ネロ・ターナーは臆病で愚かな男だ。
愛している賢者様を自ら手放した。いや、はじめから掴みに行きさえしなかった。
俺は魔法使いで賢者さんは人間だから。価値観が違うから。生きる時間が違うから。約束はできないから。いつか帰ってしまうから。俺は賢者さんを忘れてしまうから。覚えてられないから。消えてしまうから。
そうやっていくつも言い訳をして手を伸ばさなかった。
焦がれて焦がれて焦がれて、目も離せなかったくせに、それでも絶対に触れなかった。
わたしはそれが嬉しくて悔しかった。賢者様もこの男を愛していたのに、絶対に近づかせなかったことが、嬉しくて、悲しかった。悔しかった。またこの男はひとりになろうとしている。

賢者様が帰る前の日、ネロはいつものように笑い「寂しくなるなー」と宣った。そんな素振りを微塵も見せないくせに、彼女にそんなことを言うのは卑怯だ。
賢者様はネロの気持ちを察して決して踏み込まなかったというのに、そうやって自分を連れて行かせようとするなんて、本当に、嫌な男。
重たい気持ちを流してしまいたくてキッチンでホットミルクにシュガーを入れた。温かなそれはゆっくりと混ざり合って、ざらついた心に沁みていく。
誰もいないと思っていたキッチンに、柔らかな声が響いた。

「あの、ななし」
「賢者様…?明日のお帰りの支度をされたほうがいいのでは」
「あ、えと、そうなんですけど。どうしても、ななしに言っておきたいことがあって」
「わたしに?あの…ネロにでは、なくてですか」

突然のことにびっくりして、言わなくていいことまで口走ってしまった。
わたしは賢者の魔法使いではない。あくまで女性の少ないここで彼女が困らないようにと配慮された結果招かれただけの存在だ。彼女が帰ればもうここに残ることもない。
賢者さんは悲しそうに「いいんです」と言うとわたしの手を握った。

「諦めないでください」
「え?」
「…彼のことを、諦めないでください」
「それは」
「私はネロのことが好きでした。でも帰ったら、忘れることにします。離れても好きでいることはできますけど…わたしがそうだったら、きっとネロはいつまでも幸せになれません」
「まっ、待ってください!好きならそばにいたらいいじゃないですか?!受け入れて、賢者様が、あなたが踏み込めばいいじゃないですか!」
「私じゃ駄目なんです。ネロは私とじゃ…きっと、いつまでも躊躇ったままです。私じゃネロの壁を越えることができません。でもななしなら、同じ魔法使いですから」
「そ、そんなの言い訳です!卑怯です!あんなにあなたを好きにさせておいて、置いてくんですか?!あなたたちは、間違いなく運命です…賢者様のいう赤い糸はあなた達を結んでいます…!わたしは占いの魔女です。それくらい分かります!」
「ななしがそういうなら、そうなんでしょう。でもわたしは帰ります」

わたしはネロを愛していたけれど、ネロは私の運命ではなかった。彼の先に繋がっていたのは間違いなく賢者様だ。
なのに、なぜ。

「どうしてそんなにもかんたんに手放してしまえるのですか…」
「運命なら、なおさらです。幸せにできないと分かっていて一緒にはいられません」
「彼にはあなたが必要なんです、賢者様…!あなたがいなくなったら、ネロはきっと、すべて諦めてしまう」
「いいえ、ネロに必要なのは名前ですよ。同じ時間を生きてくれる、あなたです」

だから、絶対にネロを諦めないでくださいね。
そう残すと、賢者様はわたしの反論も聞いてくれず部屋に帰っていった。
温かかったミルクは冷たくなり、シュガーがそこでざらついていた。

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