影はすぐ離れた。山尾の彼氏が離れたからだ。しかし腕を掴んだままであるせいで、それ以上離れもしなかった。

「いやそれはないでしょ」

 思わず口をついて出た声に、先に反応したのは山尾だった。尾浦に背を向けていた山尾が、弾かれたように振り返る。山尾の顔は蒼白だった。一方彼氏の方はというと、突然の闖入者に特別驚いた様子もなく尾浦に目を向けた。尾浦のことを覚えていたらしい、一瞬目を丸くして、穏やかに微笑む。卒のない笑みだった。

「ああ、この前の」

 まさか『見られていない』と思っているわけではないだろう。それでもそういって笑いかけてくるあたり、尾浦の登場は彼にとって問題ではないようだった。こんないつ誰がくるともしれない場所で半ば無理やりキスをするくらいだ。こうして誰かの目に 入ることさえ見越していたのかもしれない。
 尾浦と山尾を交互に見て、山尾の彼氏が山尾の顔を覗き込む。山尾は一瞬体を竦めたが、未だ掴まれている腕により身を引くことは阻まれた。一連の山尾の反応を気に留めるでもなく、彼氏が山尾に声をかける。

「あれ、山尾ちゃん、知り合い?」
 その質問に答えたのは尾浦だった。
「クラスメイトの尾浦です」
「そう」
 それで、そのクラスメイトの尾浦くんは何の用? おそらく山尾と話すときはいつもこの調子なのだろう。その口調は先日男友達に囲まれていたときのものとは違っていた。そのこと自体は当然といえば当然の話だが、尾浦からすれば胡散臭いことこの上ない。
「今日日直なんですよ、俺ら」
「そう。それは引き止めて悪かったね」
 その言葉は尾浦ではなく山尾に向けられていて、どうやら山尾の彼氏はなんとしても尾浦を会話から除け者にしたいらしい。が。
「本当ですよ。山尾待ってたら日誌間に合わないところだったんですから」
 尾浦はへらへらと笑って見せる。そういうのが許される男だと自覚している。
「ってわけで、山尾とそこに落ちてるごみ箱返してもらってもいいですかねー」

 彼氏はやっぱり尾浦に向けての返事をしなかった。「だってさ」わざわざ山尾に向き直ってからそういって、掴んでいた腕をようやく離す。

「じゃあまた明日、昼休みに」
「や、もう会わなくていいんじゃいすか?」

 被せるようにして発した尾浦の言葉に、山尾の彼氏が初めて手応えのある反応を見せた。一瞬、微笑む瞳が剣呑な光を帯びる。
「それは、どういう意味で?」
「はじめに言ったとおりです。むりやりキスとかそりゃないっすわー」
「なんだ、見られてたのか。むりやりに見えた?」
「ちょーむりやりでした。1ヶ月だかなんだか知らないけどがっつく男は嫌われますよ」
「がっつく、ね」
 それ以上反論する気もないらしい。先ほどの敵意も本当に一瞬のことで、山尾の彼氏が改めて笑う。

「忠告ありがとう。誤解があるようだから改めて二人で話すことにするよ」

 あからさまに『二人で』を強調される。分が悪いのは尾浦の方だった。相手の言うことは至極もっともで、これは山尾たち二人の問題なのだ。尾浦だって、他人の交際に口出しをするほど野暮でも暇でもない。少なくとも先ほど教室にいたとき、いや、先の出来事を目にするまでは、本当にそのつもりはなかったのだ。
 だけど、と思う。先程から黙りこくったままの山尾は、相当なショックを受けたのだろう。はたから見ても可哀想なくらい身をこわばらせていた。真面目な山尾のことだ。初めての彼氏だというくらいだから、さきほどのあれだっていわゆるファーストキスだったのかもしれない。

 別に、尾浦には"はじめて"についてのこだわりはない。「好きな人としか付き合わない」だとかいう理由で告白を断り続ける河内や、「まだ見ぬはじめての彼女」を夢見ている津島とは根本的に違う。尾浦にとっての"はじめて"は、"二回目の前の一回目"だ。〇と一の間にある差と一と二の差が同じであるように、一回目に特別な意味はない。
 勿論それを手放したことも受け取ったこともあるはずだが、たとえ差し出されていたとしても、そのはじめてになんの感慨を抱かなかったことは確かだ。最悪気づきもしなかったかもしれないし、こちらから差し出したはじめてなんて意識したこともない。我ながら薄情だと思いはしても、それを気に病んだことはなかった。尾浦を彼氏に選んだ時点で、相手もそのことについては承諾済みだ。

 だから、正直な話、山尾のはじめてがいくつ踏み躙られようと、山尾の彼氏が何を思って見栄を張ろうと、本当は尾浦にとってはどうでもいい話だ。だけど。
 嘘も無体も薄情も、そこには付き合う本人同士の合意があるべきだ、と思う。

「山尾、」
 突然呼び掛けられて、それまで石のようだった山尾が肩を揺らす。「先輩はこう言ってるけど」山尾が最初に振り返ったとき以来に尾浦の目を見た。

「山尾は先輩と『二人で』話し合いなんかできんの」

 少なくとも、一方が笑って一方が顔を青くするような付き合いに合意があるとは尾浦には思えなかった。おそらく山尾より数倍面の皮が厚いであろう男と、たかがキスひとつでここまで狼狽えるような山尾が対等に話し合いができるとも。
 一瞬の間があって、山尾がぎこちなく口を開く。

