ファウストはイライラした様子を隠そうともせず、舌打ちをひとつ落とした。

「言いたいことがあるならはっきり言え」
「ああ、悪い。別に言いたいことがあるってわけじゃないんだが」
「そんなわけないだろう。明らかに気落ちしている」
「……あー、いや。ほんと、なんかあったとかじゃないんだけどさあ」
「ならはっきり言えばいいだろう」
「う、まあ、そうなんだけど……」

口ごもるも、それで誤魔化される気はないらしく、追求するように睨まれた。
諦めて口を開くと、思ったよりもすんなり言葉が続いた。もしかしたら自分で思ってるよりもずっと、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
バカみたいな訳の分からないこのもやつきを、鼻で笑ってほしかったのかもしれない。
気にしすぎだと、ななしはいつもと何も変わらないと、言ってほしかった。

「なんか、ななしの様子が最近変なんだ」
「そうか」
「話しかけてもなんだかよそよそしいし、上の空なことが増えたし…空元気っていうか」
「そうか」
「やっぱり賢者さんが帰って寂しいんだろうな」
「…………そうか」
「おいおい先生、聞いておいてさっきからそうかしか言わないじゃないか。結構真面目に話してるんだけど」
「聞いてる。他には?」
「他って」

ファウストは、俺の話を聞いているんだかいないんだか、コーヒーに口をつけて「そうか」と繰り返した。言わされたような形になったというのに、ファウストはたいして興味があるようなそぶりをせず、今度はクッキーを口に運んだ。
続きを促され、取り留めもなく言いたいことを溢していく。

なんでこんなことに。
初めはぽつぽつと近況を話しながら、ファウストが来るからとななしが張り切って作っていったクッキーを楽しんでいた。真ん中に俺の作ったルージュベリーのジャムが乗っていて色も鮮やかな丸いクッキー。
ファウスト用にいくつか猫だの魚だのの形に型抜きがしてあって、食べづらそうに、名残惜しそうに、それでも目元を緩めて手にしていた。
それがいつの間にかうじうじする俺に気付いたファウストが「言いたいことがあるならはっきり言え」とつついたのだ。
さくりとした軽い食感とは反対に、気持ちは重くなる。

店を片付けて数日。ななしの様子が明らかにおかしくなった。知り合ってから長いこと一緒にいたからか、そのうちふらっとどこかへ行ってしまいそうなその空気はなかなかに堪える。
もちろんななしがそんな不義理な女だとは思っちゃいないが……、思い詰めたような様子がなんだかそんな不安を駆り立てた。
賢者さんがいなくなったことはよほどななしにダメージを与えたらしい。
俺が側にいても、悲しみをぬぐえないほどに。

「賢者さんのことなんか聞かなきゃよかったかな」
「は?君、まさかそんなことを聞いたのか?ななしに?無神経なやつだな」
「…悪かったと思ってるよ。そこまで仲がよかったなんて知らなかったんだって」
「ネロ、もしかして君は僕が思っているより馬鹿だったのか…?」
「仕方ないだろ、知らなかったんだから」

愚痴るようにこぼすとまるで憐れな生き物を見るみたいな目をしたファウストはカップを置いて、言うか言わないか迷ったようだった。
口を開いては閉じ、開いては閉じ…ようやく決心すると居ずまいを正した。

「これを言うのは…ななしを傷付けるかもしれない。最悪ななしが、いなくなってしまうかもしれない」
「ななしが?」
「ななしは君に知られたくないと、思っているだろう。それでも聞くか?」
「それを聞けば、どうしてななしがあんなにも…なにかに怯えているようなのか、分かるのか?」
「分かる、君がよほど鈍感でなければ。そうじゃないことを祈りたいものだ。…ただ、ななしは……きっと嫌がるだろうな」
「はっきり言ってくれ、先生」

