…あれ、そういえば…。
ふとした瞬間に、ある事実に気付いてしまった。
…ちょっとまずいかも。
そう思ったのは次の瞬間。
…まぁ、いいや。
そう自分を納得させたのも、またその一瞬後。

きっと今、周りに誰かいたとしても、私がそんなこと考えてるなんて誰も気づかないくらい、全てが一瞬だった。
そして私はまた何事もなかったように仕事を続ける。

最近休んでない、とか。
最後に非番だったのはいつ?とか。
その日、私は何をして過ごしていただろう?…なんて。
そんなこと考えている暇があったら、目の前の仕事を早く片付けなければ。



「それ、いい?」

突然斜め上から声がして、はっと息を飲んだ。
見上げると、背の高い白衣を纏った人が、私が抱える本の山を指差しながら立っていた。

「あぁ…ごめん、びっくりさせたかな」
「いえ…申し訳ありません、阿近さん。こちらですか?」
「いや、その下の紺色の背表紙の」
「これですね」
「どうも」

差し出した古い濃紺の書籍を、阿近さんの白い手が受け取って、その場で中身を確認し出した。私は本の縁を滑るその白い指の動きや、細かな字を見つめる伏せたまぶたを、見つめていた。
阿近さんの口から、謝罪や感謝の言葉がごく自然に出ることに、最初は少し面食らった。見た目や雰囲気、技術開発局という所属から、もっと気むずかしい人だと思っていた。

瀞霊廷内で最大の資料室。この広い空間のうず高い書棚の間で、書籍の貸出や返却、整理、修復の仕事をする私は、研究資料を借りに頻繁にやってくる阿近さんと、よく顔をあわせる。
以前、ひどく傷んで解読不能になった年代物の稀少な研究論文を、技術開発局の依頼で私が修復したのがきっかけだった。
今では、挨拶と、その後ほんの少しの世間話をする程度の関係になった。

ざっと流し読みし終えた阿近さんは本を閉じて、私の方を向いた。

「蓮見さんさ、」
「あの、阿近さん」
「はい?」
「私程度のものは、呼び捨てていただいて結構です」

阿近さんは、少し間をあけて考えて、不思議そうに「そう?」と言った。

阿近さんは、私を呼ぶ時はいつも名字に「さん」付けをしてくださる。そんな顔に似合わず丁寧なところもまた意外だった。
でも、私よりもずっとずっと席次が高い阿近さんに、そんな呼ばれ方をされるわけにはいかない。
そもそも、私の方こそ他隊の三席を「さん」付けで呼ぶこと自体がおかしいのだが、「阿近三席」とお呼びすると、阿近さんが「堅苦しいからやめてほしい」と仰るので、恐れながらそうお呼びしている。

「私は一介の平隊員ですので…申し訳ありません」
「蓮見さんが謝ることなんて何もないよ」

ふ、と。まばたきの間に見逃してしまいそうなくらい微かに一瞬、阿近さんは笑った。そんな貴重なものを見ることができたので、また阿近さんが私を「さん」付けにしていることは黙っていることにした。

実はこの申し出はこれまでにも何度かしているのだが、阿近さんは揺るがない。




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