おかあさんと呼ぶたび、その人は不思議そうな顔をして振り向いた。

「……なぁに?」
 呼びかけてから、振り向いて、返事をするまで、いつもちょっとだけ時間がある。そのことがいつもなんだか寂しかった。おとうさんが「珠」と呼びかけるときは、おかあさんもすぐに返事をする。なぁにミモトさん、と、歌うような声で。

『碧ちゃんのお母さんは、お母さんになってからの時間がまだとっても短いから』『きっとまだ慣れてないのね、お母さん、って呼ばれるの』

 そういってくれたのはうちに来ているお手伝いのひとで、そういうものなのか、とわたしは納得した。わたしも、ある日突然名前が変わったりしたら、きっと驚く。それからはそのことをあまり気にしなくなった。その人、みどりさんとわたしとおかあさんは呼んでいる、のおかげだ。

 そういうところだけじゃなくて、おかあさんは、あんまりお母さんらしくない人だった。ご飯の準備とか、しないし、掃除も、わたしと一緒にお手伝いをするくらい。だから、うちのお母さんは、もしかしたらおかあさんとわたしが呼ぶその人ではなくて、毎日うちに来てくれるみどりさんのことなのかもしれなかった。みどりさんの大丈夫よって笑ってくれるときの笑い方だとか、ご飯を作ってくれることだとか、うちの掃除をしてくれるところだとかは、おかあさんよりよほど"お母さん"らしかったのだ。
『みどりさんはうちのお母さんみたいね』とおかあさんもよく言っていた。
『年が近いからお姉さんかしら?』『それから、碧ちゃんと三人で三姉妹!』あれ、おかあさん、ほんとうにお母さんじゃないのかも。



「道路、危ないよ」
 わたしを振り返って、にこにこしていたおかあさんに追いついて、その手を掴む。

 おかあさんは、お母さんっぽくないだけじゃなくて、大人の人らしくもない。歩くのはゆっくりだし、道路、飛び出そうとするし、気になるものを見つけたら、すぐ立ち止まって動かなくなる。おかあさんは一人では出歩かなかった。危ないからだと思う。一人なら、家の周りくらい。それもあんまり出かけたりはしないみたいだった。
『ひとりで、出かけたりしないの』いつかのわたしの質問に、おかあさんは笑って答えた。『ここを出てまでひとりで行きたいところなんてないわ』『自分の居場所があるって、素敵なことなのよ』難しくてよくわからなかったけど、おかあさんは家が好きなんだと思って、うれしかった。

 掴んでいた手を一度解いて、おかあさんが手を繋ぎ直す。同じくらいの暖かさの手にぎゅう、と強く握られて、ふふふ、と頭の上から笑い声が聞こえた。わたしのいっとう好きな瞬間だ。
「碧ちゃんはしっかり者ね」
 おかあさんが、あぶなっかしいだけだと思うんだけどなぁ。そう思うけど、言わない。おかあさんに褒めてもらうのはすきだった。「碧ちゃんがいると安心ね」と言われることが、誇らしかった。

「手、大きくなったわね」
「それ、昨日も言ってたよ」
 ほとんど毎日こうして手を繋ぐのに、おかあさんは毎回驚いたようにいう。でも、これもやっぱりすきだった。おかあさん、が一番お母さんらしいときかもしれない。「たしかに言ったけど、」
「それならきっと、毎日大きくなってるの」
「そうかな」
「絶対そう」
 碧ちゃんはどんな大人になるのかしら、歌うようにおかあさんがいう。おかあさんはいつも楽しそうで、おかあさんが楽しそうだとわたしも嬉しかった。
「みどりさんみたいなひと」
「あら、わたしがお母さんなのに?」
 おかあさんがくすくす笑う。おかあさんが「お母さん」と言ってくれたことが嬉しくて、わたしも言葉を続ける。「だってみどりさん、ご飯おいしいし、掃除も上手だし、車も運転できるよ」大人の女の人、先生と、おかあさんとみどりさんしか知らないけど、みどりさんはすごい。「みどりさんに負けちゃった」笑うおかあさんの手を握る手に、力を込める。「いいんだよ、」

「そしたら、わたしがおかあさんを守ってあげるね」

 火が危ないならわたしが料理をすればいいし、車があれば一緒にいろいろなところにいける、と思うのだ。

 おかあさんは、17歳のときにわたしを生んだ。わたしが生まれてからの時間より、わたしのいなかった17年の方がまだずっと長い。だから、わたしが17歳になったら。それじゃあまだ早いかもしれないから、わたしが立派な大人になったら。
 おかあさん、「おかあさん」って呼んでも、おとうさんにするみたいに、笑って振り向いてくれるかなあ。
 手のかかる妹みたいなおかあさんも好きだし、お母さんみたいなみどりさんも好きだけど、そうしたら、そのとき、おかあさんは本当にわたしのお母さんになるような気がする。わたしのお母さん、はやっぱりおかあさんがいい。

 そんな風に考えていたら、突然おかあさんがわたしのことを抱き締めた。ぎゅうぎゅうと、痛いくらいに。ここ道路、なんだけどなあ。車は、大丈夫みたい。わたしが気にしてあげないと。おかあさんは、そんな風にわたしが考えているなんてもちろん知らない。
 好きなだけわたしをぎゅうぎゅう抱き締めて、頭の上から聞こえてくる、「わたしのかわいい碧ちゃん」は、おかあさんの最大級の愛情表現だ。わたしのかわいい碧ちゃん、

「あなた、とってもやさしい子ね」

 こう言ったあと、おかあさんの次に言う言葉はもう知っている。

「"おとうさんみたい"?」
「あら?どうしてわかったの?碧ちゃんはやさしい上にしっかり者で、しかも賢いのね」

 ゆるくなった腕の中、おかあさんを見上げる。おかあさんは笑っていた。

「碧ちゃん、ミモトさんによく似ているわ!」

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