高校に入学してすぐのことだ。私がどこかで落とした定期をわざわざ教室まで届けてくれたのが、先輩だった。十人に問えば十人が整っていると認めるような顔立ちをした先輩は、そのとき既に格好良い先輩として新入生の間でも有名だった。そんな先輩が教室に現れて、クラスでも目立たない私の名前を口にしたことにクラス中が静まり返った。私は訳も分からないまま教室の外まで出て行き、先輩が制服のポケットから見覚えのあるパスケースを出したのを見て、初めて先輩の用件と定期紛失の事実に気がついたのだった。
慌ててお礼を言って、定期を受け取った。しかし用件が果たされても先輩は何故か立ち去らず、私たちはその場で立ち話をすることになった。ぎこちなく話す私と滑らかな口ぶりの先輩の会話にクラス中の女子が聞き耳を立てていたのがわかったが、大したことを話していないとわかると彼女らの興味はいくぶん削がれたようだった。聞かれたことに返事をするので精一杯な私とは対照的に、先輩は話すのが上手だった。先輩はわたしの出身中学を問い、私の答えを聞いてそれならば何部の誰某と同じだと言い、私にその誰某を知っているかというような新たな質問をした。そんな風にして途切れることなく続いた会話を打ち切ったのは、先輩でも私でもなく予鈴の鐘だった。
「あ、もうそんな時間?」
予鈴を耳にした先輩はそう言って、それから、「長居してごめんね」と続けた。未だぎこちなく、大丈夫です、とだけ返した私に先輩は笑った。お世辞にも楽しい会話を提供できたとは言えない初対面の後輩に向けるにしては嫌味のない爽やかな笑顔だった。
話せて楽しかったよ、と言った先輩は最後まで愛想の良い人だった。
時間にしてたった15分の立ち話。
その15分間で先輩は笑い、話し、いとも容易く私を撃ち抜いた。熱に浮かされたようにふらふらと教室に戻った私に友人が詰め寄る。どうだったなんだったと騒がしい友人たちに、私は小さく、すごかった、と返すので精一杯だった。そして私は入学早々、先輩に憧れる有象無象の女子生徒の一人になり果てたのだった。
×××
奇跡のような一件以来、私が先輩と関わることは当然なかった。私の恋は進展を望むべくもなく、ただ眺めているだけのものだったが、それはそれで楽しいものだった。友人と先輩の部活を見に行ったり、登下校時に先輩の背中を見かけては友人と教室ではしゃいだり、今思えばそれは恋愛感情ではなくアイドルの追っかけをする心情に近かったのだろう。そんな風だったから、高一の終わり、先輩に恋人が出来たという噂を聞いたときも、私たちは特に動揺もしなかった。私たちが見かける先輩は変わりなく格好良い先輩だったからだ。
×××
その日、言い出したのはどちらだっただろう、私と友人は先輩の恋人を見に行った。
その人は先輩と同じ学年の女の人で、先輩とは対照的に目立たない、それでいて確かに綺麗な人だった。「先輩、センスいい」。友人の口から零れた言葉に、私も全面的に同意だった。先輩に群がるようないかにも華やかな女子とその人は全く違っていた。先輩はそんな人を恋人として選び、その人はそれに応えた。そのことにお門違いの誇らしささえ感じるほど、お似合いの二人だったのだ。
それでも。
先輩の長い指が、彼女さんの長い黒髪をひとすじ掬ったとき。見たことのない穏やかな表情で先輩が微笑むその光景から、私は目を離すことができなかった。
×××
友人は憧れるだけの恋に見切りをつけて、彼氏を作った。
「なんていうか先輩は、憧れっていうか、アイドルっていうか」
「うん、わかる」
相槌を打ちながら、私は、髪を伸ばすことにした。
×××
さらに半年経って、進級して三年生になった先輩が部活を引退したころ、私は先輩に告白した。私の髪は長くなっていた。
先輩は私のことを覚えては居ないようだったが、怪訝な顔をしたりはしなかった。有象無象から踏み出そうとする女子生徒は同じく数えきれないほど居たから、先輩も当然慣れていたのだろう。
先輩は私の告白を黙って聞いていた。
入学してすぐに定期を拾ってもらったことを話して、教室の前の廊下で話したことを続けて、ただ伝えたかったのだと結んだ。先輩はその間も黙っていたが、私が話を終えたあと、少しの沈黙を開けてから口を開いた。
「その髪、わざわざ伸ばしたの?」
「...…はい」
シャンプーは何使ってる?、柔軟剤は?と先輩は続けた。答えるだけの私と問いかける先輩、という構図は二回目だった。
ふうん、と言って、先輩は一度口を閉じた。
「それってさ、わざと?」
×××
先輩は私の浅はかな目論見にすぐに気が付いた。そしてそれも私の予想通りだった。
「居るんだよね、二番目でも良いっていう子」
でも、君みたいな子は初めてだなあ、と先輩は言った。
「先輩が、彼女さん一筋なの、知ってますから」
ふぅん、と形の良い柳眉が上がる。
先輩が恋人をとても大切にしている、というとは有名な話だった。それこそ、ともすれば軽薄とも言える先輩の印象に反した清い交際をするくらいに。
そして取り立てた特徴もない有象無象の私が付け入る隙は、そこにしかなかった。
息を吸う、声が震えないように、拳を強く握る。
「憧れの先輩に、浮気なんて噂を立てさせたくないので」
「浮気はさせる気なのに?」
からかうような笑みに、できるだけ私は微笑んでみせる。迷いも恐れも見抜かれない様、綺麗に。
欲の無い生き物は居ない。
隣り合う二人を見て以来渇き続けた私と同様に、お行儀良く半年を過ごした先輩も充分に飢えているはずだった。
「バレなければ、浮気にはならないでしょう?」
「それもそうだ」
私を引き寄せた腕はつまり交渉成立ということで、それはなぜだか、泣きたくなるくらい苦しかった。
そんな心を見透かされないように、何も見えないように、私は先輩の腕の中で目を瞑る。
だって、諦められなかった。