昨日、青峰っちから言われた。俺の声が出ないのは風邪なんかじゃないって。
わかってた。きっと俺や青峰っちだけじゃなく、みんな気付いてるはずだ。俺は咳も出ないし喉も痛くない。風邪なわけないんだ。身体的理由でないならば、自ずとそれは精神的理由からの症状だということになる。でも俺には思い当たる節がない。そりゃ、日常生活でストレスが溜まらないわけではないけれど、今まではバスケやって発散してたし。それに、黒子っちと居ることでそんなものはどこかに吹っ飛んでしまうくらい幸せなのだ。
突然声が出なくなる程ショッキングな出来事が最近あったという記憶はない。声が出なくなればいいなんて生まれてこの方思ったことなんてないし、今だってずっと声を出したいと思ってる。なのになんで、なんで俺の声は出ないんだ。
今日はまた黒子っちと一緒に帰っている。やっぱり俺たちの間に会話は無い。俺の声が出なくなってだいぶ経つし、帰り道の沈黙も以前ほど苦ではなくなってきたけれど、今日は何だかいつもとは違う空気が流れている気がする。黒子っちの纏う空気が、いつもと違う。昨日青峰っちと1on1をしたから、黒子っちにはひとりで帰って貰った。その間に何かあったんだろうか。もしかして、怒ってる?俺は黒子っちのことが大好きだけど、一向に黒子っちの気持ちを汲み取ることが出来ない。若干の表情の変化や雰囲気から、黒子っちが喜んでるのとか悲しんでるのを感じることもあるけど、そんなの稀だ。黒子っちが何を考えて、何を感じてるのか、俺にはわからない。黒子っちが俺と一緒に居るときどんな気持ちでいるのか俺は知らない。でも黒子っちはこうやって毎日一緒に帰ってくれているから、多分嫌がってはいないのだろう。
だから俺は黒子っちが少しでも俺との時間を楽しんでくれたらと思って、とにかく話をする。黒子っちに笑って欲しいから笑う。黒子っちと居ると俺は凄く嬉しくて、凄くどきどきして、凄く幸せだって伝えたくて。黒子っちも俺と居て楽しいって感じて欲しい。だから笑う。でも実際にはそんなこと考えなくたって、黒子っちを前にすると幸せな気持ちが溢れて自然と笑顔になってしまうんだ。
声が出なくなって、黒子っちに伝えたい気持ちを満足に伝えられなくなってしまったけれど、俺なりに一生懸命伝えてきたつもりだ。
もしかしてあまり伝わってないんだろうか。
依然として少し嫌な雰囲気を纏う黒子っちを恐る恐る見やると、いつも真っ直ぐ前を見て歩く黒子っちは少し俯いていて、悩ましげな表情を浮かべている。心此処に在らず、というような。
黒子っち
呼びたい名前は、口の中でただの吐息として生まれる。俺の気持ちは空気を震わせて黒子っちの耳に届くことはなく、全て二酸化炭素や水蒸気として空気中に溶けるだけ。
怒ってる?疲れてる?退屈?
何を考えてるの?
何も話せない俺と居てつまんない?
黒子っちを楽しませられない俺は、要らない?
そもそも俺が話せなくなる以前から、黒子っちは俺なんか要らなかったのかな。俺だけが楽しくて、俺だけが幸せで、俺だけが黒子っちを好きだったのかな。俺は黒子っちに好きって言うけど、黒子っちの返事はいつも「僕もです」とか「知ってます」で。その時の笑顔に偽りなんてないと思っていたけれど。黒子っちが俺に好きと伝えてくれたことは今まで一度もない。黒子っちが俺を拒否しないから、嫌がられていないと思ってた。黒子っちの纏う空気が柔らかい時は、黒子っちも幸せを感じてくれてるんだと思ってた。でもそれはただの俺の勘違いで、実際は、黒子っちは俺のことなんて好きでもなんでもなかったのかな。黒子っちはずっと、俺なんて見てなかったのかもしれない。俺が泣いたら面倒だから、ずっと俺に合わせてるだけだったのかもしれない。俺は黒子っちみたいに頭良くないし、五月蠅いし、バスケだってまだまだだし。黒子っちの求めるものが俺にあるとは到底思えない。毎日毎日纏わりつく俺を鬱陶しいと思うのは当然だし、いい加減面倒になったのかもしれない。黒子っちは俺なんかよりずっとポーカーフェイスが上手いから、黒子っちが嫌がってるなんて思いもしなかった。俺が話せなくなったのを機に、俺との関係を終わらそうとしてるのかもしれない。もしかして、今そんなに思い詰めているのは、俺に何て言って別れを告げようかと言葉を選んでいるから?
