これ の続き
あの日から一言もラビと話していない。姿さえもほとんど見ることがない。たまに遠くに背中が見えるだけ。 広い教団内とは言えなぜか? もともとお互いに任務ですれ違うことが多かったし、そうでなくてもわたしはまたホコリまみれの資料室に篭もるようになったからだ。 ここにあるものは全て目を通し終わっていると言っていたから、用のないラビが訪れることはもうない。 幸い、あの日々をなかったことにするのは簡単だった。ざわざわと噂が広がる食堂さえ避ければ、手元にはラビからもらったものは何も残っていないから。あの髪飾りだけはどうしても捨てられなかったけど、しばらく持ち歩いていたらいつの間にか失くしてしまっていた。気が付いた時、やっぱり痛かった。だけど怖くて自分から探すことはできなかった。
前の状態に戻っただけ。綺麗なお伽話だけを手に、一人で幸せを空想する。世界を遮断する。現実は悲しいから、必死で本にかじりついた。 膝の上に広げた本の中では不幸だったお姫様が自分を探し出してくれた王子様に求婚されている。
「…王子様は言いました。僕があなたを必ず幸せにしましょう。だからどうか僕の妃になってください。お姫様は差し出された手にゆっくりと自分の手を乗せると涙を零して微笑みました。あなたといることが、わたしの幸せです…」
ハッピーエンドを目指して物語は滞りなく進んでいく。彼女はお姫様で、幸せになることが最初から決まっているから。わたしとは違う。 苦しくて本ごと膝を抱えて蹲った。 わたしはどうしたかったんだろう。どうなりたかったんだろう。 こんなに苦しいなら、やっぱり最初からやめておけばよかったんだ。なかったことにしても、この苦しさだけはいつまでもなかったことにはなってくれない。ここに残り続けている。 逃げたくて目を閉じると、やがて眠気がやってきた。そのまま意識を手放して、次に目を開いた時には天窓から月が見えた。寝ている間に泣いていたのか開いていたページがしわしわになっている。
「リナリーに怒られちゃうな…」
本を元の場所に戻しに立ち上がると、月の光が近くなった。まあるく夜色の空を切り取るあの月は、一人のようで一人じゃない。あの輝きがそれを証明している。いいな、羨ましいな。照らしてくれる人がいていいな。 本当は自分が一番よく分かってる。なんにも元通りじゃない。遠くに見える背中を視線で追ってるのも、リナリーが物言いたげにわたしを見ているのも、彼がここを避けていることも、胸がちくちく痛いのも、分かってる。 ざまあみろ、身の程知らずにごっこ遊びなんて始めるからだ。わたしはお姫様なんかにはなれない。
「それでもなりたかったなあ」
なりたかったなあ、あの人の大事なものに。なりたかったなあ。 お姫様じゃなくていい。なんでもいい。嘘でも、シアワセになろうと言ってくれた彼の特別に、あの悲しそうな瞳を柔らかくできるような何者かに、なりたかったなあ。 口にした途端に押し殺していた感情が溢れ出してくる。わたし、泣いてる。
「してやるさ」 「…!」
突然かけられた声に振り返ることができなかった。それも気にならないのか、彼はもう一度言った。
「ななしが望むなら、なんにだってしてやる。案外ななしはロマンチストだから、お姫様もいいさ」 「…」 「俺は王子様って柄じゃないから門番くらいが限度だけど、まあ身分違いの恋ってのも悪くないだろ」 「なんで…?」 「なんでって?」 「なんで、来たの?」 「ななしが泣いてる気がしたんさ。お姫様が泣いてる時は慰めるのがセオリーっしょ?」
ラビはきっといつものように笑っているのだろう。それが嬉しくて、ドキドキと鼓動が早くなっていく。心臓の端っこがちりちりと痛くて、もっと涙が出た。
「そろそろこっち向いてくれよ、ななし」 「やだ」 「頼むから、慰めさせて」 「やだ…っ」 「ごめん、もう捕まえたさ」
泣き顔を見られたくなくて頑なに俯いたままでいると、後ろからぎゅっと抱きしめられた。背中に鼓動が伝わってきてあったかい。
「一人いるの、平気だったのに、誰になんて言われても、怖くなかったのに…ダメだった!ラビだけはどうしても諦められなかった…っ」 「俺も。また拒否られんの怖くて逃げてた」
もう一度ごめんと言うと、硬いものを握らされた。ゆっくりと掌を開くと、いつかに失くした髪飾りだった。
「これ」 「ここに落ちてたんさ。返そうと思ってたんだけどなかなか踏ん切りつかなくてさあ」 「そうだったんだ」 「な、そろそろこっち向いてくれよ」
それがとても切なげだったから、逸る鼓動を押し込めてゆっくりと振り返った。月明かりのせいか、ラビの瞳が揺らめいて見える。
「かわい。泣いちゃった?」 「…ラビのせい」 「知ってる」 「ばか…けど、好き」 「っごめん、キスさせて」
二回目のキスは全然優しくない。いっつも余裕そうなラビからは全然想像もつかないような荒っぽいキスだった。 ねえラビ、本物にしてくれてありがとう。
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