にせものamabile。 | ナノ

 G-dur 22

「おい、橋本」
「はあい」
「お前、まだピアノ続けてんの」


お茶会のあと、上村さんに呼び止められた。


「はい、特待生だからレッスンは必須ですし。上村さんも続けてますよねえ?」
「まあな。でも大学は無関係のところに進むと思う」
「え…」
「元々親にやらされて始めたわけだけど、ピアノ自体は嫌いじゃねぇ。むしろ、なんだかんだで一生弾き続けんじゃねぇかなとさえ思う。ただ、俺にはやりたいことは他にもあるし、そこに絞るつもりはねぇってことだ」
「…」
「まだ1年のお前には早いかもしれねぇけど、ちょっと頭の片隅にでも入れとけ。やっぱ3年になると色々考え始めるからよ。色んな選択肢があるってことを忘れんなっつーわけで情報きょーゆー」


上村さんは僕の頭をぐしゃぐしゃーっとかき混ぜて、じゃあなと言って去っていく。でもそこで僕はふと思い立った。


「あの!」
「あ?」
「もしかしてあのピアノ…」
「…あぁ、親衛隊の部屋の?俺のに決まってんじゃん」


上村さんはにやりと意地悪い顔で笑った。口角を片方だけあげて、まるで悪役みたいだ。でも、美しい人は何しても絵になるんだなあとぽけーっとしてしまう。


「弾きたいなら好きなときに弾けよ、お前なら許してやる」


昔からなーんかほっとけねぇんだよなぁと笑いながら、今度こそ上村さんは帰っていった。見た目はすごく変わっているけれど、やっぱり上村さんは菫さんなんだなあと思った。


僕は人見知りが激しかったし、コンクールのときにガチガチになることも少なくなかったけれど、菫さんはそんなとき黙ってキャンディを一粒くれた。何にも言わなくても、優しさが伝わることがあるのだと、僕はそのとき思ったのだ。

菫さんに会うたびにほっこりして、口数の少なかった僕が何かを話しかけることはなかったけれど、菫さんの雰囲気にはいつも癒されていたし、僕が「菫さん」と呼ぶたびに、「なあに」と首を傾げて微笑む顔には毎回見惚れた。

昔のことを思い出して、僕は思わずふふっと笑った。


僕はぽっけから携帯を取り出して、電話をかけた。


「もしもし、先生突然のお電話申し訳ありません、橋本です。あの…僕、出ます。コンクールに、出ます。」


もう迷わない。

僕はやっぱりピアノが好きだ。それは今のところ、のことだし、いつか上村さんのように
他のものに目を向けることもあるかもしれない。未来のことなんてわからないけれど、今の僕はピアノを弾きたいと思っている。これは間違いないことで。


先生のためではない。先生の顔をたてたいとか、そういうことではなく、


僕が。


僕が、コンクールでピアノを弾きたいんだ。





G-dur 終

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