「黄瀬くん」
不意に呼ばれ、肩が大きく跳ねる。
黒子っちは俺を見ない。
黒子っち、
やだよ、俺。
「黄瀬くん」
俯いたまま尚も呼ばれる。いつもは真っ直ぐに目を見て呼んでくれるのに、今黒子っちは俺を視界にすら入れていない。黒子っちの目線まで屈んでも、黒子っちと目が合うことは叶わない。
黒子っち、俺ね、
黒子っちが望むなら、黒子っちが楽しく思ってくれるように頑張るから。
黒子っちが望むなら、五月蝿くしないから。
黒子っちが俺をやかましく思うなら、俺は一生声なんか出なくてもいい。
だから黒子っち、
俺を見て。
捨てないで。
「黄瀬くんの、声が…聞きたいんです」
黒子っちが何を言ったのか、理解出来なかった。突然俺の左腕を掴んだ黒子っちの手が少し震えていた。
「沢山話して」
「沢山僕を呼んで」
「好きって、言って」
あまりにも黒子っちが必死に訴えてくるから、訳が分からなくて。今まで黒子っちが俺に何かを求めてきたことなんてなかったから、尚更動揺する。
「好きです。好きなんです、黄瀬くんのことが」
初めて聴けた。黒子っちの気持ち。黒子っちの言葉はついさっきまで俺が感じていた不安を全て払拭するもので、俺の予想とは全く逆だったから少し戸惑ったけれど、黒子っちにどうしてもこの喜びを伝えたくて、焦る指で小さな液晶に文字を並べた。それを読んだ黒子っちはやっと俺を見てくれて。俺は黒子っちに精一杯の笑顔で幸せな気持ちを伝えた。
その瞬間、黒子っちは顔を歪めて俺を抱き締めた。肩口に埋まる黒子っちの顔は伺えないけれど、Yシャツが暖かく濡れて、黒子っちが泣いてるのがわかった。
黒子っち、どうして泣いてるの?
俺凄く嬉しいよ、黒子っちも俺と同じ気持ちだったんでしょ?
俺これからも黒子っちの隣に居て良いんだよね?
黒子っちの涙の理由はわからなかったけれど、そっと黒子っちの背中に手を回した。
「黄瀬くん、」
小さな、凄く小さな声で黒子っちがまた口を開いたから、黒子っちの言葉を聴きこぼさないように耳を澄まして黒子っちの言葉を聴くことにした。
「僕は、黄瀬くんに何も返せない」
何のことかはわからない。でも俺は黙って黒子っちの言葉を受け止める。
「僕は黄瀬くんからの沢山の愛を享受しているのに、黄瀬くんに返せない」
「黄瀬くんはそれでも僕を愛してくれるから、僕は黄瀬くんの真意がわからなくなってしまうんです」
俺の真意。俺の真意って、なんだろう。俺は黒子っちと一緒に居られて幸せで、黒子っちも幸せだったらいいって、そう思ってる。黒子っちは何も返せないって言うけど、黒子っちだってちゃんと返してくれてるよ。毎日する俺のくだらない話だって、相槌こそ素っ気ないけれどちゃんと聴いてくれてるって知ってるし、俺にだけ笑顔を見せてくれることも知ってるし、何だかんだ俺のこと凄く甘やかしてくれてるし。確かに言葉にはしないけど、黒子っちだって態度で十分伝えてくれてる。俺はそれだけで満足だよ?何で黒子っちはそんなに不安そうなの?黒子っちの言う俺の真意って、俺の思っていることとは違うのかな。
「もっと、我が儘になってください」
「僕にもっと不満をぶつけて、黄瀬くんの悲しみも苦痛も全部僕に話してください」
「言葉が欲しい時は、求めてください」
「不安なら、言ってください」
「僕は、黄瀬くんの気持ちに応えたい」
頬を暖かいものが伝った。
今まで気付いてなかったけど、多分俺は黒子っちの言葉を欲してた。黒子っちの気持ちを、聴きたかった。
顔を上げた黒子っちは俺と同じようにまだ涙を流していて、でもさっきみたいな辛そうな表情ではなかった。俺の頬に優しく触れて、絶えず流れる俺の涙をそっと拭ってふわりと微笑む黒子っちに、好きだという気持ちが溢れる。
「黄瀬くん、好きです」
そして黒子っちは静かに、触れるだけのキスをくれた。
黒子っち
口だけが動いて、唇が名前を形作る。必死に声帯を意識するけれど、長い間使われなかったそれは既に音の出し方を忘れてしまったようだ。どうやって黒子っちの名前を呼んでいたのかわからない。
黒子っち、俺も、俺も黒子っちのこと、
「…っ、」
俺の口からはやはり呼気しか出てこない。目の前の黒子っちが両手で俺の頬を包む。声を出そうとする俺をしっかり見据えて、待っている。
「…っ!」
沢山僕を呼んで
さっきの黒子っちの言葉がフラッシュバックする。黒子っちが求めるなら、俺は何度だって黒子っちを呼びたい。それなのに俺の喉は一向に言うことを聞かない。悔しくて、また涙が零れた。
好きって、言って
黒子っちが先程から俺に伝えてくれるこの言葉。黒子っちの澄んだ声を思い出して、イメージする。
「っ…、すっ…!」
久し振りに聴く自分の声は酷く掠れていて、黒子っちにちゃんと届いているのかわからなかったけれど、俺はとにかくその言葉を言い切ることに専念した。
「…っす、き」
言った途端、黒子っちはまた苦しいほどに強く俺を抱き締めた。
「っす…き」
「はい…!」
「す、き」
「っ…はい!」
ただただ好きと繰り返す俺に、黒子っちはちゃんと応えてくれて、また涙が溢れた。
「僕も、黄瀬くんが好きです…!」
黒子っちがまた俺の肩を濡らした。
俺、黒子っちのこと好きで良かった。黒子っちと居られて良かった。俺凄く幸せだよ。
ねえ黒子っち。これからは黒子っちが思ってることも、俺が思ってることも、沢山話そうね。同じ景色を見て、同じ気持ちで、二人で一緒に歩いていこうね。
俺が前みたいにちゃんと話せるようになったら、俺の気持ち全部話すから。俺が伝えたくて仕方ない黒子っちへの好きの気持ちを全部全部話すから。覚悟しててね、黒子っち。
end
20120714