「じゃあ、行ってくるね」
「おう。ちゃんと帰ってこいよ」
「なにそれ?子供じゃないんだから」
「まあそうか」
「ファウストによろしく伝えておいて」
「はいよ」
「行ってきます」

シノとヒースからブランシェットに遊びに来ないかと誘われたわたしは、ファウストと約束があるというネロと別れて箒に乗った。
みんな、家に戻ったばかりだというのに気が早いものだ。魔法舎ではずっと一緒にいたのだし、気持ちは分からないでもないけど。
ファウストとも話がしたかったけれど、可愛いふたりからの誘いを断るわけにもいかない。
代わりに、ネロの作ったルージュベリーのジャムを使って猫や魚や、可愛い形のクッキーをたくさん焼いておいた。
ファウストならきっと喜んでくれるはずだ。


箒に乗っている間、どうしてもいろんなことがちらついた。なんだか物言いたげなネロを思い返しては、やっぱり引き返そうかとか、何かあったのかとか、無駄に思い悩んでしまう。
ひとりになるとこれだからいけない。
それよりも、今はヒースやシノと楽しむことを考えよう。わたしは一度、ネロから意識を切り離すべきなのだ。
こんな風に彼のことだけで自分を決めてはいけない。そうは分かっていても、なかなかできるものではないのが現実だけど。
何度もこのあとのお茶会へ思考を切り替えて誤魔化した。繰り返すうちに、以前訪れた時と変わらない、ブランシェットの美しい城が見えてきた。
城の中庭の上に来ると、ふたりが待っていた。

「ごめん、待たせた?」
「大丈夫、そんなに待ってないよ。タイミングがよかったみたい」
「ならよかった。あ、これ、おみやげ」
「なんだ?」
「こらっ!シノ!」

バスケットを渡すと、すぐさま蓋を開けるのがシノらしい。ヒースに怒られて渋々蓋を閉じる姿がなんだかおかしくて笑ってしまった。

「いいよ、ヒース。みんなで食べようと思ってクッキー持ってきたの」
「ネロが焼いたのか?」
「残念ながらわたしが焼かせていただきましたとも」
「ななしが?」
「ジャムはネロが作ったやつだけど。けっこうおいしくできたと思うよ」
「ありがとう。お茶の時に出してもらうようにするよ」
「厨房に置いてくる」
「ありがとう、シノ。じゃあ僕たちは少し散歩でもする?」
「そうしてもいい?一度ゆっくり見てみたかったの」

バスケットを抱えて城の中へ戻っていくシノと別れ、ヒースとふたりでのんびりと散策に出た。
わたしが足を止める度にヒースは丁寧に説明してくれて、彼がこの城を愛していることがよく伝わってきた。
わたしの足に合わせてゆっくりと歩いてくれるこの優しい子を育んできた、優しい場所なのだと、空気が言っている。

「本当に、素敵な場所」
「そう言ってもらえると嬉しいな」

ここにネロがいたらいいのにと、そう思ってしまうわたしは、なんてどうしようもない。

「ネロや先生も来られたらよかったのにね」

誰に聞かせるでもなく、ぽつりと落ちたその言葉に返事をできないまま、シノの帰りを待つしかわたしにはできなかった。


ブランシェットの中庭でお茶を飲みながら、花の香りをゆっくり堪能することのなんと贅沢なことか。
ヒースが用意させてくれたお茶もセイボリーもスイーツも、さすがの一品だ。普段ネロの作るものとは雰囲気の違う、繊細で上品な高級感。食材ひとつとっても、簡単に手が出せるものではないのだろう。

「おいしい…」
「本当?よかった。ななしのクッキーもすごくおいしいよ」
「ありがとう。たくさん持ってきたから、よかったらもっと食べて」
「ななしがクッキー作れるなんて知らなかった。奥様の作るレモンパイもうまいんだぞ」
「シノの好物なんだっけ」
「ああ。ネロの料理もうまい」
「本人に言ってあげてよ」
「いつも言ってる」

シノとヒースはクッキーを次々と手にとってくれて、気に入ってくれたのだと伝わってきた。つい口元が緩んでしまう。
3人でのんびり話す空間は、ここ最近の肩の力を溶かしてくれるようで、いかに自分が沈んでいたのかを思い知らされた。
気を抜くと飛び出しそうなため息をぐっと飲み込んで、きゅうりのサンドイッチを手にとる。

「ご歓談中に大変申し訳ありません。奥様がヒースクリフ様にご用があるとのことです」
「分かった。ななし、ごめんね。ちょっと行ってくる」
「気にしないで、シノと話してるし」
「ななしの相手は俺に任せていいぞ」
「らしいから」
「なるべく早く戻るね」

