集中力が切れてきたのか、そもそも集中できていなかったのか。秒針の進む音がやけに耳について仕方がない。かちりかちりと規則正しく刻まれるリズムに急かされるような焦りが湧いて出て、何か音楽でもかければよかったなと後悔した。
ただでさえこんな空間に、ふたりきりだというのに。時折聞こえる布擦れの近さに目を閉じたら、余計に意識した。
諦めてちらと視線を動かしてみれば、泉さんはこちらを気にした様子もなく資料の気になるであろう箇所にペンを走らせていた。その横顔がびっくりするくらい綺麗だったから息も忘れてついじっくりと眺めてしまった。たっぷりと光を集めるその瞳は俯いてなお輝いている。髪の毛、柔らかそうだなあ。触りたいなあ。できるはずもないのに焦がれてしまう。

さて。なぜあんずではなくわたしがここで企画書を作っているか。泉さんに可愛がられているから?そうだったらどれだけよかっただろう。なんということはない。悲しいかな、あんずとは違ってわたしが不出来だから、監視されているようなのだ。
来週のミーティングで提出する企画書の進捗を不安に思った泉さんに、終わってないなら見ててやるからここでやれば?…もとい、さっさと完成させろ、と言われ今に至る。もちろんわたしに拒否権はない。
確かにわたしの仕事は遅いほうだ。だからといって期限をすぎることはないし、お粗末なものを提出しているつもりはない。未だ未熟であると自覚がある分、ぎりぎりまで考えこむことはあるけど。要するにこれは信頼関係の問題なのである。
あんずの導入がうまくいったことで新たに転入したわたしは、それまで一介のファンであった。心奪われるステージを作る彼らに心から感動し、携われるようになればと思っていた。そんな過去があるから…かは分からないが、結果として、わたしは泉さんの信用を勝ち取れていないのだ。
まあ仕方ないと思う。ついさっきまで普通のファンだった人間が急に中に入り込んできたから、こいつ大丈夫かよって思うと思う。
わたしとしては真剣に取り組んでいるつもりではあるけど、如何せん泉さんに関してはモデル時代からのファンであったため、疚しさからミーハーだストーカーだと言われてしまえば言い返せない。だから不安がられ、こうして目を光らせているのだろう。
と、泉さんが不可解そうにこちらに視線を流した。

「ちょっと、なあに?見てないでさっさと終わらせな」
「す、すいません」

あれだけ見ていてバレないわけはないのだが、恥ずかしくて声が裏返った。慌ててペンを握り直して文字を追う。
しかし、暴れまわる心臓やパニックを起こした脳みそたちは内容を飲み込まずに、ただ目を滑らせるだけだった。
痛いほどに強く脈打つ胸が焦りを増長させる。これ以上評価を落とす前に持ち直さなければと思えば思うほど、脳みそが煮立っていく。一度落ち着かなくちゃと思うのに、うまくいかない。
よっぽど哀れな顔をしていたのだろう、泉さんはペンを置くと「休憩する?」と言った。

「いえ!大丈夫です!」
「は?大丈夫ってどの口が言ってんの?顔でも洗ってきたほうがいいんじゃないの」
「いや、ほんとに…」
「へえ」
「き、緊張して、頭が回らない、だけなので…」

そう言って泉さんの視線から逃げるように資料で顔を隠した。全身が熱く燃えているかのようだ。なんて、なんて馬鹿。言うに事欠いて緊張してるから?あからさますぎる。こんなのバレバレだ。
泉さんの返事もなく、そもそも声も小さすぎて届いたかも定かではない。好意丸見えのこんなセリフ、聞こえてないほうがいいに決まってるけれど、沈黙が重たくのしかかってくる。
気まずさに口を開こうとしたその時。耳元を冷たいなにかが掠めた。

「ヒッ」
「…真っ赤だけどぉ?で、なんで緊張してるの?」
「あっ、あの、それはっ…言えません…」

わたしの耳を弄ぶ、体温の低い指先。資料を降ろさなくてもそれが何かはっきり分かる。憧れている人にこんなことをされて平静でいられる人がどれだけいるだろうか。少なくともわたしには無理で、ますます縮こまって資料を握りしめた。

「ややややめてください!」
「なんで?」
「は、ずかしい、から」
「ふーん」
「泉さん…」

聞いたくせにやめてくれないとはどういうつもりなのか。泣きそうなのを堪えながらどうにか抵抗をするものの、一向に彼の指先は離れていかない。それどころか楽しそうに首筋まで撫ではじめたではないか!
わたしの体温は上がる一方だ。

「ほんとに、もう…」
「ダメ。ななしが素直になるまでやめない」
「意味分かんない、ですよぉ」
「ほんとに?」

直接耳に吹きこまれた言葉に体が固まり、資料は手から落ちていった。わたしを守ってくれるものはもうない。

「言えるよねえ」
「い、いずみ、さん…」

必死に距離をとろうとしたが、椅子の背を抑えこまれてがたがたと惨めに足を鳴らしただけだった。観念して彼のほうを向けば、それはもう楽しそうに、意地悪く笑っているではないか。
その笑みを見てようやく理解した。なんだ、もう、わたしは以前のわたしではなかったのだ。
泉さんは全部分かった上でこうして指を滑らせている。

「最低、最低、サイッテイ…」
「はあ〜?そういうのいいから早く言いなよね」

ただのファンで、仕事も覚束なかったわたしはいつの間にかこの人にとって、手元においておきたい程度の存在にはなれていたらしい。

「もう一回だけ聞くよ。どうして緊張してるわけ?」
「す、きな、人と、二人だから…」
「ふぅん、じゃあ俺と一緒だねぇ」
「そんなふうには見えませんよ…」
「先輩だからね〜?」

泉さんは満足そうに頷くとよしよしと頭を撫でた。
あんまり優しい顔しないでくださいよ。さっきまで意地悪な顔してたくせに。これ以上ドキドキさせられたらほんとにダメになっちゃうんですよ。
泉さんが椅子ごと寄ってくるせいでただでさえない距離がさらに縮まった。

「近いです!」
「わざとに決まってるでしょ」
「さ、最低…」
「嬉しいくせに」

そう言われてしまえば、口ごもるしかない。足元でぐしゃぐしゃになった可哀想な資料をみやると「大丈夫、あとで手伝ってあげるよぉ」ととびっきりの甘さで囁かれた。
どうやら資料の完成はぎりぎりになりそうだ。けど、まあいいか。今はこの人の背中に手を伸ばせる幸せに集中しよう。


(めめ様。書かせていただいてありがとうございました!)


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