたしのほうだ。

「わたし、大事にされてる…いらなくなんかない」
「ネロはそんな薄情なやつじゃないだろう。ずっと一緒にいるのに、どうでもいいなんて思ってるわけないぞ」

まるでヒースを自慢する時みたいに、なぜかシノが誇らしげに言う。
ネロが言っていたのを思い出す。シノはわたしと兄弟みたいだって。でもこれじゃあどっちが上だか分からない。

「まあ、でもネロも悪い」
「なあに、急に」
「ちょっとななしに甘えすぎだ。しばらく心配かけてやれ」
「ええ、いいのかなあ」
「いいだろ、たまには」

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