カーテンの隙間から柔らかい光が細く影を照らしている。朝だ。
横になっただけのベッドから抜け出して、ひんやりした床に足をつけた。その冷たさでもやのかかったような頭が少しずつはっきりとしていく。
それでもお腹の底の重たさは変わらないままのろのろと着替えていると、指が震えていることに気が付いた。わたしは何を恐れているのだろう。
もう、彼女は決めてしまっていると言うのに。
扉の向こうには既にざわつきが満たされていた。賢者様と迎える最後の朝なのだ、それもそうか。
なんの決心もつかないまま、部屋を出た。
運命は未だ、繋がったままでいる。


結局、賢者様の言葉になんの答えも出ないままお別れが訪れてしまった。
一方で賢者様はいつも通りに見える。みんなに囲まれていて近づけそうにないから本当にそうかは分からないけれど。
もう一度話をしたかったけれど、これでは無理だろう。
クロエやミチルは今にも泣きそうで、ミスラやオーエンは帰りたそうにしている。随分と仲良くしてたように見えたけど、やっぱり北は北なのね。薄情な人たち。
ムルはいつものように楽しそうに笑っているし、アーサーは門出を祝うようにピシッと背を伸ばしていた。

「賢者様っ!ボク、賢者様の魔法使いになれてよかったです!」
「ありがとうございます、ミチル。私もミチルたちの賢者になれて嬉しかったです」
「賢者様っ、俺これからも頑張ってたくさん服を作るよ!いつかまた、賢者様に着てもらえるように…だから…」
「はい、楽しみにしてます。クロエの作るものはどれも素敵ですから…きっとすぐにみんな好きになりますね。これからも頑張ってください。ずっと応援してます!」
「うっ、ごっごめんね!泣かないって決めてたのに…今泣き止むからっ」
「いいんですよクロエ。わたしも寂しいですから」
「ほらミチル、そんな顔をしてないで賢者様に元気な姿をみせてあげましょう、ね?」
「兄様…!」
「賢者、頑張れよ。お前はやれるやつだ」
「もうシノっ!」
「あはは、頑張りますね」

代わる代わる声をかけられている賢者様はとても嬉しそうで、でも少し寂しそうだった。
そんな顔をするなら、帰らなければいい。ねえ、賢者様。そう祈っても、こちらには気付きもしない。
ひとしきり挨拶を終える頃には、ミチルは泣きじゃくってルチルに抱きついていたし、ヒースやシノも寂しそうに口を噤んでいた。
あの愚かな男は…ひとり、少し離れたところから、じっと見つめている。わたしが近寄っても気がつかないほど、真剣に。

「ネロ」
「うお、ななしか。驚かせるなよな」
「…いいの?賢者様のところに行かなくて」
「なんでだよ」
「ネロってほんっとにどうしようもない人だね」
「そんなの、…自分が一番分かってる」
「…ねえ、やっぱり今からでも遅くないよ。賢者様ときちんと話した方がいいと思う」
「話すことなんて何もないって」
「は?そんなことないでしょ」

問い詰める声が鋭くなってしまった。ネロはそれに嫌そうな顔をするでもなく、いつも通りの態度で頭を掻いた。

「俺はいいんだよ。お前こそちゃんと賢者さんとお別れしてこいよ。まだ挨拶してないだろ」

もう話は終わりだとばかりに背を押され、たたらを踏む。
この男は昔からそうだ。わたしの口を閉じさせたいときはそうやって背中を押して離れていく。その大きな手のひらで触れられることにどんな気持ちを抱くかもしらないから、簡単に触れるのだ。
ふと電気が走るように、磁石がくっつくように、視線が吸い寄せられた。まっすぐ、彼女はわたしを見ている。さっきは、見てもくれなかったくせに。
賢者様は微笑んで、「頑張ってくださいね、ななし」と言った。
ちがう、違うんです賢者様。

「賢者様…っ!」
「応援してますから」

どうして一人で整理をつけてしまったような顔をするんですか。
どうして自分の気持ちを無視してしまうんですか。
どうしてネロのことをおいていってしまうんですか。
賢者様、賢者様、賢者様!教えてください、賢者様。
行かないでください賢者様。
必死に手を伸ばしたけど、届くことなく彼女は扉へ向かった。

「じゃあみんな、ありがとうございました!」

最後に声をかけるのがわたしだなんて、あなたたちはなぜそんなにも不器用にしか生きられないのか。
最後くらい、好きだって叫べばいいじゃないですか。
最後くらい、行くなって言えばいいじゃない。
笑った彼女はそれだけ言うと振り向きもせずエレベーターへ乗り込んだ。
扉が閉まるときらきらと光が弾けて、一瞬何かを失ったような喪失感が全身を駆けていった。賢者の魔法使いでないわたしですらこうなのだから、きっと彼らのそれは比ではないだろう。

結局ネロと賢者様はろくに話もせず、みんなと同じように別れの挨拶をして終わった。終わってしまった。
ネロは最後までずっと賢者様を見ていたけど、動きもせず、賢者様はなにも言うことはないと拒んでいたように感じた。そうでなくてもきっと、この臆病者は何も言えなかっただろう。
終わることが分かっていて、踏み込めるような男だったら…きっと今頃こうはなっていない。
わたしはモヤついた気持ちだけが残って、ふと気になった。
賢者様のこと、ネロはどのくらい覚えてるんだろう。
いなくなった賢者様のことは個人差があるとはいえ、忘れてしまうものだと聞いている。もし、ネロが覚えていたら。そしたら、わたしも彼を諦められるかもしれない。
賢者様には悪いけど、わたしは彼女に勝てない。寄り添うことも許されない。
わたしに運命はない。

「おい、いつまで立ってるんだ?」
「あ」

ボーッとしすぎていたようで、気がつけば扉の前にはわたしとネロだけになっていた。

「あれ、みんなは?」
「もうとっくに戻ってるよ。北のやつらは自分の家に帰った」
「はや」
「俺たちももう戻ろう。…ろくに片付けもせずに出てきちまったからな。さすがに片付けに戻らないと」
「そう、だね」

さすが北の魔法使いは行動が早い。賢者様がいなくなってすぐに飛び立ったようだ。

「お前、賢者さんとそんなに仲良かったのか」
「なんで?」
「なんでって…誰もいなくなってもここにいるくらい寂しかったんじゃないのか?」
「わたしが?それはネロじゃないの」
「俺?なんで」
「なん、で?なんでって…そんなの…」

そんなの、ネロが賢者様を、……待って、なにかおかしい。
嫌な予感が背筋を伝った。うまく息を吸えず、口だけがはくはくと動いた。ネロにも聞こえそうなほど動悸が逸っていく。
こわい、やめて、聞きたくない。そう思うのに、ネロの口からこぼれた言葉はしっかりとわたしの耳へと届いた。

「俺と賢者さんって仲よかったのか?うっすらとしか覚えてないんだよなあ…。これが話に聞いてたやつか。なんか妙な気分だよ」

神様、なんで、どうして。だってふたりは運命で、強く結ばれてて、わたしにははっきり、見えてたのに。
怖くなって後ずさると、ふいに賢者様の声が脳裏に響いた。

「ネロを諦めないでくださいね」

なんで賢者様。だってわたしには、むりなのに。
ふと見えたネロの運命は、どこにも繋がらず宙ぶらりんでそこにあった。


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