それからの出来事について、特に話すことはない。
夏休み明けにまた席替えがあって、尾浦と山尾は親密な隣人から少し親密なクラスメイトになった。
席が離れたぶん疎遠になったのは当然のことで、良い兆しでもあった。
もとよりただのクラスメイトなのだ。尾浦と山尾を結び付けたものがあるとしたら、それはあの放課後に違いなく。
「おはよう、尾浦くん」
「おはよ」
元のクラスメイトの距離に戻ることは、あの放課後の出来事が山尾の中で風化しつつあることを意味していた。
「山尾と、付き合うことになった」
河内からそう報告を受けたのはある月曜日の帰り道でのことで、季節は秋から冬に移り変ろうとしていた。津島が真っ先に声をあげる。
「マジで!?」
「良かったじゃん、おめでと」
寝耳に水とばかりに驚いた津島とは違って、尾浦はなんとなくその報告を予想していた。この三人の中では、尾浦だけ踏んだ場数が違う。河内と山尾、二人の間の空気が先週までとは違う、というのは尾浦の目には明らかだった。
逆にいえば、尾浦以外で気付いた者はそういないだろう。さすが意外と隠し事のうまい山尾。それから河内も。片思い中のあの様子からして、付き合い始めたらあからさまに相好を崩すかも、とすこし楽しみにしていたのだが。
二人の祝福に、河内はぎこちなく頷いた。長い付き合いだ、硬い表情は照れているせい。わかっているから、津島のテンションがますますヒートアップする。
「ほんとよかったな、コーチ! どっちから?」
「俺、から」
「だよな!ずっと好きだったんだもんなー。で、で、なんて言った?」
「なんでそこまで言わなきゃいけないんだ」
「ケチ! じゃあいつから?」
「……金曜。委員会の帰り」
「あ、それは言うんだ」
先週の金曜ということは、尾浦の予想は本当に正しかったらしい。金曜日の委員会、とは放課後の図書当番のことだろう。
後期になってすぐの委員会決めで、河内と山尾はクラスの図書委員になっていた。もちろん尾浦と津島の企みで、千葉も巻き込んでのことだ。『というわけで、協力してほしいんだけど』尾浦がそう持ちかけたとき、千葉はあからさまに嫌そうな顔をした。
『いや、あからさますぎるでしょ』
『うちのコーチマジ優等生だから。委員会くらい自然自然』
『まあ、たしかにそうだけど……』
『協力って言っても、山尾がなんか委員会に興味があるようだったら、それに立候補するよう勧めてほしいってだけ。もちろん無いならないでいいし』
『……わかった』
『やった』
『でも、決めるのは幸だからね』
『わかってるって』
千葉がどういう話をしたのかはしらないが、その後の委員決めで山尾は図書委員会に立候補した。尾浦と津島に山尾が立候補したらチャンスだと思え、と言い含められていた河内も同じく。
何はともあれ話をしなければ距離も縮まるまい。荒療治じみたそれは思惑通りに功を奏した。はじめこそ図書当番の二人の元へ顔を出して一緒に話をしていた尾浦だが、すぐにその足も遠のいた。よくつるむ三人の中では際立って読書家の河内だ。話せるようにさえなれば話題には困らなかったらしい。
『好きな本の話をした』、『本の貸し借りの約束をした』。律儀な河内の報告を聞くたび、津島と二人で顔を見合わせて笑ったものだ。
そんなことを思い返しながら、河内からあれこれ聞き出そうとする津島に尾浦も便乗する。ざっと数えて一年半。一途な友人の吉報に気分は高揚していた。
「水臭いよなあ、すぐに連絡くれたらよかったのに」
「お前に倣っただけだ」
そう言われて気付く。そういえば、尾浦も付き合った別れたの報告をするときは毎回対面だった。わざわざ連絡をする必要を感じないからだ。なるほど、と納得しかけた尾浦に津島が突っ込みを入れる。
「いや、尾浦とコーチじゃ事の重大度が違うだろ」
重大度が! と津島がわざわざ繰り返して強調する。これにもなるほどと納得した。
「それもそうだ、言えよ」
「や、尾浦は納得しちゃだめだろ」
「尾浦は自分の行いを省みた方がいい」
「え、なんで俺が責められる流れなの」
思いがけず二人から責められて、尾浦は慌てて話の矛先を変えた。
「で、晴れて彼女持ちのコーチくんは俺らと帰ってていいの?」
「ああ。今日は千葉の部活が休みだから」
「きゃーコーチくん理解あるー!」
「津島うるさい」
「じゃあ一緒に帰ったのは金曜だけ?」
「ああ」
へー、と津島が途端にニヤニヤと笑う。
「手、繋いだ?」
「……うるさい」
尾浦もそれに追従する。
「キスは?」
「するか馬鹿!」
直前の質問とは比べものにならないほどの否定ぶりに、尾浦は津島と顔を見合わせた。そしてにんまりと笑って、二人同時に河内を見る。
「つまり手は繋いで、」
「キスはまだってことだ?」
「……」
沈黙はこの場では肯定に等しい。
そのことに河内も気が付いたのだろう。「もうお前らには絶対何も言わない」と言ったきり黙り込む河内に、津島が慌てて謝る。
「ごめんごめん」
「……」
「軽くない男、いいよー。よっ誠実!」
「死ね」
無表情のまま河内が吐き捨てたように言う。これに関しては津島が悪い。このまま津島に任せていたら本格的に河内は機嫌を損ねてしまうだろう。半分は自分のせいでもあることを棚に上げて、尾浦は二人をとりなすことにした。
「あんまからかうなって。まあ、」
俺は山尾としたことあるけどね、キス。
言いかけて、言いかけたところで絶句した。
不自然に黙り込んだ尾浦を、河内と津島が振り返る。
「尾浦?」
「どうした、急に」
「や、なんでもない」
慌てて笑って取り繕う。二人がますます訝しげな顔をする。
どうした、は尾浦の台詞だった。心臓が嫌な音を立てる。鼓動が頭を揺らす。口をついて飛び出しかけた言葉が信じられなかった。
今、自分は、何を。
そこでちょうど交差点にさしかかった。助かったと思いながら、尾浦は右方向を指差す。
「じゃ、今日俺こっちだから」
「用事?」
「そ、デート」
「出た」
夏休み明けてすぐ、尾浦には他校生の彼女が出来ていた。指差した方向はその彼女の高校がある方角だ。
「ってことで、津島あとの尋問は頼んだ」
「おう、任せろ」
「やめろ」
意気込んで親指を立てた津島に、河内が疲れた顔をする。どうやらうまく意識を逸らせたらしい。安心したところで二人に背を向けて、また河内に向き直る。
「コーチ」
「?」
「おめでと」
それは本心からの言葉だった。河内が少し驚いて、それから表情を和らげる。「ああ」穏やかな表情だった。その横に立つ津島も、笑って河内の背を叩く。
「めでたしめでたしってやつ?」
津島の言葉はまさにその通りで、尾浦も心の底から同意する。
「違いない」
なぜ心臓はまだうるさいのか。失態をやりかけたのが尾を引いているから。
なぜこのタイミングで秘密を破りかけたのか。安心して気が緩んだから。
逆に、なぜ今まで律儀に秘密を守り続けていたのか。それが『秘密』だったから。
全部それだけの話だ。
だから尾浦は、それ以上自分の失態の意味を考えないことにした。