「でき、ない」
「ですって、先輩。嫌われちゃいましたね」
 山尾が明確な拒否を示したのが予想外だったのだろう、それまで尾浦に何を言われていても落ち着いていた山尾の彼氏が、ここであからさまな動揺を見せた。山尾ちゃん? 山尾に呼びかける声は気遣わしげだったが、それを受けた山尾は一歩、二歩と後ずさる。腕が離された今、山尾の動きを阻むものはない。二人の間に距離が開く。
 
「いやさ、そんなキスくらいで」
 そんなキス。たかがキス。その点は尾浦も目の前の男に同意だった。しかしそんな様子をおくびにも出さず、尾浦は大袈裟に驚いてみせる。

「えっ、そのキスひとつを我慢できなかった先輩がそれ言うんですか、ウケる。ていうか『もう1ヶ月』って理由が既に爆笑です、どんな理由だよ」

 そう言って軽薄に笑ってみせた尾浦を、山尾の彼氏が睨み付けた。馬鹿にしたのは伝わっているらしい。ようやく反応らしい反応が返ってきたことに気を良くしたのが自分でもわかる。先までのような腹の探り合いのような会話で溜まったフラストレーションを晴らすかのように、言葉が口をついて出た。

「先輩モテそうなのに、なんで焦っちゃったんですか? まさか初彼女だったとか!」
「……」
「あ、図星でした?」
 得心したように息を吐いて、続ける。

「モテはしたけどプライドが高いせいで彼女を作り損ねてー、今になって慌てて、急遽納得いく相手を見繕ってむりやり付き合ったって感じですか? わかるなぁ、もうすぐ夏休みですもんね」

「そんで1ヶ月も進展がないから焦っちゃったんだ? 童貞かよ。ダッセェの」

 言い終わってから、すぐにやりすぎたことに気付いた。それまで黙って尾浦を睨み続けていた山尾の彼氏が、こちらへ向けて一歩踏み出すのが見えたからだ。調子に乗って煽りすぎたのは明らかだった。これは殴られるな、サッカー部なら蹴られるんだろうか。尾浦がぼんやりとそう考えたとき、動いたのは意外な人物だった。

「せんぱい」

 山尾が声を上げて、横を通り抜けようとした彼氏の腕を掴む。馬鹿山尾、と思ったのも束の間、その腕は無理に解かれることもなく、意外なほどあっけなく山尾の彼氏が立ち止まった。見た目か大人しそうな性格か、それとも他の何かか、山尾の彼氏が何をもって山尾を彼女に選んだのかはわからないが、山尾に激昂した彼氏を止めるだけの効力があったということに、素直に驚く。

「何」

 直前まで怒りで我を忘れかけていたとは思えない冷静な声色だった。素っ気ない口調に怯む様子も見せず、山尾が彼氏を見上げる。
「最初に、ちゃんと言えなくて、すみませんでした」山尾も彼氏も互いから目を逸らさない。山尾が息を深く吐いて、吸った。

「先輩とは、やっぱり付き合えないです」
「……」
「だから、ごめんなさい、別れてください」
 そういって山尾が頭を下げる。


 結論から言うと、二人は尾浦の目の前でたしかに交際を解消した。
 頭を下げたままの山尾を見下ろしながら、彼氏は山尾の手を解く。
「わかった」
 それきり誰も言葉を発さなかった。尾浦が殴られることもなく、山尾の彼氏ではなくなった男子生徒が立ち去る。山尾に呼び止められて以降、彼と尾浦の目が合うことはなかった。一組の恋人同士は二人の間できっちりと関係を終わらせたのだ。はじめからそこに尾浦など存在していなかったかのように。


 ごみ集積所に残されたのは、尾浦と山尾と、倒れたごみ箱だけだった。先ほどまでよく回っていたはずの尾浦の口はもはや飾りと化していて、二人の間に沈黙が落ちる。

 先に動いたのは山尾だった。倒れたごみ箱を起こし、備え付けの箒で散らばったごみを集めはじめた山尾を見て、慌てて尾浦もそれに倣う。二人でやる必要もないくらいの単純作業は、尾浦が手伝ったことですぐに終わった。

 どうしたものか、悩む尾浦に山尾がぎこちなく笑いかける。山尾幸がこの状況で微笑んだことが意外で、尾浦は息を呑む。

「巻き込んでごめんね、尾浦くん。ありがとう」

 何も言えなかったのは、礼を言われる筋合いがなかったからだ。最後に至っては自分の溜飲を下げようという気持ちしかなかったし、したことといえばせいぜいきっかけ作りだ。これだって山尾を思って親切心で口を挟んだわけでもない。どういたしまして、と言うのは自力で交際を終わらせた山尾に失礼な気がして、黙って首を横に振る。

「遅くなっちゃったね、教室戻ろっか」
 気を遣われているのは明らかだった。それでも下手くそに笑う山尾にかける言葉が見つからなくて、尾浦はただ黙って頷いた。

「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -