▼ G-dur 22
「おい、橋本」
「はあい」
「お前、まだピアノ続けてんの」
お茶会のあと、上村さんに呼び止められた。
「はい、特待生だからレッスンは必須ですし。上村さんも続けてますよねえ?」
「まあな。でも大学は無関係のところに進むと思う」
「え…」
「元々親にやらされて始めたわけだけど、ピアノ自体は嫌いじゃねぇ。むしろ、なんだかんだで一生弾き続けんじゃねぇかなとさえ思う。ただ、俺にはやりたいことは他にもあるし、そこに絞るつもりはねぇってことだ」
「…」
「まだ1年のお前には早いかもしれねぇけど、ちょっと頭の片隅にでも入れとけ。やっぱ3年になると色々考え始めるからよ。色んな選択肢があるってことを忘れんなっつーわけで情報きょーゆー」
上村さんは僕の頭をぐしゃぐしゃーっとかき混ぜて、じゃあなと言って去っていく。でもそこで僕はふと思い立った。
「あの!」
「あ?」
「もしかしてあのピアノ…」
「…あぁ、親衛隊の部屋の?俺のに決まってんじゃん」
上村さんはにやりと意地悪い顔で笑った。口角を片方だけあげて、まるで悪役みたいだ。でも、美しい人は何しても絵になるんだなあとぽけーっとしてしまう。
「弾きたいなら好きなときに弾けよ、お前なら許してやる」
昔からなーんかほっとけねぇんだよなぁと笑いながら、今度こそ上村さんは帰っていった。見た目はすごく変わっているけれど、やっぱり上村さんは菫さんなんだなあと思った。
僕は人見知りが激しかったし、コンクールのときにガチガチになることも少なくなかったけれど、菫さんはそんなとき黙ってキャンディを一粒くれた。何にも言わなくても、優しさが伝わることがあるのだと、僕はそのとき思ったのだ。
菫さんに会うたびにほっこりして、口数の少なかった僕が何かを話しかけることはなかったけれど、菫さんの雰囲気にはいつも癒されていたし、僕が「菫さん」と呼ぶたびに、「なあに」と首を傾げて微笑む顔には毎回見惚れた。
昔のことを思い出して、僕は思わずふふっと笑った。
僕はぽっけから携帯を取り出して、電話をかけた。
「もしもし、先生突然のお電話申し訳ありません、橋本です。あの…僕、出ます。コンクールに、出ます。」
もう迷わない。
僕はやっぱりピアノが好きだ。それは今のところ、のことだし、いつか上村さんのように
他のものに目を向けることもあるかもしれない。未来のことなんてわからないけれど、今の僕はピアノを弾きたいと思っている。これは間違いないことで。
先生のためではない。先生の顔をたてたいとか、そういうことではなく、
僕が。
僕が、コンクールでピアノを弾きたいんだ。
G-dur 終
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