忘れてしまった。
ネロは、賢者様の願いの通り、忘れてしまった。
これで満足なんですか、賢者様?
本当にこれでよかったのか、わたしには今でも分かりません。
どうして彼が忘れて、わたしが覚えているんでしょうか。
わたしだって忘れてしまいたかった。そうすればきっと、あなたたちの運命ことなんか気にせず愛せたのに。


ネロが賢者様のことを忘れてしまったというショックから抜けきらないまま、ネロの後を追って塔を降りるとシノとヒースがいた。
箒を手にしているあたり、これからブランシェットに向かうのだろうか。

「あれななしたち、まだ残ってたんだね」
「うん。ヒースたちは今から帰るの?」

わたしたちに気付くと嬉しそうに駆け寄ってきた。
相変わらず美しい子だ。
東の特性をよく持つこの子は、人見知りが強くなかなか心を開かないが、一歩中に入れてくれればこんなにも親しげに笑ってくれる。
もしも仲のいい弟がいたらこんな感じなのだろうかと思わずにいられない。

「そう。俺たちはこれからブランシェットに戻るところだよ」
「気を付けて帰れよ」
「ありがとう。ネロたちは?」
「店、片付けに行ってくるよ」
「そっか…。ネロのお店、行ってみたかったな」
「はは、またどっかで開いたら来てくれよ」

二人が和やかに話しているのを一歩下がって見ていると、シノが隣に来た。
赤い瞳でじっとみられるのはなんだか座りが悪い。まっすぐすぎて、全部見透かされているような気持ちになるから。
逃げるように視線をふたりに戻す。

「……なに?」
「お前たちはいつも一緒にいるな」
「だからなに?あなたたちもそうでしょ」
「俺とヒースはいいんだ。絆が違う」
「……そう、だね」

絆。確かにわたしとネロの間にはないものかもしれない。
自分たちの間にあるものを信じているシノはいつも自信満々で、きっとなにか含んだわけではないのだろうけど…今のわたしにはちょっと痛い。

「お前、いいのか?もういないんだぞ」

シノは敏い。わたしがネロをどう思ってるのか知っていたんだろう。
知っていて黙っていてくれたなら、最後まで知らん顔してくれればいいものを。

「俺は賢者のことは好きだったけど、まあお前も嫌いじゃない。応援してやってもいい。チャンスだぞ」
「いいも何も、ネロは賢者様のこと全部覚えてないよ」
「全部?」
「そう。だから…わたし、どうしていいか分からないんだ」

シノが何を思ったのかは分からない。ただ黙ってわたしを見つめてーー口を開いた。

「お前、」
「シノ!そろそろ俺たちも行かないと。帰るのが遅くなる。じゃあね、ネロ、ななし。またね!」
「…分かった、今行く!」
「じゃあね」

賢者様がいなくなり用なしになったわたしはここに戻らない。だから「またね」とは言わなかった。

「ななし、ちゃんと覚悟しろよ。ちゃんとネロを見ろ」

それだけ言ってシノは空へ飛んでいった。

「お前たち仲がいいよな」
「わたしとシノ?」
「姉弟みてえだなっていつも思うよ」
「そうかな。シノ、わたしには結構辛辣だと思うけど…」
「気を許してるからだろ。あいつ、お前のこともよく見てるよ。心配なんじゃないの」

シノが?
さっきのぶっきらぼうな態度を思い出して、よく見積もっても挑発してきていたようにしか思えないけど…もしかして、励ましてくれていたんだろうか。
あの、シノが?

「じゃ、俺たちもそろそろ行くか」
「ん」


東の国に戻ったあと、ネロとわたしは真っ先に店を見に行った。
魔法使いだとばれてしまったあと、ろくに整理もできずに魔法舎へ向かったからだ。わたしも荷物がそのままだったしちょうどよかった。
こっそりと中に入ると、長い間留守にしていたそこは当然掃除をしないでは使えない状態になっている。
幸い誰かが忍び込んだあともないけど。

「懐かしい…」
「やっぱりかなりホコリっぽくなってるよなあ」
「ねえ、こっちの道具どうする?」
「そのへんのは全部魔法舎に持ってく。とりあえず全部窓開けてきてくれ」
「分かった」

