二月に入って少し、今年度も残すところあとひと月となった。
 そんなある金曜日の放課後、尾浦は教室に残っていた。最初の頃は何人かがいて賑やかだった教室も、夕方六時を過ぎて今では尾浦一人になっている。
 携帯を触って時間を潰すにも飽きてきたころ、突然教室の後ろの扉が開く音がした。やっと来たか、と振り向く。

「あれ、山尾」
「えっ、あ、尾浦くん」

 そこに立っていたのは山尾だった。友人である河内の彼女。予想しなかった人物の登場に驚いた尾浦同様、山尾も少し驚いた表情を浮かべていた。人がいるとは思わなかったらしい。
 尾浦の今の座席は廊下側の真ん中だ。教室の外からでは尾浦の姿が見えなかったのだろう。

「委員会おつかれ」
「ありがとう」
「忘れ物?」
「うん。尾浦くんは?」
「俺は彼女待ち」
「バスケ部だっけ」
「残念。バレー部です。バスケ部はその前」

 惜しい、と笑ってみせると山尾も笑った。

「そっか、それで部活終わるまで待ってるんだ」
「そ。山尾こそ。委員会ってことは、コーチも居たんでしょ。コーチとは帰んないの?」

 尾浦の言葉に山尾が一瞬きょとんとする。質問の意味がわからない、という顔だった。それから理解したのだろう、山尾が慌てて口を開く。

「あ、先に玄関行ってもらってるの。遠回りになって悪いから」
「納得」

 図書委員の活動がある図書室は、各教室のある方向とは逆に位置している。とはいってもそれほど遠いわけではないし、尾浦の知る河内がそれくらいの労を厭うとも思わなかったが。
 しかし、それはいかにも山尾らしい気遣いだと思った。河内もそう感じたのだろう。食い下がるでもなく、大人しく先に玄関に向かう河内の姿は容易く想像出来た。

「じゃあ早くコーチのとこ行ってやりなよ」
「行きますよー」

 でもちょっと待ってね、と言って山尾が肩に提げた学生鞄をごそごそと探る。そして取り出したのは小さな袋だった。それを持って山尾が尾浦の席に近づいてくる。

「尾浦くんが残っててちょうどよかった」
「?」
「はい、これ」

 ハッピーバレンタイン、と付け足された言葉に合点が行った。そういえば今日はバレンタイン前の金曜日だった。朝から尾浦もいくつかご相伴に預かっていて、持ち寄ったお菓子の交換に勤しむ女子の中に山尾の姿もあったことを思い出す。

「おー、ケーキじゃん」
 透明な包装の中身はケーキだった。おそらく山尾の手作りなのだろう。カップケーキではなく、ホールから切り出したものだ。珍しいなと言えば、山尾は少し照れたように笑った。
「実は一つずつ作るより簡単なの」
「へえ」
 それなりに数を作るものだから、やはりあれこれ工夫はするものらしい。受け取っていいの、と改めて聞くと山尾は笑って頷いた。

「女の子とまとめてだから、手作りでごめんね。平気?」
「やっぱ気にするもん?」
「苦手な人もいるし、尾浦くんの場合は彼女もいるから」

 でも手作りも受け取ってたみたいだからと続いたあたり、なかなか気を遣うイベントらしい。女子は大変だ、と他人事ながら思う。

「でも渡せてよかったよ」
「悪いね、気を遣わせて」
「いえいえ。尾浦くんにはお世話になったから」
 それが何を指しているのかはすぐにわかった。尾浦がわかったのが山尾にもわかったのだろう。「だから、です」と改めて強調される。
「別にいいのに」
「私が良くないのー」
 そう言ってから、山尾が息を吸う。あのね。

「尾浦くんで良かったって、思うよ」

 その言葉に、一瞬息を呑んだ。山尾は一人で続けた。

 本当にね、なんでもないって思ったんだよ。きっとどんな言葉で慰めてもらっても、そんな風には思えなかったと思う。私の代わりに怒ってくれたり、一緒に悲しんでくれたりしても、きっと。

 ぽつぽつとそういうようなことを言った山尾の言葉を聞いて、尾浦は自分の勘違いに気が付いた。懸命に言葉を続ける山尾は尾浦の様子には気付かない。良かった、と思うのと、山尾が言葉を切るのは同時だった。

「だから、ずっと言いたかったんだ」

 山尾と目が合う。尾浦の頭にあの放課後が鮮明に蘇る。射し込む夕焼けの茜色。山尾の睫毛の影。唇の感触。緊張で息を呑んだこと。『おうらくん、目の色、明るいんだねえ』その後、涙が出るほど笑って、そのことに本気で安堵したこと。


「あの日、笑ってくれて、ありがとう」


 それは、あの日の尾浦が思ったのと同じだった。山尾、と言いかけて、続けるべき言葉を持たないことに気が付く。無言の尾浦に、山尾が困ったような顔で笑った。

「蒸し返してごめんね」
「いや、」

 何か言いたかった。いつも軽快な口は大事なときに仕事を放棄する。今も、あの放課後も。それでも、山尾は良かったと言うのだ。親友である千葉でも今の恋人である河内でもなく、あの日居たのが、尾浦で良かったと。

「それだけ伝えたかったの」
 それじゃあもう行くねと、山尾がドアに手をかける。その背を見て、咄嗟に言葉が口を衝いて出た。

「山尾、」
 尾浦こそ、山尾に伝えたいことがある気がした。ずっと。言いたかったことが。
「なぁに」
 振り向いた山尾が尾浦の目を見る。掴みかけたはずの言葉が消えて、またわからなくなる。「あの、さ」「うん」結局口に出来たのは、いつかも言ったような、くだらない軽口だった。

「コーチとキス、した?」

 尾浦の質問に、山尾は少し目を丸くする。それから、きれいに笑った。

「……ひみつ」

 その言葉で全部わかった。自分がほんとうに言いたかったことも。それを言う必要はないことも。
「ていうか、尾浦くん、セクハラ」
「ひでえ」
「冗談だよ。瑞樹なら言うけどね」
「「違いない」?」
 最後の言葉は二人重なった。驚いた尾浦に、山尾が悪戯っぽく笑う。
「尾浦くん、それ口癖?」
 前も言ってたね、という山尾に合わせて、尾浦も笑った。「そうかも」

 じゃあまた来週、と山尾が言って、今度こそ山尾が教室を出ていく。今度こそ尾浦も何も言わなかった。教室の扉が閉まるのを黙って見ながら、尾浦はぼんやりと思う。

 いいことを聞いた。いや言われてはないけど、あれは言われたも同然だ。次話すときは存分にからかってやろう。河内は、きっとはじめてだったのだろう。まあ、山尾のはじめては、俺だけど。

 そこまで考えて、すっと頭が冷えるのがわかった。「や、違うから」ひとり呟く。あれはただの詭弁だ。

「(最初から、『はじめて』じゃなかった)」

 それだけの事実が痛かった。
 馬鹿みたいだと思った。今更気付くことも、それを痛いと感じることも。おかしくて笑えてくるくらいだ。それなのに、口から出るのは乾いた笑いで。

 今更認めたところで何もないけど。早くに認めていたって、尾浦は河内を応援しただろう。けど、と思う。けど、もしも。それで何も変わらなかったとしても、せめて。

 本当の『はじめて』だったら、なんて。

 差し出せる『はじめて』なんてもう何もないくせに、そんなことを思う自分が女々しくて、それからおかしくて、笑った。

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