戻ろうかと言われたきり、尾浦と山尾の間に会話はなかった。山尾は何も言わなかったし、尾浦がかけるべき言葉を探しているうちに教室に辿り着いてしまったからだ。時間にしてわずか数分、それがこの世で一番長く感じられるくらい重い沈黙だった。

 先に教室に入った山尾がごみ箱を所定の位置に戻す。その姿を尾浦はただ黙ってみていた。振り返った山尾が尾浦を見て、言う。

「日誌、」
「え」
「日誌、ごめんね。提出ぎりぎりだったでしょう」
「いや、今日は予定もなかったし、いいよ別に」
「そっか」

 会話が終わって、また二人の間に不自然な沈黙が生まれる。じゃあまた明日、と言ってあんなことがあった女子を置いて帰るのはさすがにはばかられた。かといって、なんて声をかけたらいいのかもわからない。尾浦には、山尾が今、誰かを欲しているのか、それとも一人になりたいと思っているのかさえわからなかった。

 どうすべきか考えたところで、山尾のスクールバッグを肩にかけていたことを思い出す。
「あ、カバン。山尾探しにいくとき、貴重品あったらあれだから勝手に持ち歩いてた。返す」
「ありがとう」
「明日の英語って課題あったっけ」
「ないよ」
「千葉練習試合終わったかな」
「多分まだ、だと思う」
「そっか。ていうか津島もコーチも、日直だっていったらさっさと帰りやがってさ。冷たいよな」

 山尾はどこか気もそぞろといった形だった。それもそうだろう。尾浦はこの場に残ってしまったことを後悔した。しかし今更立ち去ることこそ不自然で、なんとかして会話を続けようとする。焦れば焦るほど、自分が空回っていくのがわかる。山尾はぼんやりとしている。沈黙に何かを思うほどの余裕もないのかもしれない。

 そして先に根をあげたのは尾浦の方だった。
「あ、あー……」
「……」
「気にしてるよな、キス」

 突然の蒸し返しに、山尾はあからさまに動揺してみせた。だろうなあ、と尾浦は思う。本当はもっと上手く会話を持っていくつもりだったのだが。どちらにせよ言うつもりだったことについては、自分でも傷口に塩を塗るような真似だとは思う。が、避けるべきではない話題である判断したのは、山尾がこのことを誰にも言わないという確信があったからだ。親友である千葉にも。さっきも、山尾の は目に見えて気に病んでいるのにもかかわらず誤魔化そうとしていた。そういう性格なのだ。だから、出来事を知る自分がなんとかしないと山尾はこの出来事を黙って抱え込んでしまうような気がした。
 尾浦の言葉に動揺を見せはしても、山尾はなにも言わなかった。

「気にするなっていうのも無理だろうけど、気にしなくていいっていうか、あの先輩が特別外れだっただけだから、男が全部ああってわけじゃないし、山尾が怖がる必要もないっていうか」
「……」
「初めてだったとしてもノーカンっていうか、ほんと気にする必要ないし、」
「……」
「っていうのも、無理だよなぁ……」

 山尾はなにも言わないどころか、少し俯いていた。何かを言えば言うほど山尾を傷つけている気さえして、尾浦の言葉の勢いが少しずつ削がれていく。

「なんかこう犬に噛まれたみたいな……」
「……」
「あっあとほら、俺も初めては無理矢理だった!キス!!」

 口にしてすぐに気がつく、完全にやらかした。同じ話題を重ねてどうする。慌てて山尾の反応を窺う。しかし、尾浦の予想に反して、この話題は山尾の興味を惹いたようだった。さっきまで下を見ていたはずの山尾と目が合う。

