賢者様が元の世界に帰る方法が見つかったのは、ほとんど偶然だった。
以前の賢者様からも頼まれて中央の王子さまが探していらしたらしいけれど、なかなか成果がでなかったある日。
わたしとネロは図書室に来ていた。たまには新しいレシピに挑戦しようと考え、参考になる本はないかとなんの気なしに本に手を伸ばしたネロは、しばらくぱらぱらとめくっていた。
でもぐるりと部屋を回ってネロの元に戻ると、彼はページを開いたまま固まっていた。
覗いたネロの手元には……そこには、元の世界への帰り方が乗っていた。
気付いた瞬間、心臓が凍るかと思った。

まさか、料理の本に紛れているとは誰も思わなかっただろう。並みの探しかたをしていては、永久に見つかるはずもない。
だから今ならなかったことにできる。
賢者様を帰さずに済む。

「ネロ、お願い。その本は戻して。見なかったことにして」
「馬鹿言うなよ……賢者さんはずっと帰りたがってるんだぞ。早く教えてやらないと」
「ネロ、本当にそれでいいの?教えたら、賢者様は帰ってしまわれる…ほんとに、いいの…!?」
「いいに決まってる。賢者さんは安全なところで幸せになる方がいいんだよ。…例えこれを教えなくてもさ、賢者さんはいつ帰れるか分からない不安といつ帰ってしまうか分からない不安とで苦しむだけだ」
「帰っちゃったら、一緒にいられなくなるんだよ…」
「もし、俺が帰る方法を知ってて黙ってたって賢者さんが知ったらさ、きっと……傷付くだろ、お互い」

そのまま黙っていればずっと賢者様といることもできたかもしれないのに、あの臆病者はほんの少しの善意と潰されそうなほどの罪悪感とばれたときに嫌われるかもしれないという溢れる恐怖に負け、それを賢者様に手渡した。
わたしは最後まで何度も止めたが、結果は推して知るべし。

「賢者さん、ちょっといいか?」
「ネロ、ななし。どうしたんですか?」
「見てほしい物があるんだ」
「これですか?はい」

賢者様はネロから渡された本を見て、首を傾げた。

「新しい料理でも作るんですか?わたしは得意ってわけではないので…あまり参考になるようなことは言えないと思いますが」
「……ここ、見てくれ」

不思議そうにしている賢者様から本を一度預かると、件のページを開いて見せた。
賢者様はゆっくりと目を通し、だんだんと驚きの表情を浮かべた。

「これ、」
「よかったな、賢者さん。ずっと帰りたがってただろ」
「あ……、はい」
「これで自分の家に帰れるんだ、よかったよ」

それは、賢者様に言うというより、ネロ自身に言い聞かせているようだった。
賢者様が家に帰れる。よかったよかった。それはいいことなんだ、と。
感情を悟らせないように笑うネロを見て、賢者様は一瞬だけ表情が抜け落ちたけど、すぐに笑顔を見せた。
こういうとき彼女が本当に強い女性だと思い知らされる。

「……ありがとうございます、ネロ」

きっと賢者様は、この時ネロを諦めたのだろう。
愛する人が、自分の帰る道を示してきたのだ。もしかしたら落胆なさったかもしれない。この人自分が帰ってもいいんだと思ったかもしれない。

「賢者さんがいなくなったら寂しくなるな」
「そうですね、私も…帰っても何度も思い出すと思います。ここでの生活は私にとってかけがえのないものですから」
「そうだといいな」

そうだと、いいな。ネロは何度も「よかったよかった」と笑い、逃げるように話を切り上げた。

「じゃあそれ、双子先生やオズに見せてやれよ。俺はこのあと夕飯の準備しないといけないからさ」
「はい、分かりました」
「じゃあ。行こうななし」
「え、あ、うん」

二人で話している間はわたしのことなんか気にしてもいない素振りだったのに、終わった途端に輪に入れられて何故だかヒヤッとした。
賢者様の表情は変わっておらず、むしろそれが…なんだか、居心地を悪くさせた。

「まっ、ネロ!」
「ん?」
「あ…いえ、あー、ありがとうございました!」
「いいって。じゃあまた夕飯で」

恐らく賢者様はネロを引き留めたかっただろうし、ネロもそれを分かっていた。
でも何も言わず、一度も振り向かず、足早に厨房へと向かった。
カナリアさんはお城のほうへ呼ばれていておらず、二人だけの厨房には張り詰めた空気が満たされた。
ネロもわたしが話すことを望んでいないのは明らかだった。
何も口に出さず手を洗い作業を始めるのを見ていることしかできないわたしに、ようやく振り向いたネロが、食材をとるように言った。

「それ、とってくれ」
「え?」
「そこの籠に入ってるやつ」

示された籠にはグランデトマトやマカロニ菜が入っている。

「はい」

いつもなら「それじゃなくてちゃんと名前で言って」とか他にやることはあるかとか、色々言えるのに、今は無理だった。
何か言えば、出てくるの責めるようなことばかりになってしまう。
傷付いているのは彼なのに。

「あ…」

後ろからネロの袖口がおりてきてしまっているのを見て、胸が苦しくなった。
こういうとき、ネロは賢者様をからかうように笑って袖をまくるように頼んでいた。濡れてしまわないか気になったけど、大切な思い出に触れてしまう気がして見ているしかできない。
わたしはそこにはいない。
ネロの大切な思い出の中に、わたしはいないのだ。

ただそれを分からされるだけの、絶望を深めるだけの、そんな空間ですら、わたしは手放せない。


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