夏休み最終日、わたしは泣きながら数学のテキストを広げていた。
クーラーの効いたリビングで、隣には可哀想なものを見るような、手のかかる子供を見る親のような、バカな犬を可愛がるような飼い主のような、そんな目をした夏目くんが教科書を持っている。

「ほら頑張っテ。大丈夫、見ててあげるかラ」
「ぐすっ、ありがとうなつめくん…ぐすっ」

なんてわたしはバカなんだ…!
そんなんだからママたちに

「ななしちゃんはね、いいこなんだけどね」
「ちょっとそういうとこあるよね」
「そこがななしちゃんのいいところなんだけど」
「まあ夏目くんがいるから大丈夫」
「夏目くんはしっかりものだから」
「やっぱり夏目くんはすごいわね〜!」
「ななしちゃんよかったね!夏目くんがいれば安心だよ!」

なんて言われるのだ。夏目くんがいないとダメだと思われている。そう言うところがないとは言い切れないのが悲しいところだけど……パパとママはもうちょっとフォロー頑張って。娘も頑張ってます。
でも過去のわたしはほんとうにバカ…っ!
過去の自分を恨んでも時間が戻るわけでもないけど、そう思わずにはいられない。


朝ご飯を食べ終わってリビングで雑談をしていると、宿題は終わったかと夏目くんが聞いてきた。
わたしは自信満々に胸を叩いた。

「明日からまた学校かー、朝起きられるかな」
「そういえばななしちゃん、宿題終わっタ?」
「終わったよー!」
「えらいネ。けっこう量あったのニ」
「いっぱい遊びたくて夏休みに入ってすぐやったんだー。でも数学だけどうしても分からなく……て…?あれ?」
「どうしたノ?」
「す、すうがく」
「数学?」
「数学…!やってない…!」
「エ」

血の気の引いたわたしと、びっくりして口を閉じられない夏目くんは、コップの中の氷がからんと音を立てるまで固まっていた。
完全に部屋の時間が止まった。
ハッとした夏目くんが口を開いた。わたしは完全にパニックになってしまい、夏目くんも釣られて慌てている。

「ななしちゃん、それまずいんジャ」
「どっ、ど〜〜〜〜しよーー???!!」
「ど、どうしようっテ、やるしかないでショ!ボクもみてあげるから早くテキスト持ってきテ!」
「う、うん!」

めいっぱい遊びたかったわたしは、夏休みに入ってすぐに宿題にとりかかった。頭はそんなにいいわけじゃないけどまあ時間もあったし、教科書や辞書を使えばなんとかなった。
でも、数学だけは別だ。
何度教科書を開いても苦手意識が抜けず、後回しにしてしまっていた。分かってる。ちゃんとやれば、全然できないことはないだろう。授業だって真面目に受けているし、宿題でも何度もやっているのだから。
いやだなーと思って後回しにしているうちに他の教科はどんどん終わっていって、数学だけがいつまでも残り、いつの間にか手をつけなくなったそれを…夏目くんに言われるまで、わたしはすっかり忘れた。
もう、すこーんと。
人の記憶の改竄ってすごい…もう完全に宿題終わらせたつもりだった…!
ばたばたと部屋から宿題と教科書を引っ張り出してリビングに戻ると、テーブルの上に出されていたものが端に寄せられていた。

「持ってきた…!」
「ちなみニ、どのくらい残ってるノ…?」
「…………」
「エ、待って待っテ…もしかしテ」
「ぜ、ぜんぶ…」
「ほんとになんでもっと早く言わないノ!?教えてあげたのニ!?」
「自分でやろうと思ってたんだよー!でも数学って苦手だから後回しにしちゃっててっ」
「いいから早く開ク!ほラ!泣いてる暇ないヨ!」

言われるままにノート、教科書、テキストを開いてテーブルに向かう。焦りからシャープペンを持つ手がぶるぶると震えているのを見て、夏目くんが深くため息を吐いた。

「ななしちゃん、大丈夫。分からないところはボクも教えてあげるシ、もしかしたら明日には間に合わないかもしれないけド…、最初の授業のときまでに終わってればなんとかなるかラ」
「うん…」
「だから頑張ろウ。とりあえず基礎問かラ…この辺りはできるよネ?」
「うん、」

優しく肩をさすられて、ようやくパニックから落ち着く。
夏目くんの掌はあったかくて、ふんわりと自分じゃないにおいがわたしを安心させた。
夏目くんがいなかったらパニックになったまま半日は無駄にしてしまった気がする。
よかった、夏目くんが一緒で。
……でも正直、もうめげそう。だって全部残ってる…!ばかっ!分かるとこだけでもやっておけばよかったのにっ!
いつも応用問題でつまずいてしまうせいでどうしてもやる気が削がれちゃうんだよね…。
そうは言ってもやるしかない。
夏目くんは優しく笑って段取りを組んでくれる。