「そうなの?」

 思いがけず反応が得られたことが嬉しくて、食い気味で言葉を返す。

「そーなの、これ俺のトップシークレットな。中学んとき、二個上の先輩だったかな、突然」

 正直トップシークレットどころか隠し事でさえないのだが、他でわざわざ話したこともないので嘘にはならないだろう。嘘だとしても、悪い嘘ではないはずだ。
「だから、俺ら、仲間だな」
 ここにどちらかの友人が居たら、どんな仲間だと突っ込まれていただろうが、今ここにいるのは尾浦と山尾だけだ。「なかま……」山尾が神妙な顔で繰り返した。その顔から先ほどまでの狼狽や消沈が消えているのを確認して、尾浦は息を吐く。よかった、と思った矢先、山尾が口を開いた。「尾浦くんも、」

「そのとき、びっくりした?」
「……まあ、ちょーびびったよね」
「怖かった?」
「あれはね。おれそのとき中一だったし」
「中一……」

 年齢を聞いた山尾が悲壮な顔をする。
 正直なところ、そのときの尾浦の感想は『こんなものか』だった。そもそも口から飛び出るまでそんな出来事があったことさえ忘れていた。今まさに傷付いているだろう山尾の手前、話を合わせてはいるが、山尾と尾浦では根本的に価値観が違うのだ。だから山尾の心配はまったく無用のものではあるのだが、尾浦の言葉を信用した山尾は、過去の尾浦にいたく共感と同情を寄せてくれているらしかった。「あの、」再び、真剣な顔をした山尾が口を開く。

「さっき尾浦くん、『気にする必要ない』って言ってくれたよね」
「おう」
「びっくりして怖かったあと、そう思えるようになったのって、どうして?」
「……それ、は」

 答えを考えるふりをして、山尾からそっと目を逸らす。
 繰り返すが、びっくりしたとか怖かったとかは完全な嘘だ。尾浦ははじめから気にする必要を感じなかったし、実際気にも留めなかった。しかし、先ほどの発言撤回するわけにもいかない。どう答えたものか。

「……に、」
「に?」
「二回目、かな」

 苦し紛れの答えだった。ちなみに、実際の尾浦の二度目のキスは一度目と引き続き同じ場面、しかも尾浦からやり返す形だったので完全に嘘だ。しかし山尾はその嘘を無事信用してくれたらしい。なにやら考え込む様子で、「二回目、にかいめ」と繰り返している。

「良い思い出で、上書き、みたいな?」
「そうそう、上書きしたから一回目はノーカンみたいな」
 自分でもそんな話があるかと思ったのだが、山尾はどうやら納得したらしい。そんな手が、となにやら感心しているようにさえ見える。その表情は先ほどまでとはうってかわって明るいもので、それを見て尾浦もやっと人心地ついた気になった。

「そうそう。だから、気にする必要とかマジでないからね。さっきも言ったけど、犬に噛まれたと思えばいいよ」
「そこまで?」
「そこまで言うんだなぁ。ぶっちゃけキスなんかそれくらいのもんだって!気にすることないない」
「それはそれで開き直りすぎじゃないかな……?」
 そう言って山尾がすこし呆れたように笑う。先ほどまで見せていたぎこちないものとは違う、ちょっと困ったみたいな、いつも通りの山尾の笑顔だった。それから笑うのをやめて、山尾がぽつりと零す。
「でも、私も早くそれくらい開き直りたいな」
 思い返せば、このときの尾浦は完全に調子に乗っていた。ごみ集積場の件からそこまでずっと続いていた緊張感から解放されて、いつも以上に馬鹿になっていたと言ってもいい。

「あ、じゃあ今俺とやり直すのは?お互い一回目ってことにしてさ」

 そして、いつも通りというのは尾浦の気のせいで、きっと山尾もまだ気が動転していたのだ。『幸は思い悩むと変な方向に突っ走るから』。
 自分の失言に気が付いた尾浦が口を開くのと、山尾がぎこちなく頭を下げるのは同時だった。思いがけない山尾の挙動に尾浦は一瞬面食らう。先に声を発したのは山尾だった。

「お、おねがいします……」


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