わたしは元々、ネロのところで手伝いをしながら隙間で占いをしていた。
特別な魔力はないけれど、占いが得意なので店の忙しくない時間に奥の席を借りて客をとっていたのだ。魔女だとばれないように、適当にタロットを用いていた。
よく当たると評判で、恋する女の子たちがこっそりとやってきていたものだ。
二階にあがってわたしとネロの私室の窓を開けた。扉もそのままにすればある程度空気も通る。

「わたし、これからどうしようかな」

賢者の魔法使いになったネロはまた厄災が訪れれば魔法舎へ行かなければならない。もしかしたら、ネロのことだし新しい賢者様が来たらすぐに向かうかも。なんだかんだ面倒見がいいから。
昔のようにずっと一緒にいるわけにもいかないだろうというのは、わたしにも分かる。
そろそろ離れるには丁度いいタイミングなのかもしれない。
自分で言い訳を探さないと離れられないくせに、どうしたらネロから離れられるかばかり考えている。
本当は離れたくないのに、これ以上一緒にいるのが怖くてしかたないのだ。
だってこの先一緒にいて、なんになるっていうんだろう。わたしたちの間には何も生まれないし、変わらない。付かず離れずの距離が保たれるだけ。

「なんだ?落ち着いたらまた一緒にやればいいだろ。ななしがいれば俺も料理に集中できるしさ」
「…下、もういいの?」
「下はまあ、あとでまとめてやるよ。とりあえず寝るとこどうにかしないとだろ」

独り言を聞かれて居心地が悪く思っていると、ネロはなんでもないように「一緒にやればいい」と口にするからうまく答えられなくて誤魔化した。
わたしのこと、好きでもなんでもないくせに。性格の悪いわたしが毒づいた。
でも分かってる。ネロは懐に入れたものを大事にする人だから。だから、わたしのことも大事にしてくれる。気にかけてくれる。
ネロは魔法でホコリを払い、布団をきれいにしてくれた。本当は干した布団で眠りたいけれど、どうせ少ししたらここから別のところに移るのだし、この際贅沢は言っていられない。

初めて会った頃のネロは最悪で、柄も悪くて…憧れたブラッドの影響だろう。全然気が利かなかったのに、今ではわたしのベッドまで綺麗にしてくれるくらいには周りが見られるようになった。
まあブラッドはなんだかんだ紳士なところがある男だし、似たのかもしれない。

「ななし、あのさ」
「ん?」
「賢者さんって、どんな人だった?覚えてる?」

息が止まりそうになった。
声がかすれて上手くしゃべれない。

「…ど、うして……?」
「いや、なんか気になって。どんな人だったのかなって」
「賢者様は…、賢者様、は」
「覚えてるとこだけでいいんだけど。忘れた?」

覚えてる。全部、覚えている。だけどすぐには口にできなくて動けなかった。
指の先まで、動けなかった。
まるでヒースの魔法にかかったみたいだ。
彼女の微笑みを思い出すたび、隣で優しい顔をするネロがちらつく。
彼女の悲しそうな顔を思い出すたび、歯がゆそうにするネロが隣にいる。
彼女が誰かといるたびーーー強く焦がれた表情をするネロを、離れたところから見ているわたしがいる。
賢者様を思い出すとき、ネロの思いでまでくっついてきてしまう。こんなの、言えない。

「あー、ごめん」
「え…?」
「お前、賢者さんと仲良かったんだったっけ。いなくなってすぐ聞くとか…無神経だったよな。お前が落ち着いたら、そのうちお茶でも飲みながら聞かせてくれよ」

わたしは曖昧に笑って何も言わなかった。
ネロに賢者様のことを話したくなかったのだ。話せばきっと、好ましく思うのだろう。もしかしたら愛していたことに気付くかもしれない。
それが恐ろしかった。
同時に、楽にもなりたかった。
すべてを話して、あなたたちは運命で繋がっていると叫びたかった。
賢者様はこの世界にはいないから、接続できずにいるけれど、ネロの運命の先が頼りなくさ迷っていることから、恐らく賢者様とはまだ繋がっているんだろうと思われる。
だから諦めないで、他を見ないで、走っていってほしいと言いたかった。
だって、そうすればわたしは言い訳できるもの。お前に勝ち目はない、さっさと諦めるしかないんだって。

本当の臆病者は、わたしだ。
でも、また賢者様のあの言葉を思い出した。
ネロを、諦めないで。
諦めないでもいいんだろうか。
わたしでも、彼と一緒にこの先も…?
できもしないのに、光に駆け寄りたくなる自分がどうしようもなく惨めで、夢を見たくなった。



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