メイドの少し慌てた様子から見るに、何かトラブルでもあったのだろうか。
ヒースは足早に城の方へと消えていった。後ろ姿を見送ってから、手にしていたサンドイッチを口に運ぶ。

「ヒース、大変そうだね」
「まあな。でも奥さまに呼ばれただけならすぐ戻ってくると思う」
「もしかしてタイミング悪いときにきちゃったかな」
「ほんとうにヤバいならもっと慌ててるはずだから大丈夫だろ」
「そっか、ならいいんだけど」

ヒースもいつかはブランシェットを継ぐのだから、何かと勉強することが多いのだろう。
普段は賢者の魔法使いとして生きているとはいえ、いずれ治めるべき彼の領地となるのだから、帰ってきた時は忙しいに違いない。
もしかして本当ならこんな風にお茶してる場合じゃないのでは?
大変そうだなあと考えているとシノがしれっと爆弾を投げつけてきた。

「お前、ちゃんとネロに言ったのか?」
「まだ戻ってからそんな立ってないんですけど」
「そんなこと言ってていいのか。次の賢者も女だったらどうするんだ?またネロをとられるかもしれないぞ」
「……やなこという子ね」

シノはなんてことのない世間話のように口にするが、わたしには耳の痛いことだ。
本人はそんなことはないというけれど、相当に面倒見のいい男だ。不安そうにしている新しい賢者様を見れば、心を砕かずにはいられないだろう。他にもフィガロや双子や中央の魔法使いたちが気にかけるだろうけど……いや、フィガロはなんか、違うな。こう、打算的っていうか、さあ。はまったらダメなタイプだ。
あの男に人を愛せるのかは甚だ疑問だけど。

「まあ、急に違う世界に来てネロみたいなのに優しくされたら、コロッと落ちちゃうかも」
「言ってる場合か?」
「…運命だったのは、前の賢者様だから」
「そればっかりだな」
「わたしには見えますからね」
「愛だけが運命か?」
「え?」
「運命は愛だけなのか?ヒースのことは愛してるし、俺とヒースはそんなものなくても運命だ」
「まあ、運命にもいろんな種類があるけど…」

自信満々に言う少年は、わたしが生きてきた時間のどれだけも生きていないのに、なぜこんなにも信じることができるのか。
確かに、いろんな運命がある。殺し合うもの、引き寄せ合うもの、愛し合うもの。他にも数えきれないほど。
その中でも、やっぱり愛し合うものの運命の線は強く太い。ネロと賢者様の線もはっきりしていた。

「逆に、あんなに強い運命で結ばれてて、他になんだっていうのよ」
「俺に分かるか」
「…そうでしょうけど」

フンと鼻を鳴らして言う小憎たらしいシノの口にクッキーを押し込んで黙らせる。

「へふに、いいはろ」
「飲んでから喋って」
「………別に、いいだろ。運命の愛だったとしても。そもそも、もういないやつをいつまで気にかけるんだ?1年?10年?100年?この先長い魔法使いの寿命のいつまで待ったら、進んでいいんだ?」
「ネロ以外を好きになるかもしれないじゃない」
「ならない」
「な、なんでそんなはっきり言えるの」
「なるんだったら、賢者とネロの運命を見たときに諦めてる。そうじゃないなら、ならない」
「それ、は」

また痛いところを突かれて下唇を噛んだ。何か言わないとと言葉を探すうちに、こちらへ戻ってくるヒースの姿が目に入ってすっきりしないまま睨み合うことになった。

「え、なんでふたりともそんな顔してるの?」
「なんでもない」
「ええ?」
「なんでもないったらない。ヒースは気にしなくていい」
「強引だな…」

シノの強引さに呆れながらも、何も追及せずにいてくれるのは彼の優しさだ。

「ななし、このあと天気崩れそうだけど泊まってく?」
「ありがたいけど、ネロにちゃんと帰ってこいって言われてるから」
「そっか」
「子供じゃないっていうのに。まあそういうことだから、雨に降られないうちに帰るわ。ごちそうさま」
「来てくれてありがとう。慌ただしくてごめんね」
「こちらこそ、こんな素敵なお茶会にお招きいただいてありがとう。また誘ってね」
「もちろん。あ、これ。クッキーのお礼。ネロと食べて」
「わ、ありがとう!さっき食べたのと同じスコーン?すごくおいしかったから嬉しい」
「よかった」
「気をつけて帰れよ」
「はいはい。じゃあふたりとも、またね」

クッキーを入れてきたバスケットにスコーンや茶葉が入っている。これは、絶対に濡れないうちに帰らなければ。
箒にバスケットをぶら下げて、地面を蹴った。
ブランシェットを振り返ると、ヒースが手を振っていた。振り返してスピードを上げる。西の遠くに雨雲が見えた。このままだと、帰りつく前に雨が降りそうだ。急がなければ。


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