ななしが嫌がろうが、関係なかった。いつもの俺ならば避けたことだろう。
嫌がられてまで他人の気持ちを掘り起こすなんて真似はお互い傷つくし、面倒なだけでなんの得もない。当たり障りのないところで見ない振りをするのが一番円滑だ。
でも、ななしについてならば別だった。
必要ならば傷つけてもいいし、傷つけられてもいい。億劫でも、恐ろしくても、踏み込んでも踏み込まれてもいい。結果、ひどく傷つけてしまったと心苦しくなってもいい。
もちろん進んで傷つけないなんて思うわけではないが、ななしのための努力ならそうしていいと決めていた。
ファウストはもう一度カップに口をつけて一呼吸すると、まっすぐ目を見て言った。

「賢者と仲がよかったのは、ななしじゃない。君の方だ」
「…は、」
「君が、賢者と誰より親密だった」

飛び出した言葉は想像もしないものだった。
いや、濁していたが、確かに塔から降りたときななしもそんなようなことを口にしていた。
俺が記憶になかったから、ななしはそれ以上続けられなかっただけだ。
ななしではなく、俺と、賢者さんが。
つまり、そういうことだ。俺は賢者さんを好ましく思っていて、ななしもそれを知っていてーー。

「あの子は君が傷つくと思って訂正もできず、何も口にできなかったんだ」
「いや、いくら好きだったとしても一人いなくなったくらいで……俺が何年生きてると思ってるんだよ、あいつは?赤ちゃんか?」
「君たちには運命があると、どこぞの占いの魔女が言っていたよ」

息を飲むしかなかった。
運命。運命?
俺と、顔どころか何ひとつ記憶にない賢者さんが?
誰だかも分からないやつと笑って話す俺を想像して、凍えていくような感覚さえした。
きっと俺は、ななしのことなんか何も気にかけていなかっただろう。
想像に難くない。人間を、それもいついなくなるかも分からない違う世界の人間を愛して、臆病な俺が手を伸ばすわけがない。
それでも手放すことができず、曖昧に近付いていただろう。

このままでいいのか。本当にいいのか。
ななしは何度も苦言を呈したに違いない。
踏み込むこともできない自分の愚かな恋にいっぱいいっぱいで周りも見えず、苦しめた、馬鹿みたいな俺に。

「ネロ…こんなことを聞くのは憚られるが、君はななしのことをどう思ってるんだ?」
「どうって、そりゃ、……いいやつだよ」
「それだけか?」
「先生は、何を言わせたいのかね」
「ななしはいつまでもいなくならないと思っていないか?」

ななしが不意に消えてしまいそうな不安を言い当てられたようでばつが悪い。
視線をそらして手汗を拭った。

「まあ、そのうち寿命は来るだろうけどさ、賢者さんみたいに違う世界から来てるわけでもないだろ」
「…ななしに、好きな男ができると、思わないのか?」
「は?」
「ネロ。ななしは犬や猫じゃない。僕たちの都合で縛り付けたり愛したり、気まぐれに触れてはいけない。ななしの心を差し出される温かさを、当然だと慣れてはいけない」

言われてドキッとした。ななしがいることは、当然のことだと思っていたからだ。
だから、賢者さんが居た頃も同じだっただろう。側にいることを享受し、蔑ろとまで言わずとも、丁寧な扱いはしていなかったはずだ。
俺がいれば、その隣には当たり前のようにななしがいるものだと、どこかに行ってしまうかもしれないと怯えながらも、そんなはずはないと、高を括っていたんじゃないか?
返ってこない献身に疲れて離れたことがあるくせに、今度は自分が同じことをななしにしていた。

ゾッとするほど身勝手な自分の姿が簡単に想像できた。
その厚顔無恥な男の横で、気取らせまいと健気に笑っていただろうななしの姿も。

「君たちは一度、きちんと話し合うべきだ」

それだけ残すと、「一嵐来そうだから、そろそろ帰る」と返事も待たずに出ていった。
ゆっくり閉められた扉を見て、力が抜けた。
片付けもせずテーブルに額をぶつけると、情けなさが際立った。

「だっせーな」

転がり出た声の、なんと弱々しいことか。ようやく動けるようになった頃にはぽつぽつと窓に雨粒があたっていた。
ななし、濡れなきゃいいけど。考えて、何様だと殴ってやりたくなった。今さら、どの立場で心配してるんだ。

「片付けるか……」




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