「とりあえずできるとこはそのまま全部進めテ。教科書見ても分からないところはすぐ飛ばしていいかラ。ひとまズ…このページまデ」
「うん」
「終わったら分からなかったところ説明してあげるから大丈夫だヨ」
「ありがとう…」

うじうじしてても仕方ないっ!とにかく指定されたページまで進めよう。
覚悟を決めて泣きながらテキストにとりかかった。
隣に夏目くんがいてくれる安心感からか、見られている以上さぼれないという緊張感からか、ひとりでページを開いた時よりも冷静に向き合える。
集中して計算していくけど、やっぱり応用問題に弱い。全く解けなかったわけではないけど、何度も教科書の説明を読むことになった。
夏目くんはすぐに飛ばしていいと言ってくれたけど、負けず嫌いなところがあるからできるだけ自分の力で進めたいと思ってしまう。聞けば教えてもらえると言うのも、プレッシャーが軽くなってありがたかった。
それも織り込み済みで言ってるんだろうなー。夏目くんだからなー。

「どウ?」
「できた!」
「ちょっと見せテ」

指定されたところまで終わると、タイミングを見計らっていた夏目くんが覗き込んできた。
さっと目を通すと頷いて、分からなかったところを説明してくれる。

「うン、やっぱり基礎は問題なさそうだネ。じゃあここからやっていこウ。途中までは計算できてるかラ…」

そうやって何回かに分けて進んで行く。大分終わらせられたけどそれでも先は長く、集中も続かなくなってきた。

「そこまた計算ミスしてるヨ」
「うっ、わたしなんで忘れて…!」
「そういうこともあるヨ。一回休憩しようカ」
「でもまだたくさん残ってるし」
「疲れてると効率悪いし適度に休まないト」
「…うん」

夏目くんの言う通りだ。
さっきから計算ミスが目立つようになってきている。
こんな状態では分かる問題も分からないだろう。一度ペンを置いて伸びをした。
ずっと緊張していたせいで体が固まっていてぎこちない。

「お茶持ってきてあげるからちょっと休んでていいヨ」
「ありがと〜」

我が家に慣れきった夏目くんはお茶の場所も分かる。それがなんだかこそばゆい気持ちにもなるけど気を許されているようで嬉しい。
夏目くんが弟だったらこんな感じだったのかな。いや弟に勉強見てもらう姉やばくない?!
あーでもほんと、ちょっと疲れちゃったな。自分が悪いとは言え、朝から勉強し通しだ。
こてんと机にほっぺたをくっつけると冷たさが気持ちいい。
だんだん疲れが体を重くしていって…

「あ、やば…ねる…」

抗えずにまぶたが落ちた。


「ななしちゃん」
「ん…なつ、め……くん?」
「ごめんネ。もっと寝かせてあげたいんだけド」
「うわっ?何時…?!わたしどのくらい寝てた?!」
「大丈夫だヨ。30分くらいだかラ」
「ありがとう…!声かけてくれなかったら絶対起きられなかった」
「まだ頑張れる?」
「うん!夏目くんが見ててくれるのに頑張らないなんてないよ」
「そっカ。じゃア、お昼食べて続き頑張ろうネ」

仮眠をとれたからか少し頭がすっきりしている。
これならだいぶ進められそうだ。
ママが作っておいてくれたオムライスをレンジで温めて食べてエネルギーをチャージして気合いを入れる。

「よしっ!」

そこから波に乗って一気にペースを上げて問題を片付けていく。
自業自得ではあるんだけど、夏目くんの優しさに触れられたことが嬉しくてたまらない。
残すところもあと3分の1くらいになったところで、夏目くんに肩を叩かれた。
顔をあげると外は暗くなっていた。

「ママさん帰ってきたヨ。もうすぐごはんだっテ」
「嘘っ、もうそんな時間?!」
「とりあえず一回中断しよウ。お風呂入ったら寝るまでやっテ、できなかった分は明日学校終わってからで間に合いそうだネ」
「うん!夏目くんほんとにありがとう!夏目くんいなかったらほんとにやばかったよ…」

考えるだけでもゾッとする。
夜中も泣きながら分からずにただ教科書とにらめっこしていただろうな…。

「頑張ったのはななしちゃんだヨ」
「でも夏目くんがいたから頑張れたんだよ」
「ボクのこと好きになっタ?」
「あはは、前から大好きだよ」

夏目くんは頬杖をついて目を細めている。仕方ないなあって顔。
夏目くん、これわたしじゃなかったら、わたしのこと好きなのでは?!って勘違いされるやつだよ!
照れ臭くって誤魔化すように立ち上がった。

「ごっ、ごはんたべよ!」
「うン」

わたしが照れているのが分かっているのだろう。夏目くんは蕩けそうな笑顔で頷いた。
そんな嬉しそうな顔されたらもっと照れる…!
ひたすらに顔のいい幼馴染みに顔を見られないようにダイニングへ向かった。
これだから顔のいいおさななじみはーーーっっっ!
威力を知れっ!
でもおかげでおわりそうだよ宿題!



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